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宙ぶらりん

仙台拘置所で処刑された元死刑囚林泰男さんとは長いつきあいだった(7月26日にオウム事件死刑囚の大量処刑があり、林さんは処刑された6人のうちちの一人として新聞やテレビにも写真が出た)。死刑判決が出る少し前に出会った林さんとは、とうとう拘置所の面会室でしか会えなかった(林さんが法廷の証言台に立った時に傍聴にいったけれど、つい立てとカーテンで姿が隠されて一目も見ることができなかった)。面会室には監視カメラがあり、薄暗く、窓がない。だからいつも明るい色の服を着て行った。

そういえば、彼の横顔が思い出せない。

面会室ではお互い真正面を向きあいあまり動いたりできなかったから、何だか照れくさかった。しかし、慣れとは恐ろしいもので14年も面会をしているうちに監視の刑務官が気にならなくなった。時々、会話に引き込んで困らせ、からかったりもした。みんな同じ人間なのだよなあ。

東京拘置所での面会は長くて20分(短いと11分)。仙台に移ってからは面会時間が30分になり、とてもありがたかった(法律では面会時間は30分以上と決まっている)。仙台には、8回通った。8×30分=240分も会話ができた。仙台拘置所の受け付けのお姉さんの東北訛りの明るい声に救われた。緑色のプラスチックのイスが冷たくて春先の面会は冷えた。通される面会室はいつも4番だった。死刑囚の面会室は決まっているのだろうか。私が、あそこに行くことはもうないだろうな。

長く死刑囚の林さんと交流してしきたものだから感覚がズレており、どうしても加害者に寄り添いがちなので、被害者の方に不愉快な思いをさせることを書いているかもしれない。そのことはいつも心に引っかかっていて、怖い。でも、人には出会った責任、のようなものがあり、縁あって林さんと出会ってしまったわけで、もし、被害者のどなたかと、このように深い縁があれば、その方に同じように寄り添おうとすると思う。

途中で縁が切れる交流者もいる。私たちは、そうはならなかった。喧嘩もしたけれど、お互いを遠ざけようとはしなかった。

圧倒的に長く東京拘置所に通っていたのに、いま思い出すのは寒い町の小さな駅舎のような、あの仙台拘置所の待合室と、いつも元気で優しかったお姉さんのことだ。面会の人も少なくて、番号を呼ばれるまでいつもぼんやりテレビニュースを見ていた。

処刑が終わり、私にできることは何もなくなった。すでに林さんは火葬され、遺品はご家族の元へ。「田口さんからの手紙は弁護士さんに預けてあります」処刑前の手紙にはそうあった。「捨ててくれてよかったのに」「でも、作家さんだから必要かと思って」

仙台拘置所には不思議な慣例があって、収容者が面会者を見送ってから退席する。私が立ち上がり面会室を出るまで、林さんは遮へい板の向こうに座ったまま手を振っていた。7月13日が最後の面会となったが、あの時も「じゃあ、また来るね、バイバイ!」

受付のお姉さんが「おつかれさまでしたー」と笑顔で言う。林さんはもちろん、受付のお姉さんを知らない。死刑囚は外部とのあらゆる接触を遮断される。弁護士と面会を許された数人の交流者だけが、文通、面会できるけれど、林さんからの手紙は「一回につき7枚」と制限があり、なるべく小さな字で書いて枚数をかせごうとしていたが、なにせもう老眼なので、字はだんだん大きくなってしまうのだった。

彼がどれほど社会から隔離されて生きていたかは、交流してきた私ですら理解しているとは言い難く、ふつうの人が想像できないのは無理もないと思う。朝、目が覚めてすぐに手紙を書くことは禁じられていたし、監視カメラ、刑務官の見回り、人と接触できないけれど、人から監視され続けている状態。食べるときも、用をたすときも、誰かに見られている。

「どうして、林さんは耐えていられるの、そんなに穏やかなの?」と聞いたら、意外な答えが返ってきた。「たぶん、自分がたいへんな罪を犯した犯罪者なのだと常に常に言い聞かせていることで耐えられるのです。あれだけの罪を犯したのだから、どんな罰を受けてもあたりまえなのだと。そう思うことで耐えられるのだと思います。そうでなけば発狂してしまうでしょう。だから、もし冤罪で死刑囚になったらきっと気が変になってしまうと思います。それは、ほんとうにむごいことだと思います」

多分、私は彼の苦悩をなにも理解していなかったし、いまも、そしてこの先も彼の胸の裡を理解することはないと思う。

でも、そういう私に林さんは面白いことを言った。「わかったと思って誤解するよりは、わからないでいてください。田口さんは、宙ぶらりんでいてください。わからないということをわかることがわかったってことじゃないでしょうか」



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