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読書後のまどろみ、感性の世界へようこそ

自分がもはやどこに居るかわからなくなった。”わからなくなった”とは、その前にはわかっていたということである。今、私は、とある世界に来たようだ。
深海に沈んでいくような孤独と暗闇を感じる。そこに生き物が居るようで居ない、音が聞こえるようで聞こえない。「あれ、何も感じないぞ。」そんなことを思いながら暗闇に沈んでいる。どうやらこの深海には海底が存在しないらしい。

感性に触れるとき、別世界に通じるスイッチが入る。どうやら深海は、現実世界のものではなく別の世界のものであるようだ。今まで見ていた或いは聞いていた私の現実世界は偽りだったのだろうか。何が真実なのか分からない。現実世界、これは実体ではなかったのかもしれない。

スイッチと表現したのは、適切であるように思う。一瞬にして世界が変わるからである。そして、今までの音や景色が全く別のものに感じるのである。一つ一つが心地良い。現実世界において自分が雑音と感じる音でさえ、別世界では美しいものとなる。美しいと感じるのである。この世界には美しいものしかないらしい。

現実世界か別世界か、今の私にはどちらでも良く、それを議論する必要はない。目の前にあるー正確に言えば”感じている”ー私の生きてきた道がまっすぐと、伸びる。誰もが許された道であると何者かが言う。皆にひらかれた道である、と。
暗く、道標のない状態で、しかし私には、まっすぐに進める自信がある。じっと今に居ること、そして、ゆっくり進むことが許されている。
過去である後ろを向くこと、未来である遠い先を見ようと目を凝らすこと、これは必要ないらしい。ただ、今に居て、今を進めば良いのだ。
これほどまでに安寧とした世界があるだろうか。


……どうやら、まどろみから覚めてきたようだ。深海のような暗闇が吸い込まれ、いつもの景色が少しづつ見えてきた。これを「現実世界に戻ってきた」と呼ぶのだろうが、私は違うかもしれない。本来の自分は、深海のような別世界が故郷なのかもしれないと思っている。

「これで良いんだよ。」

最後に聞こえた言葉を、頭の中で反芻する。
もしかすると、今いる世界は現実世界と酷似した別の世界かもしれない。しかし、それで良いのだ。これで、良いのだ。

私は、今に居て、今を進んでいる。
何にも縛られていない。
これまで感じていた束縛は、縛られていると”思い込んでいる”だけだった。

「これで良いんだよ。」

確かなものとして存在しているのは、この言葉だけだった。
それもまた、許されていた。



上記の文章は、本に直接殴り書きしていたものである。書いた記憶がほとんどないため、まどろんでいた時に書いたようだ。
私が芸術に触れる時、このような別世界に没入することがしばしばある。そんな様子をありのまま表現していた殴り書きは貴重であるから、ここに記した。
文章はめちゃくちゃだが、これで良いのである。
これが、良いのかもしれない。


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