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恋するリコーダー・本村睦幸さんからリコーダーを教えてもらう (6)


チャルメラみたいな音が出る


リコーダーの音質なんて、考えたことがなかった。ピーピー鳴ればいいと思っていた。リコーダーを習うと決めてソプラノリコーダーを吹いていてふと「なんか、私の音って濁っていてチャルメラみたいじゃない?」と、疑問が。

録音して聞き直してみると「やっぱり、濁音が混じっている」。ピーではなくビーっていう妙な振動音が混じる。あっれー? どうしてクリアな音が出ないの?
ラから上はピーって聞こえるけれど、ソから下にはもうビーが混じる。

いろいろ理由を考えてみた。穴の押さえ方が弱いのかもしれない。しっかり穴を押さえこめばクリアな音が出るかも。吹いている時にリコーダーが振動してぶるぶるするのが指を伝わってくるのだけれど、これが原因か?

よっしゃと力を入れて穴をしっかり塞ぐと、おっ、確かに音はクリアになるじゃん。でも強く押さえすぎて指が動かん!

穴をどれくらいの強さで押さえるのかコツがあるんだろうか?うーん、気になる。やっぱりチャルメラだな。ソプラノリコーダーがチャルメラになってる。やだなあ。これは今後の課題だ。


リコーダー語があったなんて


「リコーダー語は、テッ、テッ、テッ」なんですよ。と、初回のレッスンで言われて、新鮮なショックと驚き。リコーダー語! リコーダーにもことばがあったのか!

リズムに合せて、テッテッテ、と舌で音を切る、その切り方で心を伝え語るように吹くそうなのだ。

むむむ……。テッテッテで、語るように吹く……ということは、おお!あれだ、アルタイ人が口琴で愛を語るような感じだな。

十年ほど前に、ロシアのアルタイ共和国の国民的歌手ボロット・ヴァイルシェフと、音楽家の巻上公一さんと一緒にアルタイを旅行したことがあった。シャーマニズム発祥の地と言われるアルタイ。そりゃあもう遠くて辺鄙でステキなところだった。

かつてアルタイ人は口琴を使ってコミュニケーションしていたそうだ。口琴のことばは「ビヨーン、ビヨーン」である。
……いや、もっと複雑で繊細な音が出るんだが、初めて聞くとビヨーンとしか認識できないんだよね。

リコーダーのことばテッテッテも、自在に使いこなせるようになると言語を超えた情感を伝えることができるのかも。非言語的コミュニケーションによって伝わるのは、口琴の場合「空気感」だった。草原を走る馬、流れる雲、吹き抜ける風、雨……。

テッテッテ……で、伝えられるのはなんなんだろう? わくわくするが、
リコーダー語の初心者には、まだ未知の領域である。


曲想ってどんなものなの?


さらに本村さんは「曲想」という私の知らない概念を初回から繰り出して来られた。

「シンプルな曲にも気持ちの流れがあるので、そこを味わうように吹いてください」

ふむふむ、指づかいよりも大切にすべきは「曲想」なのか。ここで私は考えた。曲想とは、いわゆる詩情という、アレかなあ? わかるようでいて、つかみ所がない曲想という概念。

このおたまじゃくしの羅列から曲想とやらを読み取ることが私にできるのか? じーっと、楽譜を見るが、ただ五線に黒い点が連なっているだけにしか、今のところ見えない。

考えてみたら、作曲家は五線譜の上にこの黒い点を連ねてシンフォニーを書くわけだよ。その作業は小説を書くのと似ていいなくもない。この黒い点が言葉ってわけだね。

おたまじゃくしが五線のどこにいるかで音が違う。音が違うだけじゃない、リズムが違う。リズムは大事だ。リズムは文章を書く上でもとても大事で、言葉にリズムがない文章は読めたもんじゃない。が、が、音楽にとってリズムはリズム以上のものみたい。

音楽ってなんなんだ?

やたらと哲学的になる文学者。そうだなあ、私にとって音楽とは、音とリズムの組み合わせで映像を見せてくれるもの。言葉によって想起するイメージより、むしろ写実に近い? 

リズムで運ばれる音から音への移動の中にぎゅーっと「風景」が詰まっているみたいな。ソからミに行くのとファに行くのでは「風景」が違う、そんな感じかも。


「蛍の光」に蛍は出てこないよ


「じゃあ、曲の練習をしてみましょう」

ということで、取り組んだのが卒業式の定番ソング「蛍の光」。これは、デパートの閉店間際にもかかるおなじみの曲だ。この「蛍の光」を、じっくりと味わいながら吹いてみましょう、ということに。

知っている曲だから、なんとなく感覚で吹けてしまうのだが……、ここに来て、しみじみ「蛍の光」を楽譜通りにリコーダーで吹いてみて、驚天動地。

ちょっと待った〜!

蛍なんか、ぜんぜんイメージできない。タイトルと音楽がまるで違う。だ、誰だ、この曲に「蛍の光」なんてタイトルをつけたのは。

この音の流れとリズムから立ち上がってくるのは、牧歌的な田園風景。しかも夕暮れだ。山からゆったりと流れてくる川。広がる畑、作物が実っている。そこで働く人々、悠久の月日のなかでも変わらぬ自然の風景、人が生き、死んでいってもこの景色は変わらずここにあるぞ〜!みたいな風景がぐわーーーんと浮かんでくるじゃないか。

ああ、しかし、日本語の歌詞が邪魔する。歌詞のイメージに引っ張られる。くっそー、音を素直に脳内映像に変換できない!

歌詞を知らなかった白紙の状態に戻りたい。音だけを味わいたいが、卒業式のイメージから逃れられない、ああ邪魔くさい。「蛍の光」も「窓の雪」も、この曲想からイメージできない。全然ちゃうやんか〜と思うが、卒業式が邪魔をして風景が読み取れない……。

言葉の感染力ってのは恐ろしく強いんだなあ。歌詞があっていいのか悪いのか、むしろ言葉はないほうが曲想を読むにはいいんじゃないか?

最初のレッスンで私が知ったこと……、それは「蛍の光」のメロディーに蛍は立ち現われない……という、謎であった。

つづく。

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