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君達の激情、見せていただきました……劇場版少女歌劇レヴュースタァライトは観客の望んだ舞台の続き。全てに決別する物語。

劇場版少女歌劇レヴュースタァライトを、見た。
前回の記事ではアニメ版少女歌劇レヴュースタァライトと、アニメ総集編劇場版であるロンドロンドロンドの感想を書いた。
読めば分かるが素直な感想を綴ったら辛口になった。どうしても感応できなかったり納得できない部分があり、1クールアニメ特有の「深耕の足りなさ」を感じたからだ。
下記が前回の記事の感想なのだが……

全体的に彼女達がレヴューに臨む動機が弱いというのが気になってしまう。
さらに言うと関係性も薄い。

僕が言いたいのはただ一つ、もっと激情を発露してくれ。

殺意を、憎悪を、嫉妬を。
羨望を、憧憬を、愛情を。
孤独を、恐怖を、後悔を、無念を、苦痛を。
幸福を、恍惚を、歓喜を、感嘆を、希望を。

そういうモノがドロドロした群像劇、少女と少女の関係性を見せてくれ。

見た人は分かるかと思うが、上記の感想は全部劇場版にひっくり返された。
暴力的なまでの抽象表現、理性ではなく感情に訴えかけてくる演出の嵐、圧倒的な少女と少女の関係性の応酬で、観客の精神の欠乏を根こそぎ書き換え、テレビ放映版の少女歌劇レヴュースタァライトにアンサーを叩き付けた。
劇場版は答えであり、全てに決別する物語だ。


前回の記事が完全に前フリになってしまい普通に恥ずかしい……素直に謝罪です。素謝します。
あまりに良すぎてマジで全く関係のない童祭のジェネリック歌詞が脳内に流れてきた。ありがとう、ありがとう……博く麗しい人間と……

  • 「卒業」という普遍的なテーマを昇華するということ

劇場版レヴュースタァライトを一言で表すなら「卒業の物語」である。
卒業、それは古今東西ありとあらゆる物語で、どう調理してもエモーショナルになる、普遍的な概念。
とりわけ我々オタクが触れるコンテンツには「卒業」が付き纏い、都度その鮮烈な不可逆性に心を揺さぶられる。ご存じの通り、地球上の全てのオタクは陰鬱な10代を過ごしているため、その概念自体に憧憬があるので(注:個人的な思想です)
そして、この劇場版少女歌劇レヴュースタァライトという作品は、卒業や進路選択という端的なテーマについて、テレビ放映版で放置されてしまっていたそれぞれのキャラクターが持つ極めて本質的かつオタクが見たいタイプのクソデカ感情を、舞台という演出装置(アニメーション)でゴリゴリ精算をしながら走り抜けていく。
愛城華恋の空虚さや、人間的な感情を表出させない神楽ひかり、強者であるだけに見える天堂真矢、天堂真矢しか見ていない西條クロディーヌ、結局共依存してるように見える薫子と双葉、他人の言葉を依代とする星見純那、1人だけ依存から脱却した露崎まひる、狂人大場なな。
お前達のキャラクター性は、お前達がそのキャラクター性を自覚的に演じ、それを我々が鑑賞することで、完全な物へと昇華したぞ。まさか我々さえも作品の一部だとは。
多重構造な上にメタ的要素まである、とんでもないアニメーションです。

  • 大場ななという狂人が斬り捨てたのは、これまでのレヴュースタァライトという作品じゃないか?

皆殺しのレヴュー。
衝撃的な内容なのは言わずもがなだが、僕が感じたのは大場ななという女の感情と役割。
後に星見純那に対して個人的なクソデカ感情を向けるわけだが、この皆殺しのレヴューの時点で大場ななは舞台少女全員に対してクソデカ感情を向けている。
そのクソデカ感情は、2つの要素で構成されているように感じた。
1つは1人のキャラクターとして、スタァライトを無限再演するくらい同期が好きで、卒業を控えて腑抜けた同期に対して思うことがあるからだと思う。
でももう1つはレイヤー、つまり視座が違うように感じる。
ロンドロンドロンドの最後にもあったが、「少女歌劇レヴュースタァライト」という物語が完全に終わってしまい役が終了したという、完全な舞台少女の死を迎えているという事実。キャラクターは役目を終えた。これが死じゃなくてなんなのだ。
彼女は時空を歪めているから。ロンドロンドロンドでも観測者だった。シナリオの構造に関わっているキャラクターなど、もはや神に等しいだろ。
僕は大場ななの事をキャラクターとして認識しつつ「舞台装置」としても認識している。神の使いだろ、お前。

