人それぞれの

やっぱり生きているだけで
しんどくなるっていうのはあるなと思う

新しい時間を生きると決めて
頭の中の思考を全取っ替して

明るく笑って
そんなふうにただいたいから

それなのに
意味もなく突然と喪失感が襲う
それは何か事が起こらなくても
まるで違う世界にきたみたいに
気持ちが落ち込んで
生きていくことを負担に感じてしまう

それは私がそこが楽だからなのか
そこが好きだからなのか
意識的にはわからないけれど
確実に私がそうしてると
今ならわかる
潜在意識がそうしてるのか
そもそも脳の仕組み自体がそうなのかは
わからない

コレを無理矢理感で
ポジティブ的変えることに
意味がないとも思う
心からポジティブでありたいと
そう思わなければ意味がない

新しい時間以前に戻ったわけじゃない
ただ
新しい時間を超えて
きっと少し淀みみたいなものがあるだけ
全てをきれいに流さないと
その先には行かないよって

そんな精神状態の中で
去年から見たかった余命10年を
やっと見に行った

みんなと同じようなところに泣いたし
すごくよかったと思った
やっぱり小松菜奈は好きだなと思った

ずっとモヤモヤ違和感があったのは
死んでいく人はかわいそうで
生きていける人はそれだけで
生きていくことを頑張るべきだと
そうゆう凝り固まった思想

私はまつりが羨ましいと思った
暖かい家族
余命宣告がある中で
心から愛せる人に出会えた
友達や文才
恵まれた環境のなか
10年と言う月日をかけて
死を迎える準備ができる
いいなぁ、って
だけど恵まれているからこそ
生きていきたいと願うんだろうなと

だけどきっとそれは
世の中的には間違った考えと
そう言われるかもしれないな

かずくんは絶望してて
生きていくことに希望を持てなかった

まつりからしたら
それはずるいになってしまうんだろうけど
生きていけるのに
ちゃんと生きていないのはダメだって
だけど人は生きていて
病気もなくて健康で
生きていける状況が整っていても
心が病気な時もある
死んでいく人はかわいそうで
生きていける人はかわいそうじゃない
それは誰が決めたんだろうって思う

まつりの家族が祭りを心配してることに
まつりは誰がかわいそうなんだろうねって言って
死んでいくことがわかってる本人は
きっと一番かわいそうなのかもしれないけど
大切な人が死んでいくその状況の中にいることも
かわいそうだと思う
きっとまつりは全部わかってるからこその
そんな辛さもあったんだろうと思う

この世の中にはたくさんの死がある
そんな中こんなふうに
愛されて愛して
10年もかけて自分と向き合って
生きるということと向き合って
死ということに向き合って 
きれいなまま死んでいくことができるなんて
ある意味ステキだなと思う

ただ生きていることが全てなんかじゃない
どう生きているか
何を感じるているか

生きていれば何とかなるとか
そりゃあそうなんだけど

余命いくばもない人が
それに向き合い懸命に毎秒を生きていること
それと
余命宣告のない人が
人生に絶望して死にたいと願うこと

どちらが正しくて
どちらが間違っているとか
そうゆうことじゃなくて

その人のその人の思いがあって
それを誰かがジャッジすることはできないと思う
その人がどれだけ苦しんでいるかなんて
結局は本人以外に誰にも分からないことなんだから

それは違うよとか
それは知らないからだよって思う

同じ土俵には立つことはない

人それぞれに気持ちがあって
そこに上とか下とか
ましとかそうゆうことじゃないって
そう思う

どんな状況や環境であっても
人それぞれに違った思いがそこにある
ただそれだけ

誰かの正しさは
誰にとっての間違いであるのだから

ただ自分に向き合えばいい
大切な人を思えばいい

ジャッジや批判や判定はいらないと思う

だけどそれがあるからこそ
生まれてくる大切な感情もあったりも
するのかもしれないけど

ただ私は私を生きていたいと思う


青の下で笑えたら
いつ死ぬとか
どうでもよくなる

所詮余命宣告のない人間の言う戯言かな

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