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20.見上げるだけの光。

「ごめん、見るつもりはなかったんだ...... 封してないって知らなくて」
「気にしなくていいよ。これ、どっちにしろジョングクくんに渡そうと思って持ってきたから」
「俺に?」
「生活費とか、立て替えてもらってる分。これで足りるかわからないけど......」

 それは突拍子もない話だった。

 家賃は今まで通りだし、彼女はまともに食べないから食費といっても大したことないし、あとは生活雑貨的なものだって微々たるものだ。そもそも、あの遠い駅のホームで「帰ろう」と伝えたときに、そんなものすべて担う覚悟だったわけで。

「あ、でもごめん。今日の入院費ここから出すことになるから、もし足りなかったらまた...」
「いや、そうじゃなくて」

 彼女の瞳をまっすぐ見つめる。ここが正念場だって気がして。彼女も何かを感じとったのか、でも俺とは逆で目を伏せた。

「こっち見て」

 それでも彼女はうつむいていた。手元の封筒が、やけに存在感を放っていた。

「そのお金、どうしたの?」
「私のお金......」
「盗んできたとか思ってないよ(笑)」

 声のトーンで中和するのも、どこまで保つのかわからない。

「俺は救助したとき、所持品が何もなかったの知ってるしさ」
「うん......」
「だから違和感もあるし、心配だし...... こんな大金がいきなり出てくると」

 彼女は小さく頷く。俺が言っていることは、ちゃんとわかっているんだと思う。

「もう1回聞くけど...... どうやって用意したの、これ」
「どうやって...... 普通に稼いだだけだよ」
「じゃあなんでいきなり出てくるの」
「それは......」
「変なことしてないよね」
「変なことって何?」
「うーん......」

 俺の頭に浮かんでいたのは、今朝友達から言われた“売り”という言葉だけだった。知りたいのはそこなのに、どうにも、ストレートに伝えられなくて言葉に詰まる。

 彼女の尊厳を傷つける気がして。ふれられたくないところに素手でさわるような気がして。

 その瞬間、彼女がふっと顔をあげる。

「高校の時の噂、信じてるの?」
「信じては...... いないけど」
「体売って作ったお金だって思うの?」
「いや...... でも、いきなり大金が出てくるの、めっちゃ不自然で」
「そんなことしてない」
「じゃあどうしたの」

 俺が知りたいのは、いつもその先なのに。
 これまでも、今も。

「もしこれが良くないお金だったら、それなりの対応をしないといけないと思う。例えば借りたのなら返すべきだし、もし体とか心とかをすり減らしてまで得たのなら、もう二度とそんなことしないよう、一緒に考えなきゃいけない」
「だからそんなことしてないって」
「わかった。それならそう信じるから、ちゃんと納得がいく説明をしてほしい。本当にちょっと、心配で......」

 どうしてそこで口をつぐむのか。
 だから余計怪しくなるし、不安になるんじゃん。
 俺たちは八方塞がりになるんだろ。

 どうやったら次のステップに進めて、彼女が少しでも回復して、幸せになるのかなんてもう何百回も自問自答してきたのに──この1ヵ月半は本当に、絶望的だった。

 時々上のほうから射す光にすがっても、俺たちがいるのはずっと底だ。絶望みたいなものの。

「そのお金は、本当に私が貯めたお金だよ」

 それは、そうだと思うけど。

 けれど、ふと見た彼女の目が据わっているのに気付いた。何かが違うと思って、何か良からぬ予感がして、でも、気づいた時には。

「.........私の、葬儀費用」

 予想だにしない返答に、俺はただ固まるだけだった。

***

 すっかり夜の帳が下りた世界のなかを、とぼとぼと独り、帰る。

 彼女がやることなすことは、これまでも何かと衝撃だったけど...... さっきのそれは桁違いで。何も言えない俺に彼女は淡々と説明したのだった。

 とっくの昔に自死を決めていたこと。親族に迷惑をかけないよう、葬儀などにかかる費用をきちんと業者に問い合わせて、そのお金をすべて自分で貯めたこと。お金はパートを掛け持ちして、地道に働いて貯めたこと。

 目標金額に達して、ようやく自死できると思って安堵したこと。そして身辺整理を終えたこと。通帳、印鑑、身分証の3つだけを机の引き出しに残して家を出たこと。

 だけど、自分はなぜか生き残ってしまったこと。

 そのせいで入院費や生活費がかかって、あのお金を崩すしかないと思ったこと。昨日俺が仕事で出て行ったあと、実家へ向かったこと。引き出しのものはすべて、最後に見た状態のまま残っていたこと。それを持って帰ってきたこと。

 実家ではいろんなことを思い出して、不安に陥ったこと。眠りたいのに眠れなくて、早く眠るためにカレンダーの薬をすべて飲んだこと。

 最後に彼女は「それだけだよ」と言った。
 全然、“それだけ”なんかじゃなかった。

 自分が死ぬための金を貯めるために、身を粉にして働く間、彼女は何を思っていたんだろう。一緒にいるなかで、何度も切なくて、心苦しくて、胸が痛いことがあったのに、その話はあまりにも壮絶に思えて、決定的で、俺は......。

 彼女の言葉や表情、据わった目、封筒を支える細い指先。すべてを反芻しながら自宅についたとき、俺は泣きそうだった。大声をあげて、泣きたいくらいに苦しかったけど、彼女のほうがもっとずっと苦しかった、苦しいんだと思ったら、泣くことも躊躇われた。

 そのとき、はっきりと気付いた。

 とにかく、このままじゃダメなんだ。
 何が正解がわからないけど、俺がやっていること、俺たちが選んでいる道は間違っている。

 俺はスマホを取り出した。
 玄関先でうずくまって、音声通話のボタンを押した。

「......ヒョン、お願いです。助けてください」

 


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