そして、舞台少女の死、その1つの本質的な原因ってレヴュー=オーディション=スタァライト(劇)じゃないですか?
正直僕は、あのオーディションの形は非常に歪だったと感じている。
あのオーディションに参加した少女達って、成長したか?
全員、何らかの停滞を余儀なくされていないか?
ある意味ゴールしてしまっている愛城華恋など空虚すぎて皆殺しのレヴューにさえ立てていない。
そして、別格の強者たる天堂真矢以外は全員、即興の舞台を演じることができず、斬り捨てられる。
レヴュースタァライトという作品は、舞台少女達を死なせてしまっている。そして彼女達はそのことに気付いていない。
大場ななはそれをキャラクター達に認知させるために、あのレヴューを執り行ったのではないか。

そう考えると、大場ななが斬り捨てたのはある意味でテレビ版のレヴュースタァライト、つまり以前までの物語なのではないかと思えてならない。
大場なな、お前、お前は……あまりに……神に近すぎる。

  • その他のあまりに良すぎる少女と少女の関係性、感情ぶっ放し激ヤバ最高レヴュー

彼女達が自らの死を自覚してから、本当の劇場版少女歌劇レヴュースタァライトが始まる。否、演じ始める。
以降のレヴューは感情の応酬、極上の関係性の精算、そして決別のストーリー、つまりオタクが1番好きなモノの詰め合わせである。
もはやオーディションではなく、ポジションゼロの必要ななくなったレヴューでは、ポジションゼロの向こう側に到達する戦いとなった。
構成が上手すぎるだろ。
もういちいち1つ1つのレヴューの“良さ”の感想は書きません。これは理性ではなく感情で理解する歌劇なので……

それでもやっぱり特に好きなレヴューがあります。
多分皆さん何となくお察ししていると思うが、「魂のレヴュー」です。これを好きじゃないオタクはこの世にいません。

テレビ版の時点でもはや真矢クロが1つの「少女と少女の関係性」としては極まっていたのは間違いないのだが、今回の「魂のレヴュー」はその関係性の果てに到達したと言っても過言ではない。
天堂真矢という舞台人と、悪魔に扮する西條クロディーヌが、まだ見ぬきらめきの舞台とひきかえに魂を賭け、契約する場面からレヴューは始まる。
戦いは互角に見えたが、舞台人の真矢は戦いを客席から滑稽そうに笑う。
真矢は自身を「魂のない神の器」であり、故にどんな役でもこなすと自称し、事実その圧倒的な実力でクロディーヌをボコボコにして上着を落とすのであった……
ここまでの時点で孤高で絶対的であった天堂真矢の自称の本質が機械仕掛けの鳥ですよ。ヤバいですよね。どんどん負けフラグを積み上げています。「ここから絶対に逆転されるじゃーん!」ってめちゃくちゃ気持ち悪い笑顔になりました。
「私は最強」って自称して本当に最強だったケースなど範馬勇次郎くらいで、イキってる奴はどんな世界でも大抵はボコボコにされます。感情のない神の器ですwつってボコボコにされないわけがないんだよ。

西條クロ髭ディーヌ「レヴューは終わらねぇ!(ドン!)」(注:そんなことは言っていません)

案の定、「this is 天堂真矢」をキャンセルされ、復活する西條クロディーヌ。
入学当初から天堂真矢を見つめ、追い求め、並び立ち、ライバルだと思っていたクロディーヌからすれば、天堂真矢が空虚な存在など許せない。許せるはずもないんだ。
機械仕掛けの鳥を斬り落とし、舞台の理を捻じ曲げる。お前の本質を理解しているのは私だけ。お前の魂を曝け出させられるのは私だけ。そうこれが、これこそが

魂のレヴューなのだ!

