慈愛

YouTubeで仕入れた情報を
私の知識のように
姉と母に話した

その時父が母に話しかけて
私の話は宙に浮いたようになった

何かを愛するとき
オキシトシンが出てきて
ストレス耐性がてきるらしいよ

そんな話をした

二日後母が
そういえばオキシトシンがどうとか
言ってたのどんな話だった?と
私に聞いてきた

母がこんなふうに
私の話に興味を持つことも
わざわざ聞いてくることも
珍しい

母は私がもう一度あの話をすると
今愛するものがないからねーと
ミルを愛そうと思ったけど
やっぱり無理なんよと言った

孫に預けられたモモンガのミル
可哀想なミル

お母さん、
愛そうと思って愛することは
違うと思うよ
やっぱりうちから溢れ出ることじゃない?

慈愛が大切なんよ、と母に言った

母は愛するということも
今の母の中にはないのだなと思うと
なんだか可哀想と言う気持ちと
自分が全てであることは
こうゆうことだなと思った

私は夫や子供を愛する気持ちが
ここに自然とあって
それは暖かくて優しくて柔らかい

だけど時に冷たくて悲しくて
痛くて苦しい

だけど私は本当の意味で
愛するということを
子供に教えてもらった気がする

親としてどうしても
子供を思う時
幸せになって欲しい
笑顔でいて欲しいと望む
だけれどもそれは
親からの一方的な欲望である
それは親のエゴであり
愛ではないのだと

子供がどうゆう状況であっても
それを受け入れる
そばに居ても
離れていても
どこにいても
ただ思いただ受け入れる
それが愛なのだと

ただ思うだけで
心の中に存在を感じるだけで
幸せな気持ちになる

それを愛していると言うことなのだと

色々な愛の形があると思うけれど
私の愛はこれなのだと思う

私は母を愛しているかと聞かれると
わからないと答える

子供として母を思う気持ちはあるし
母に幸せでいて欲しい
楽でいて欲しいと思う

けれど一人きりになった時
母の存在を心に置いた時
暖かくはならない
むしろ
辛いと言うか悲しいというか
諦めのような気持ちになる

私はきっと母に愛されたかった
そんな気持ちが大きかったのだと思う
私を受け入れて欲しかったのだと思う
条件付きではなく
そのままの私を許して
ただ包み込んで欲しかった

だけどそれはただのわがままだろうと
それは叶わないことだろうと
押さえ込んだ感情が
よじりまがった心を生み出して
母への愛が純粋なものでなくなった
のだろうと
そう思う

優しい母
アル中の母
自分勝手な母
子供みたいな母
母親らしい母

私にとって母は
心のつっかえ棒みたいな
そんな存在かもしれない

素直に愛することができない
それは
反発かもしれないし
悲しみなのかもしれない

どちらにしても
私を受け入れてくれないからという
私の欲望がそこにある

私の欲望が叶えば
素直に愛していると言えるのかもしれない

近すぎて
色々ありすぎて
わからなくなってるけど

私は多分
母のことを
すごく愛しているのだと思う


その答えを
今知る必要も無いのかもしれない


お母さん、慈愛だよ。
自然に心の中にある慈愛だよ。

それを見つけたら
私にも教えて欲しいな、
そんな日は
くるのかな…

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