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感傷という名のゴミを抱えていきている。

大阪0:34発「サンライズ出雲・瀬戸」東京ゆき。
東京到着は朝7:08ということは、あの東海道を約6時間30分で駆け抜けてしまうことになる。

浴衣に着替えて、ぼんやりと車窓を眺めていると、次から次へと昼間のように明るい照明に照らされて働く人々の姿が現れる。電気、軌道、設備……夜間のわずかな列車の隙間を縫って作業が進められている。
当たり前のことだけど「こういう人たちがいるからいまの自分があるんだ」と実感することができて胸にグッとくるものがある。

当たり前のことだって、この目で見ないと気づくことは難しいのだ。

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エイヒレをかじかじしながら、いただきもののワンカップをすすり、気分もほんわりとしてきたところで室内灯を消す。

スマホで時間を確認して揺れる車内で横になろうとすると列車はちょうど山科の大築堤に差しかかっていた。窓から進行方向後ろ側に目をやると、ダブルデッカーの編成が円弧を描いて続いている。「世界の車窓から」でよく見るあのアングルだ。

特になにをするでもなく、なんなら行ったところで東京駅で20分だけ過ごして折り返してくるだけ、実りある行為か、無駄な行為か、二つに一つから選ぶとすれば「無駄な行為」でしかない。実際、お金も時間も無駄だと思うし、ましてやこんなご時世だ。

無駄なことだらけ。結局、自分という生き物はそういう存在なのだと思う。理知的な文章も書けないし、冷静な分析もできないし、学術的な造詣が深いわけでもない。なにかを徹底的に追いかけることもできなければ、盲目的に信仰することもできない。

自分にできることなんて、家から夜逃げするようにこっそり抜け出して、人のいない商店街でマスクを外して「冬の匂いがする!」とウキウキしたり、こうして流れゆく車窓を眺めながら自分語りに溺れたり、人々の生活を支えるために懸命に汗をかき、働く人々に勝手に感動するくらいのことだ。

人から見ればつまらないものだと思うし、ともすれば迷惑なことかもしれない。それでも、そういう瞬間は僕にとっての宝物だから。

人からゴミだといわれても、それを拾い集めて生きていきたいと思う。というか、それ以外の生き方が分からないんだよね。

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