日記。エニア自認に目処がついて

なんか少し、心境が変わった。私がどこか自認に自信を持てなかったのには、いくつも要因があるのだけれど、ひとつは、憧れもあったのだと思う。

私にとって、タイプ4はとても素敵なもので、自分がそうであるなら、それは誇らしいものであったから。どうしても、その美しいイメージと、本当の自分を比較してしまって、自分に欠けている点が目立ってしまう。

だから、心はいつも疑念がいっぱいで、「願望に意識が塗りつぶされて、自分が見えていないだけでは?」「本当は他のタイプでしかないのでは?」と思って、他の候補をあたるのだけど、どこかすっきりしない結果だけが残って。

ときおり、自分の心の中や、過去の経験のなかに、「それでしかない」というものを見つけるのだけど、一つ一つの粒を見るだけでは、私の頭はいくらでも反論となる仮説を思い浮かべてしまう。

それがただの幻想、願望であって欲しくないから、そうでないと言い切れるだけの何かを探すのだけど、困ったことに、私はタイプ6仕草をしていることがあるし、より大きな時間枠で見れば、タイプ9のような行動をしていることもある。

タイプ9は未だにその核心を私が掴めていないので、実はタイプ4とどっちが強いのかは、感覚以上のことは言えないのだけど、タイプ6は、その本質を最近になってつかめたので、むしろはっきりと位置づけることができた。4と6が真逆に位置づけられる対立軸があって、その点で私は4だ、と思えたということ。

4と9にも、そういう軸があって、その点でも私は4だと思ってはいるけれど、まだそんなに自信はなくて、9らしい感情をこの胸に感じるまで、それはたぶんお預け。だから今はただ、全体的な感覚で、4でいいと思っているだけ。

それは、「幼少の頃の関係性を、いつまでも繰り返す」という原則に照らして、私を4にしたであろうエピソードがいくつもあるから。言い方をかえると、「私がずっと追い求めていた幻影」の出所に、辿り着けたから。それをエニアの論理が矛盾なく説明するから。

だからもう、はっきりいってもいいと思った。

やっぱり4だ。わたしは4だ。かっこよくも、かわいくもない、げいじゅつてきでもない、4

私のメモから

私は、芸術的でどこか影があって魅力的で心的にセクシーでもなければ、かっこよくもかわいくもない、ただそれだけのタイプ4だって。

それはそう。だって、それはただのラベルだから。よく言われている事だけど、本当のところ、それを自分のこととして受け止めたことなんてなかった。理屈がいくら整っていたって、心が開いていなければ、言葉なんて入ってこない。

そうしたとき、エニアの自認を自分のものとして受け入れたとき、「囚われ」とは、本当に、強力で、怨念のような、呪いだったのだって。しみじみ、分かった。

「私は別に『私』でなくてもいい」、その意味が初めて分かった気がした。今の私の、それに対する気持ちは、「そうは言っても求めたいけど?」というものだけれど、それがすべてではない、と思っただけ、進歩したものでしょう?

私は、過去、2回だけ、自分が「どうしようもない人間ではないのかもしれない」と現実の事実によって思ったときがあって、そのとき、私は、何か心が麻痺したような、何も感じない、静止したような、無とも透明ともつかないような自らの心のありようを感じていた。

今、また、そういう気持ち。こう書くと、いつも塞ぎこんでいたように見えてしまうかもしれないけど、このようなことを敢えて考えることもなく、それなりに、「人生なんてどうだっていい」と最近は思って生きてはいたのだけれど。

自認を疑い続けていたの、別に迷うこと自体は別にいい(急いで決めなくていい)のだけど、今にしてみれば、「自分のことが分かっていません」「タイプに夢を見ています」「タイプのイメージをとても気にしています」と言い続けていたようなもので、その点、なんだかとても恥ずかしい。

まあ、いいでしょ、べつに?こんなこと言ってたって、間違ってる可能性はいつだって、いまだってあるのだから。むしろそれは賢い証拠といってもいいはずよ?私の外向的直観Neちゃんが仕事した。そういうことにしましょう。

そうして今、リソの基礎編を読むと、驚くほど正しいことしか書いてない。でも、書いてないこともあって、その欠けたピースを、そのシンプルなロジックを、埋める心を持っていることが、そのタイプの証。

タイプ4はたぶんね、「自分らしく、それでいて、人と分かちあいたい人」。だから、ただ愛されるだけじゃダメなんだ。これが分かるなら、きっとあなたもそう。


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