きっとね。

本を読んでる時や
音楽を聴いている時や
映画を見てる時

ふと訪れる
現実感のない
まるで違う次元の中にいるみたいな
あの瞬間が好きだと思う

だけどそれはとても地球的だし
感情的だと思うから
良いことなのか
良くないことなのかわからない

だけど少なくとも
私はその瞬間が好きだし
本当の私になれているような
何かの役を演じているような
相反するそんな感覚を
面白がっている気もする




ついこの間
話の流れで
この曲を聴いて
私のことを思うという話を
彼がした

それはどんな曲?
教えられないと

そんな会話をしたと言うのに
一ヶ月以上ぶりのお休みの日に
この曲だよと聴かせてくれた

私がその時教えてと言った訳でもなく
彼がその曲を教えてくれた

私は家事をしながら
その曲を聴いた
何だか恥ずかしいというか
いい歳をしてと言う気持ちもあり

そうゆうところは
彼はいつまでも純粋で
何だか同じになれないことに
罪悪感を抱いてしまうと同時に
そうゆうところが
彼らしくて
愛おしいところでもあるなと思う

その曲の歌詞は
ついてきてくれありがとうとか
辛い時もそばにいてくれありがとうとか
これから自分が君を幸せにするよとか
よくあるようなそんな歌詞で
彼はその歌詞を聴いていると
今までの私たちのことを
思い出すと言ってくれた

私も一人で
彼がそんな風に思った曲を聴いたら
涙が溢れてしまったかもしれない

だけど、
恥ずかしいし
いい歳だしと
邪念は素直な喜びにならず
静かに受け取って
二、三ことの感想を添えて
その曲のことを
何となく簡単に流してしまった

その歌詞は随分前に通り過ぎた
そんな時間のことような
そんな気もした
私たちはもっと進んでるよと

もっと若かったら
情熱的に嬉しかったかな

私はただ本質的なことを
求めているんだなと思った

恋愛ごっことか
家族ごっこで
私は幸せを手にしたつもりになっていた

誰かの言う幸せを
誰かの言うこうゆうことが
良いことだと幸せなことだと
決めつけられたそれがあれば
満足していた

そうじゃないって
本当はわかっていたのに
幸せのなり方すら
わからないままだった

例えば誰かに
こうゆうことがあったんだよと話すと
それは幸せなことだねと
そう言われることが
正しさだったし喜びになっていた

だけど私の幸せは
誰かにこうゆうことがあったんだよと
そう話しても
大抵の誰かは
そうなんだ、とかへーとか
それくらいの話のことで
それが私にとっての幸せだなんて
理解されないようなこと
そんなことなんだと思う

今までいつだって私は
彼に理解を求めて
共に共有することを望んだ

だけどそれは叶わないことで
彼はいつも彼の世界に生きているし
同情とか偽善がないから

嘘っぱちの優しさなんかもなくて

私はいつも嘘っぱちでいいから
優しくしてほしいとか
心を慰めてほしいとか
欲望が心に穴を開けていた

今はそれが良いんだと思える

本質的なことが大事だって
ちゃんとわかったから

それに彼は彼の世界に生きていて
私の世界に来てはくれないけど
それは私もそうで
彼の世界には行けない

言葉とか
こうすればいいんでしょみたいな行動とか
そうゆうのではなくて

ただ深い精神性の部分で 
私たちは繋がっていると思う

長い間そばにいて
色んなことを乗り越えてきたから

だけどそんな長い時間の中でも
共にいたというより
それぞれにいたと言う感覚で
だけど深いところで繋がりを感じてる

あなたはあなたの世界の中の私を見てる
そして私も
私の中のあなたをずっと見ていた

だから、私はちゃんと
あなたの世界のあなたを理解したいって
そう思ってる
長く一緒にいすぎて
防御反応してたことは事実といてある

傷つきたくない
痛くなりたくないってね

そうゆう自分優先的視点からじゃなくて
あなたからの視点で
ちゃんと受け止めていきたいと思う

たとえ、あなたが
私のことを
あなたの世界の私しか知らなくても
それでもいいと

本当の私の理解を望む事の欲望は
ただの欲であり
くだらない願望なのだと

きっと執着が外れて
本当の意味で私は
あなたと繋がっていけると
そう思う

わかってほしいは捨てて
私があなたの世界をわかりたいと
そう思うこと

違う場所に来てるんだな、って実感。
きっと
もっともっと私は本質に
きっと近づいていくのだと思う

きっとね。

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