「月の輝き、星の愛など、血肉の通わぬ哀れな幻、爆ぜ散る激情、満たして今、アンタの心に叩き付ける!99期生、西條クロディーヌ!今宵、きらめきでアンタを!」

「輝くチャンスは不平等。千切って喰らえ共演者。愛も自由も敗者の戯言。天上天下唯我独煌。99期生、天堂真矢!奈落で見上げろ、私がスタァだ!」

最高すぎて意識飛びそうになっちゃったぁ!
激情を曝け出した真矢とクロディーヌは舞台を縦横無尽に舞い、剣を交わす。

「あんた、今までで1番かわいいわ!」
「私はいつだってかわいい!」

本当にいい加減にしてほしい。見てください、このエゴの塊。本当にかわいいね♡
是非西條クロディーヌが勝利したシーンを目に焼き付けてほしい。額装されたクロディーヌ、しかしクロディーヌ側から見ればこの構図は真矢への額装でもあるはずです。その対称性、この世で最も美しい物の一つ。感服しました。
「あなたは美しい」
2人とも美しいよー!(応援上映)

  • 愛城華恋と神楽ひかり。呪縛からの解放の物語。

僕がTV版の少女歌劇レヴュースタァライトを見た時、空虚すぎる主人公、愛城華恋に畏れ慄いた。
神楽ひかりとの約束を盲信的に追求する姿は、狭窄的な視野、主体性のない舞台少女としての印象を受けた。
今回の劇場版は、愛城華恋のパーソナリティを深掘りし、その積み重ねた人生観を共有する事により、TV版における神楽ひかりの約束という「呪い」を解呪する物語。
つまり、マジな話、これを見ないと少女歌劇レヴュースタァライトは全く終わることができないと言っても過言ではない。

愛城華恋の幼少期、引っ込み思案で友達とも上手くコミュニケーションが取れない彼女の姿が描かれた。
それは現在の愛城華恋の天真爛漫な主人公然として姿から乖離しているように見える。
何が彼女を変えたのか。
神楽ひかりとの出会い、そしてその約束は運命である。
そしてオタク諸君はそれまで積み重ねてきたオタク経験値的に直観で理解していると思うが、往々にして運命とは呪いである
その約束は愛城華恋にとっては輝かしい舞台少女への道をもたらしたと同時に、普通の女の子として過ごすという未来を消し去った。
裏拍をとってしまっている華恋のカスタネットを是正したように。

成長した愛城華恋は、ロンドンに行ってしまった神楽ひかりのことを一切調べない。約束を果たすために。
でも、その心中は穏やかではない。神楽ひかりがその約束を覚えている保証など、どこにもないのだから。
だから華恋は自分で課したルールを破り、ひかりの事を調べてしまう。

この幼少期から中学生までの愛城華恋の描写で、このレヴュースタァライトの製作者たちが、真の意味で愛城華恋を人間にしようと、救済しようとしているのがありありと伝わってきた。
正直、僕は心底敬服しました。

愛城華恋と神楽ひかりは、TV版の運命のレヴューにおいて、この作品で最も重要であったはずの星摘みの塔で対峙する。
そこで愛城華恋は初めて舞台の観客、外の世界に気付く。僕は以前、観客という存在の事を一切考慮していない主人公の振る舞いに違和感を覚えていたが、それもそのはず、全てはこの時、この瞬間のためだった。
今、主人公たる愛城華恋は、この少女歌劇レヴュースタァライトという舞台を認識したのだ。
それはつまり、演じ切ってしまった、舞台少女としての死。
そして、始まるのだ。本当の意味でのアタシ、再生産が。

  • 「ひかりに、勝ちたい」

愛城華恋の、人間性の獲得。
少女歌劇レヴュースタァライトを演じ切った。運命に縛り付けられたキャラクターからの解放。
愛城華恋は運命に決着を付け、次の舞台へと歩み始めた。
また、神楽ひかりも愛城華恋から逃げ出した自身と向き合い、お互いに縛り付けていた運命から解放された。

完璧なストーリーで、本当にびっくりしました。
劇場版少女歌劇レヴュースタァライト、最初はイクニフォロワーのメタファー地獄、抽象をいかに読み解くかの作品かと思いましたが、そんなことはない。そのメタファーは脳味噌に直接観念を注ぎ込んでくる、ある意味非常に分かりやすく、エンターテイメント性に溢れる物でした。
前回の記事で、もっと感情を発露してくれよ!とイキってしまいましたが、こんなに感情という感情を剥き出しにして爆発させてくるとは思わず、本当に驚嘆しました。
TV版も劇場版も、公開からかなり時間が経ってしまった作品だけど、触れてみて本当によかったと思います。
我々も次の舞台へ向かわなければいけませんね。


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