逃避行(仮).2

タクシーが神保町に着くまで十五分とかからなかった。途中、パトカーが追って来たりしやしないかと、運転手に不審に思われない程度にミラー越しに何度か背後を確認したのだが、それらしい車は(勿論俺は、覆面パトカーの見分け方などまるで知らないのだが)一台もなかったようだ。さすがに、非常線が張られるまでにはもう少し時間がかかるのだろう。

太陽がやたらと眩しい。夏日照りだ。それにしても、太陽の光はこれ程澄んでいただろうか。こんなにも、白い、透明な光線だっただろうか。俺が勘定も済ませずに勝手にドアを開けて外に出てしまったので、運転手が慌ててクラクションを二度、プップと軽く鳴らした。俺は、ズボンから財布を取り出して五千円札を、窓越しに運転手へと差し出す。運転手は、何も言わずに、グローブボックスをガチャガチャやって釣り銭を寄越した。五百円玉なしの、二枚の千円札以外は全て百円玉でのジャラジャラとした釣り銭だったのは、運転手らしいせめてもの抗議表明だったのだろう。金を払わずに車を降りてしまったのは明らかにこちらの過失だったが、俺はあまりにも堂々としていたので、まるで運転手の方が間違っていて、俺が許してやっているようだった。理由だの因果など関係なく、いつだって偉そうにしているやつの方が正しく見えるものだ。

エミリは『白馬車』の、一番奥の席に座っていた。おかしい、と俺は感じた。最近は、『レトロ喫茶』などと雑誌でも取り上げられて、古書など興味を持たぬ若い女性らも訪れるようになった神保町である。この白馬車は、神保町と水道橋の真ん中辺りに位置していて、古書店が立ち並ぶ通りからは離れてはいるものの、昼過ぎのこの時間に、客が一人というのは考え難い。実際、俺は『常連』と読ばれても良いほど頻繁に訪れていたが、いつだって半分くらいは客が入っていた。古書通りの辺りの店と違って、静かな客が多いことが、この店の魅力だった。

それにしても、今日は静かすぎる。俺は、入り口のキャッシャー(白塗りの、まるで裁判所の証言のようだ)に立っている女将を見た。喫茶店に女将なんて言葉は不似合いなようだが、実際この白髪に黄の色を混ぜた頭の七十頃の女主人には、女将という呼び方がぴったりであった。いつもは女将の他にバイトが二、三人はいるのだが、今日は彼らもいないようだった。

俺はもう一度、奥の席を見やった。合点がいった。喫茶店の中には、いつもと違うという違和感が充満していた。そしてその奥に、エミリが、この美しい女が座っていた。全て彼女の仕業なのだ!まるで、夢の中のように、誰かが(夢の場合は無意識という奴が)指揮者になって、この世界を統率しているようだ。エミリを中心に、全てが美しく、齟齬がなく動いている。

「さあ、こっちへいらっしゃいよ」エミリにそう言われて、俺は奥の席まで歩いていく。一歩、二歩、三歩・・・エミリが座ったまま両手を広げたので、俺はまるで幼い子供が母親に対してするように、ゆっくりとその腕の中に、正面から体を沈めていった。

エミリは、優しく俺の頭を撫でてくれた。まるで、娼婦が赤子に接するように、優しい手つきだった。

「三時までは貸切にしてもらったのよ」さっき俺がキョロキョロしていたからだろう。エミリが教えてくれた。やはり、彼女の仕業だった訳だ。しかし、偶然であってくれた方が美しかったのにな、とも思う。『エミリの仕業の偶然』だったなら、一番素敵だったのに。

エミリは夏らしく白いTシャツにホットパンツという格好で、二人がけのソファの上に、俺を腕と股の間に挟んでいる。だから、俺は甘い香りに包まれている。

「随分汗かいてるのね」

そう言ってエミリは、尻のポケットから取り出したハンカチで俺の額を拭いてくれた。

俺は、尋ねられてもいないのに、エレベーターで犬飼を撃って、おそらく即死だったこと、エミリに言われた通り、ビルの隙間で血のついた服と拳銃を捨てて来たことを話した。自分でも驚いたが、興奮のせいで上手く話せず、何度か舌を噛んだ。

「ちょっと珈琲でも飲んで行きましょうか」

俺の頬を両手で挟みながら、「大丈夫、あなたに発信機でもついてない限り、ここに警察が来るのはもっと後よ。あなたの立ち寄りそうな場所を探す段になってからだから、多分後何時間かはかかるわよ」

彼女は、『多分』というが、俺には、彼女が言った事は、全てその通りになる気がする。俺自身も気づき始めてるし、多分あんたもそうだろうと思うから白状してしまうが、俺は、この女を『信仰』し始めている。この女が口にする事は、世界への『命令』のように感じ始めている。

「アイス二つね」と、女将がお盆に珈琲を乗せてやって来た。迅速な仕事だ。普段ならこうはいかない。必ず、客のオーダーを聞いてから準備しなくてはいけない。それは、このクソ暑いのに、頑なにホットのコーヒーを頼む客もいるからという理由だけではない。それは、そう決まっているからだ。飲食店では、必ず客のオーダーを聞いてから、その通りのものを出してやらなくてはならない。しかし、それにどれほどの意味があるのだろうか。客達は、本当に自分の欲しいものを知っているのだろうか。

女将は、ストローを持って来てはくれなかった。コーヒーを盆ごと机において、キッチンの方へ戻ってしまった。エミリがグラスの縁に唇をつけて飲んでいるので、俺も自分のグラスを盆の上から取って同じように飲んだ。冷たさが、まず舌に、そこから放射状に口内全体へと広がる。

やっと俺は、いつまでも彼女に抱かれているのが恥ずかしくなって立ち上がった。彼女の香りのおかげか、或いはコーヒーの冷たさのおかげか、身体に纏わりついていた興奮も大分取れたようだった。

「まあ、コーヒーくらいゆっくり飲みなさいよ」

エミリは上目遣いにそう言いながら、口を尖らせてコーヒーを啜っていく。ゾゾッ、ゾゾッとわざと音を立てているようだ。ゆっくりと飲み干していく。しかし、俺は苛立ちを覚えることなどなかった。全てはこうあるべきなのだ。エミリのリズムが一番正しいのだ。そして、俺の立ち上がったのと、エミリが今空にしたグラスを盆に戻して、細い足を優雅に伸ばして立ち上がったタイミングとのズレも、これもまた正しいものなのだ。

「行きましょうか。店に入って来た時のあなたは随分興奮してたから、一回くらい射精させてあげないと落ち着かないかと思ったけど、なかなかお利口さんね」

エミリがそう言うと、キッチンの奥で女将が「カカッ」と笑った。

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