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16.根も葉もないうわさ。

 初診の日から、10日くらいが過ぎた。

 24時間勤務明け、帰宅した俺は、ベッドから一番離れた窓のカーテンをゆっくりと開けた。うずくまって眠る彼女の邪魔にならないように。

 ずっとこんな感じだ。

 俺がいるときはなんとかごはんを食べさせるけど、仕事のときはたぶん、ベッドで一日中眠っている。ごはんはおろか、まともに水分もとらずに。

 冷蔵庫に入れていると絶対に飲まないから、枕元に置いておいたペットボトル。それでも、半分くらいしか飲んでいない。250mlは、人間が1日に摂取する水分として少なすぎる、って前も言ったんだけど。

 かかりつけ医ができた安堵なんて、もうとっくに、どっか行った。一向によくならない容態、日に日に弱って不安定になっていく精神状態。1回1回の過呼吸すら、危機感を覚えた。

「ただいま」

 ベッドに腰掛けて、首元に指をそえる。この脈拍だけが──彼女が生きているということだけが希望だけど、それだけでいいはずがなかった。

「おかえり......」

 消え入りそうな声。昨日も泣き腫らしたであろう目。

 頬に指をそえて、彼女をいたわる。

「昨日は寝れた?」
「ずっと寝てた......」
「そっか」
「うん」
「今日天気いいから、ちょっと散歩しよう。太陽を浴びるといいんだよ」
「うん......」
「魚好き?」
「さかな......」
「おいしい定食屋があるから、散歩がてら行こう」

 天気がいい日を喜べること。
 体を動かしてリフレッシュすること。
 おいしいものを食べて笑うこと。
 未来の計画にワクワクすること。

 俺ができるのはそういうなんでもないことだと思うけど、そうやって気分が少しずつ変わっていけば、そんな病気なんてあっという間に良くなるんじゃないかって。まあ、逆を言えば俺にはそれしかできないのではないか、と。 

 枕元のペットボトルのキャップを開けて、彼女に差し出す。

「せめて、1日1本はあけましょう」

 彼女が水を飲む間、テレビの横に掛けた、ポケット付きのカレンダーを見た。飲み忘れた薬が入ったままになっているお薬カレンダー。もう何日分も入ったまま。

 もちろん、昨日の分も。

「また飲まなかったの?」
「......ごめんなさい」
「先生の言うこと、ちゃんと聞かないとだめじゃん。それじゃ良くならないよ。先生も次の診察のとき困るし」
「うん......ごめん」

 彼女がそうやって謝るのを、もう何度も聞いた。でも、お薬カレンダーからきちんと薬がなくなる日は、一向にやってこない。

 こうやって、彼女と俺の距離は日に日に離れていく。そんな気がしてならなかった。俺の心にはずっと「なんで?」という言葉が浮かんで、彼女からは「ごめん」しか出てこない。こんな状況、絶対に健全じゃないし、体調だって回復するわけない。

 結局、俺が気分転換に連れ出せたことも、一緒においしいごはんを食べに行けたこともなくて。

 彼女を連れ帰ったときの威勢は、とっくに削がれてしまった。俺に残されているのは八方塞がりの焦りだけ。

 苦しいのは彼女であるはずなのに。
 俺まで、ふたりして、世界から爪弾きにされたような孤独。

***

 勤務明け、早朝のコンビニに寄る。今から仕事に向かうサラリーマンやOL、登校前の高校生で、店は少し混雑していた。同じ社会で生きる人たちなのに、俺とは時間軸が全然違う人たち。

 彼女は、薬が減らなくても、2週間おきに通院した。俺も付き添って。

 いつも総合受付の前で迷った。このままついていって、なんなら一緒に診察室に入って、ちゃんと俺から伝えるべきか。未遂したことも、今の日常の様子も、薬をちゃんと飲んでいないことも。

 それでも、俺がそれを言い出す前に彼女はエレベーターに吸い込まれていった。その度にまた、俺たちの距離が遠く離れて、もう二度と理解し合うチャンスもないような途方もない気持ちになった。

 今日もきっと、ごはんも水もとらず、薬も飲まずに眠っているはずだ。

(ほんと、どうしたもんだか......)

 1つため息をついて、目線を前に戻した瞬間、見覚えのある顔が見えた。

「お、ジョングクじゃん!」
「おー、久しぶり」

 紺色のスーツに身を包んだそいつは、高校時代の同級生だった。2・3年生のとき、続けて同じクラスにいたから仲良くて、それでも社会人になってからは数回しか会っていなかった。用事もなければ、なかなかLINEすることもないし。

「今から仕事?」
「ああ。おまえは仕事終わりか。夜勤あると大変だな」
「でも、1日働いたら2日休めるからな」
「また暇なときメシでも行こう。週末は?」
「あー...」
「あ、でも彼女とかいるか。サービスしなきゃな(笑)」

 うつ病の同級生と一緒に住んでますなんて、複雑で不可解にもほどがある。......そういえば、こいつも彼女のこと知ってるのか。

「じゃあ、また連絡する。仕事行ってくるわ〜」
「あ、ちょっと」
「何?」

 反対方向だけど、駅に向かって一緒に歩く。

「高3のときに同じクラスだった○○って覚えてる?」
「ああ、売りやってた子だろ?」
「え......?」

 朝の爽やかな空気に似つかわしくない言葉。予想外のそれに、俺は一瞬、立ち止まりかけた。

「売り?」
「知らなかったのか? ああ、でも、みんなおまえには気を遣って言わなかったのかも」
「なんで俺だけ?」
「おまえだけじゃん、クラスで○○と仲良かったの」
「そう......かもしれないけど、それって事実?」
「わかんないけど、高3の年明けくらいかな? 売りで捕まったってみんな言ってた。実際そこから全然学校来なくなったし。卒業したのかもわからん」

 そんなのたぶん、根も葉もない噂だとは思う。でも、彼女がやけに大人びていた理由、髪やメイクをちゃんとして美しく装っていた理由は、もしかしたら......。

「なんでいきなり○○? 今も連絡とってるのか?」
「いや...... なんかふと思い出して」

 そこで駅の改札口にたどりつき、それ以上は何も聞けなかった。

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