劇場版少女歌劇レヴュースタァライトの衝撃(ネタバレ有りまとまらない感想文)

少女歌劇レヴュースタァライトはブシロードのメディアミックスコンテンツだ。舞台演劇・アニメ・ゲームなどで展開している

”舞台演劇”をテーマに役者として舞台に立つことに魅入られた少女達がトップスタァ 主演の座をかけて学校地下にあるステージで”オーディション”と呼ばれる決闘が行われ、舞台少女たちは己の煌めきを証明するために戦い続ける。

というのがTV版も大まかなストーリー
とは言ってもいわゆる「まどか☆マギカ」や「仮面ライダー龍騎」のように実際に戦い殺し合いが行われているのではなく、競い合う少女たちの心象風景のようなものをメタファー的に視聴者に見せているもの・・・とまで説明してしまえば野暮か

かつて少女革命ウテナの終盤で「これまでの戦いはプラネタリウムが見せた演出であった」と明かされるような感じであるが、ウテナと違うのはこの物語が「役者」の物語であり”舞台”の話だということだ、何か黒幕のような存在がいてそれに戦わされているのではなく 主人公達は役者でありそこに舞台がある限り演じる。舞台を用意したのは敵でも味方でもない「面白い舞台を見たい」と願う観客であり、観客は舞台を用意できてもステージの上には一切干渉出来ないのだ。この観客をニア・イコールテレビの前の視聴者としたのも中々に刺激的だった。

何のために役者になりたかったのか、舞台演劇の何に魅了され、何が眩しかったのか。そういった物語の末に答えを見つけるのがTV版の大まかな物語だった。

映画でもドラマでもなく舞台演劇をテーマとしてるのは「同じ演目 同じ台本であっても 演じる日によって違う物が出力される」という生の舞台を強く意識したものだ、実際にこのレヴュースタァライトも声優さんがこの「少女歌劇レヴュースタァライト」を演じる舞台を上演しており「第何回公演はここでちょっと動きがこうなってるんだよね」と同じ演目同じ台本でも違うことを見に行った人たちは語り合う。

そういったナマの舞台が持つ生き物としての特性をことさらに強調したのが、劇場総集編である「ロンド・ロンド・ロンド」である、TVシリーズの登場人物の一人「大場なな」が「ずっと同じ舞台を繰り返したい」という願いを持っていたキャラクターであることにフィーチャーし「一度TV版で見た映像のはずなのに 編集を加えるだけで全てが変わる」という表現を加えた一味違う作品だ TVシリーズを全部見た人も総集編とは思わず是非見て欲しい。


そして今回の劇場版少女歌劇レヴュースタァライトだ

「同じ演目を何度繰り返しても 何度でも違う物が生まれる」としてきたこの作品が最後に向き合う物語は卒業

電車は必ず次の駅へ
では舞台少女は?
あなたは?

戯曲「スタァライト」を3年間演じてきた彼女たちの次
卒業後の進路、演劇学校を出たらどこの劇団へ?何に挑戦するの?

将来の話が登場人物たちの前に提示される、「お前が輝くところを一番近くで」「君と一緒に舞台に立ちたい」と演劇そのものではなく目の前の相手しか見えてなかった娘たちにも選択の時がやってくる。

などと書いていけば私の文章力ではWikipediaに公開初日に書かれるネタバレあらすじみたいな文章になってしまうだろう。

とにかく凄かった

キャラクターの情動に合わせて形を変えて動き出すステージの演出は極限まで進化し、同じ映像の中で次々と違うジャンルのダイナミックでとんでもない映像が飛び出す

キャラクター同士が本音をぶつけあう力強いセリフの応酬に頭がクラクラする。

この映画の一つのモチーフは電車だ「次の駅に必ず到着するもの」として描かれる、TV版レヴュースタァライトはしばしば「少女革命ウテナ」のオマージュが指摘される、実際に今作の古川監督が幾原邦彦監督の元で働いていたことなどから推察されるものでもあるが、今回の列車は輪るピングドラムからの引用であろう、しかしその使われ方はまったく違うものだ

ピングドラムの列車は逃れられない運命を円環を示し環状線になっている。違う運命に向かうには列車を乗り換えるしか無い。

今作の列車は直進する「次の駅に必ず到着する」「だがお前はどうだ?」という問いかけだ。

とかそういう話からもっと掘り下げていける真面目な話もあるんだろうがそこからのダイナミックに俺は負けてしまった

マッドマックス怒りのデスロードに怒られるだろレベルで繰り広げられる荒野を激走する列車、砂嵐に飛び込みそして舞台へ戻ってくる。

単線の列車は視点と終点を往復する、一度始点に戻された列車は愛城 華恋のこれまでの人生を一度振り返り、そして終点をブースターでぶっちぎって空に飛び立つ!!!!少女が演じるべき運命の舞台へ

最後のセリフ「レヴュースタァライトを演じきって空っぽになっちゃった」「探せばいいじゃない 次の舞台を」の言葉も象徴的だ、彼女たちはスクリーンの前の俺たちに向けて「少女歌劇レヴュースタァライト」を演じ切ったのである、スタッフロールと共にそれぞれのその後の進路が描かれるがそれはまさに「俺たちが見に行きた演目である少女歌劇レヴュースタァライトは終幕したのでこれから彼女達は次の演目でまた違う役を演じるが、俺達が見ているのはスタァライトなのでここまで」という 観客と演者の距離と区切りをつける、観客のメタファーだったキリンは「私は舞台が稼働するための燃料」といって燃え尽きて落ちていく、それが何を意味してるのか考察して書いたりするほうがすごい数字が出るんだろうけど違う、そんな凄まじいものを見せられた衝撃が胸を打つ。

凄い細かいシーンなのだが5歳時代のの愛城華恋の引っ込み思案を表現するツールとしてピコピコ遊んでるのがゲーム機ではなく「最近の女児アニメで良く発売される液晶画面付きのあれ(アイカツフォンだったりプリキュアのマスコットをお世話する端末)」の系譜で表現されていたことが割と「日本のアニメでちゃんと登場人物の子供時代の玩具をこういうリアルなものにしてるの珍しくない?!?!?!?」ってびっくりしちゃった

しかもそのことがきちんと「普通の女の子としての幸せを捨てて舞台の上でスポットライトを浴びる魅力に取り憑かれてしまった舞台少女」という言葉に引き寄せられるように 玩具も触らなくなるし中学生時代にはガラケーからスマホへの乗り換えが同級生の誰よりも遅いと表現されていくのが凄かった

このまま書き進めると本当に巻き起こった出来事の箇条書きになりかねないのでこの文章はここでストップするが俺はとにかくこの映画でめちゃくちゃ感動した本当は何かもっと上手いこと言いたいしキャラクターの感情とかも掘り下げて言語化したいがまとまらないのでTwitterでいろんな人の感想を読もうと思う すごい映画だったね ではまた次回までごきげんよう

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