内界と外界、それぞれの正

私は
内心を踏み荒らさないなら
外界で客観的材料を集めて
人の性格を考えてみるのは賛成

でも

警戒心を抱いてしまうな
人の心を
外から勝手に決めつけることを
助長しそうで

本当のところ
他人には分からない
人の心の中を

分かったフリして
知ったかぶりして
決めつけて

ああだこうだいうの

ちょっと考えたら
怖いって分かる

それは
人の心を外様が勝手に判断して
ともすれば善悪までも
決めつけることになるから

社会の中でそれを考えるなら
気に食わない人物に
適当なラベルを貼って
排除することと同じ

ときの環境の気まぐれで
自分の善悪や罪が
人為によって決まる?

冗談じゃない、と
私は思う

人類の暗い歴史を眺めてみれば
これが何度となく
実際に起きたことだって
分かるはず

スケールを小さくすれば
これが日々
今でも人々の間で起きて
諍いを起こしていると
分かるはず

邪推は
悪意を無から生み出す
最たるもの

だから
日本国憲法にも
書いてあるのだしね
「思想・信条の自由は、これを保証する」
って

でも

客観的材料から
人の性格や価値観などを
推しはかろうとする人は

別にそんな悪意が
あるわけでもないと
私は思う

どちらかというと
単に知りたいだけ

それも
できるだけ正確に

だからたぶん困ってしまうのだよね
主観という見えない世界で
客観が歪んでしまうと
客観的には理解の役に立たないし
下手すれば誤解を助長してしまう

客観世界の法則性を
重視する人にとって
主観性は言わばノイズだし

主観世界
つまり心の真実を
重視する人にとって
客観性は極論まったくどうでもいい事

自らの心の働きが理解できたなら
それで十分

だから
私はどちらの世界にも
それぞれの理があると
思うのだけど

心はどこにあるのかと思うと
私は自分の世界の中だって思う

「私はなぜこれをしたのでしょう?」

これに答えられるのは私だけ

でも
意識がすべてではないから
無意識を映し出す鏡となる何かは
あったほうが良くて
それが類型論の持つ力だと
私も思う

だから
外の世界でどうこうするのも
それがいい鏡なら良いことだと思うし

「性格」なんて言わないで
「行動予測」と
内心から切り離した概念にするなら
それもまた道の一つだと思う

実際のところ
「性格」の概念が
人によって
主観世界に強く寄っていたり
逆に客観世界を重視していたりして

個人の捉え方によるところが
大きくて
きれいに二つの世界を分けるなんて
できることでもないと思うけど

一度線を引いてみた上で
どう付き合うかを考える方が
よさそうって思った


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