親の価値ってどう決まるの

もう
子育ても一通り終わったと
一応、自分に言い聞かせてる私は年金生活者。

同世代の子どもを持つ親たちの話題は子どもの結婚、出産と賑やかな便りが聞こえてくる。
我が家はまだまだ
悩み尽きない毎日の生活。

子どもの自立、親の自立、
まだまだ縁遠く
いつになれば手が離れるのかがわからない
多分、永遠と続くのだろう。

しかし、何かの節目が欲しいのが今の心境で
少しでも楽になればいいのに、しんどいなぁと本音が漏れる。
こんなことなら
20歳までは手塩にかけて育てて以降は
自立を促す生活を
強いれば良かったかな?
将来を通しての計画が私には無かった。
家庭を守る事に精一杯で先のことが見えていなかった
後の祭りである。

子育てが失敗したという表現は可笑しいと思う。
成功しているという表現も
可笑しい
基準は何で
誰からの評価なのか?

自分自身でもやり切った部分も、違ってた部分もわからないままだが
親として愛情もお金も掛けて時間も共有し、教えることはしてきたつもり
昭和から平成にかけての私中の子育てはこんなイメージで進んでいた。

『地域の子は地域で育てる』

『叱らない、褒めて育てる』

『基本的生活習慣を身につける』

『個性を伸ばそう』

『学力アップは集中力』

など数え切れないスローガンを掲げて
それぞれの子育てが
スタートして
親は競争心を剥き出しにはせず、したたかに進めていた。

そんな時代に揺さぶられても、今でいうママ友やグループ繋がりはあった。

神経質な子育てではなく
のびのびとやれた感もある。

あまりにも自由と奔放さを強調しすぎたからなのか、彼はいわゆる社会性が身に付かず、会社員も6年ぐらいで辞めた。

社会に順応できない性格は
幼い頃から垣間見えていたがいつかは順応できる大人になると願っていた。
社会的に見て
会社員や資格者として勤めるのが普通だが
それが出来ない人間もいるのだと
今はもう諦めている。

彼を理解して
彼の生き方を理解して
見守ることしかできない。

親同士の会話でも
子どもが何処の大学卒で何処の会社、結婚、住んでいる場所など個人情報が飛び交う世の中。

まだまだ
隣の人はなんぞや
人の噂話が気になる社会である。

私も話の流れで
そうなるシーンはあるが
あまり人の事をとやかく言いたく無いし、詮索や噂話も好きでは無い。

ウチはウチ。
よそはよそ。

なのに
最近の友人との会話は
子育て終盤の激レースのように現在の近況を詮索している。

我が家は
よそさまに自慢できるような近況報告はできない。

だって自由人だから。


私は別に良かれとも悪かれとも思わず
今を精一杯生きていれば
ひとさまに迷惑かけずに
生きていれば
お金に困らず
元気であれば
それでいいと思っている。


ただ
この社会的な
重圧感
異端児的なプレッシャーからの気分の重さは
なんとも言えない。

子育てがパーフェクトとは
やはり社会的に認められる
地位とかにつかないと
言えないのが現実。

子育ての価値は
どこで決まるの?
誰が決めるの?

心の中で
叫んでいる。


     追伸

今日たまたま診察に行った整形外科の待合で
私の隣に座っている方と隣の方との会話が聞こえてきた。
「孫は言葉がわからなくて苦労しました。当然ですが手話も教えていないし、この子の母親が亡くなってからそれはそれは毎日が大変でした。13年間でようやく意思疎通ができるようになりました。」
どうやら手話通訳の方に話しかけて手話通訳の方が隣の方に手話で話されてた。
その隣にお婆さんの障害を持つお孫さんが座っていました。
お婆さんの、子育ての葛藤や苦労や凄まじさが読み取れる会話でした。
そうなんですね!そんなふうに語れるお婆さんの優しさやしんどさが伝わってきてお婆さんよく頑張ってはるね!
心打たれて、こんな子育てもあるのだとしみじみ感動しました。


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