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旅先の砂


尼崎の埃

GWが明けてしばらく経ったころ、スニーカーを履いてみると、砂が入り込んでザラザラしていることに気づいた。
玄関先でスニーカーをひっくり返して、パンパンとはたいているとあれ?っと思う。

「この砂、どこの砂だ」

あぁ、そういえば恐山の宇曽利湖畔を歩いているときの砂か──。

そんなことを考えている間にも、恐山の砂は宙を舞い、風に混じって、尼崎の埃になって消えていく。

これは僕が「映え」のために刺した風車ではない。念のため。

思い出というのは、そんなものだと思う。どれだけ大切にしようと、心に留めておこうとしても、日常という波に洗われては消えていく。
だから自分という人間は、旅先でもあまり写真を撮らない。わざと撮らないということまではしないけど、つぶさに記録するという気持ちはない。

別に上等なニヒリズムを語るつもりはないけど、忘れてしまえばいいのだと思っている。そうしてすべてを忘れていく過程で、ふと顔を出したもの、それこそに本当の価値があるように感じるからだ。

これはそんな過程を残すものであり、旅行の記録ではない。よっていい加減なことも書くし、言ってもないことを言ったように書くものだったりする。

遠野の橋

「デンデラ野に連れていってくれ。それが見れたらいい」
同行者の"猫耳"への数少ないリクエストだった。

山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺及火渡、青笹の字中沢並に土渕村の字土淵に、ともにダンノハナと云ふ地名あり。その近傍に之と相対して必ず連台野と云ふ地あり。昔は六十を超えたる老人はすべて此連台野へ追ひ遣るの習ありき。老人は徒に死んで了ふこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊したり。その為に今も山口土淵辺いては朝に野らに出づるをハカダチと云ひ、夕方野らより帰ることをハカアガリと云ふと云へり。

柳田國男『遠野物語』新潮社,2016年,P.74~75

遠野について調べるうちに自分がもっとも衝撃を受けたのがこの「蓮台野(デンデラ野)」についての記述だった。
いわゆる棄老伝説は日本各地に存在するが、それが史跡として存在していることを知って、その姿をこの目で見ておきたかったのだ。

あまりにも残酷な風景だと感じた

そうして訪れたデンデラ野は、すぐそこに人々の営みがあり、姥捨や棄老を連想されるような陰惨さはなかった。
夕暮れの台地にはのびやかに空が広がり、穏やかな時間が流れている。中国山地の阻まれた狭い空こそが「田舎」と思っている人間にとっては不思議な景色だ。

思えば、デンデラ野が陰惨だ残酷だというのは現代の目線に他ならない。ひとたび飢饉になれば人が人の肉を食らうような地獄が生まれていた時代である。自分たちの集落という共同体を守るため、ギリギリの判断で生み出されたのがこの「デンデラ野」という常識だったということは理解しておかなければならない。

とはいえ、デンデラ野からかまどの煙だって見えただろう。ほんの数か月前まで、自分たちも「生」の側にいたはずなのに。そんな人だっていただろう。生と死があまりにもリニアにつながっているこの景色を自分は最後までどう理解すればいいのか分からなかった。

それにしたってこのレリーフは直接的すぎる。




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