逃避行(仮).3

「暗いのはいいにしても、あっついわねえ」

そう言いながらエミリが髪をかきあげると、微かな汗の匂いを感じた。しかし、それはエミリの本来の体臭である甘い匂いと混じりあっていたので、不快な感じは一切なかった。俺もべっとりと汗をかいていたので、きっと腐った果物のような匂いがしただろう。自分の体臭は感じにくい。そういえば、人は、鏡に映して自分を見るとき、脳のごまかしで、他人が見るよりも少し優れて見えると聞いたことがある。他者から見られる自分と、自分自身が見る自分は常に異なっているという訳だ。そして、常に、その見え方にはギャップがある。傲慢や猜疑心や絶望は、そのギャップの溝の奥底から、いつでも『自分』を狙っている。

エミリと俺を守るようにして、積み上げられた段ボールは、太い紐でしっかりと固定されていた。俺たちはその影に隠れるようにして座り込んでいる。先程チラッとだけ顔を見た運転手の腕がいいのだろう。不思議な程揺れが少ない。俺たちの足元に固定されずに置かれた小さな段ボール類も、滑って位置を変えるようなこともなく、静かに俺たちの足元に留まっている。

「大阪にいきましょうよ」と、白馬車を出るなりエミリは言った。でも、新幹線やバスに乗るのはもう無理だろうと、国際的にも優秀だと聞く日本警察の仕事を思いながら俺は言ったが、エミリは悪戯っ子のように笑って、「良いこと考えたのよ」と言った。笑うと軽く笑窪が出来て、まるで十代のように見える。反対に、何かを考えているような時の表情は、二十六と同じくらいのようにも見える。不思議に美しい女だと、改めて思った。

白馬車の裏路地には、大手運送会社のトラックが停まっていた。

エミリは、ドア越しに運転手と何か話し、貨物入れにプリントされた黒い猫と並んで立っている僕に微笑んで見せた。全て作戦通りという訳だ。エミリと運転手との間に、どんな関係があるのかは知らない。しかし、彼もエミリを『信仰』するものなのだろう。明らかな職務違反を犯してまで、エミリに協力している。しかも、見ず知らずの殺人者の男も一緒である(エミリが彼に、どこまで話しているかは不明だったが)

暗闇の奥に、俺は何かを見ているような気分になる。酷く酔っ払った後に、一度嘔吐して頭をむりやり落ち着かせた時と同じような感覚だ。それは『深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ』という言葉を思い出させる。何ものでもないもの、しかし、無であり、また全てでもあるもの。そういうものを、俺は見つめている。久しぶりの感覚であった。何故いつも隣にいてはくれないのか。こちらから歩み寄っていかなければ、深淵はその姿を見せはしない。しかも、我々が出会うのは、深淵の足元の、爪先にしか過ぎないのだ。深淵は、我々と向かい合おうとはしない。『深淵を覗く時、深淵もまたこちはを覗いているのだ』とは言っても、我々の熱望的な、切実な視線に対して、深淵の方は、冷たい、嘲笑の一瞥をくれるだけだ。

しかし、今、ついに俺は、殺人者となった俺は、そのことによって、深淵としても一目置かずにはいられない存在になったと言うと、それは大袈裟な思い違いだろうか。引き金を引いたあの瞬間、俺はあらゆる名前が、自分自身から剥がれて行くのを感じた。曰く社会、曰く道徳、曰く日本人、曰く部下、曰く会社。そして俺は、何ものでもなくなった。そしてまた、それ故に何ものでもあるようになった。それは深淵に、無様なミニチュアではあっても、少し似ているところがあるのではないか。

エミリがTシャツを脱いだ。上半身は、水色のブラジャーだけ、腰の辺りには、余分な脂肪も筋肉もない。スポーツで無理やり作り上げたのではなくて、生まれつきの美しいボディラインなのだろう。

暗闇の中で、彼女の白い肌は、まるで雪のように淡く光っていた。

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