なぜインターネットで日記を書くのか

「今、日記がアツい」とか言われるようになって久しい。ノートに記して机の鍵付き引出しにしまうタイプの日記ではなくて、インターネットに書くタイプの日記。

紙の雑誌をやめ、noteでの有料配信に移行した「テレビブロス」でも、日記特集があった。そのリード文は、「なんだか今、めちゃくちゃ日記が読みたい」と始まり、次のように続く。

きっと一生に一度レベルであろう、この特殊な状況下で皆どう過ごし、どんなことを考えているのか。まずそれが気になるし、人と会う機会が減った寂しさから「肌触りを感じる文章」に触れたくなった

そういうことなんだろう。極私的なことを、他の誰のためでもなく、書き手のために書くというのが日記のタテマエで、そこには嘘がないように感じられる。他人のプライベートを“そのまま”垣間見れるような気がする。肩肘張ってない、リラックスした、人のナマの言葉が読める。知人、友人、同僚、街ですれ違う人たち、有名人……みんなが日々なにかを感じ、なにかを考えたり考えなかったりしながら、ちょっとずつ生きているんだ、と実感できる気がする。
日記を読むことの良さについて、パッと思いつくのはこんなところだ。

では、インターネットで日記を書くことの良さはなんだろう。

僕も先月の誕生日から毎日日記のようなものを書いている。書きながら、頑なな自分が解れてきていることに最近気づいた。
毎日いろいろやるべきことがあるなかで日記を書くとなると、体裁に構っていられなくなる。気の利いた言い回しで誰かの琴線に触れるような文章を書きたくても、日記はそれを許さない。日記は等身大を要求する。
毎日言葉を書くことで自分の心と知性の輪郭をたしかめている。ヨガやピラティスをやるようにして、日記を書いている、ヨガもピラティスもやったことないけど、でも多分こんな感じなんだと思う。

そして僕にとってはここが最も重要なのだけれど、インターネットに日記を書くと、今の自分には“書けないこと”を知れる。今の自分が何を守りたいのかが分る。誰にも知られたくないことがあるのを確認する。そのことを、いつか話せるようになるといいな、と願いながら、今日は書かないでおく。なんでもかんでもシェアしてしまいそうになるこの時代に、差し出せない己のコアがあることを思い出せる。

今まで書けなかったことを書こうと覚悟したとき、僕は小説家になったり詩人になったりするのかもしれない。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?