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小説を書くということ

どんな表現にとっても、どんな芸術にとっても、大切なことは発信する力ではなくて、受信する力だと思う。能動性ではなく、受動的な在り方。

みんな文章はとても上手。この国の識字率はとても高い、教育水準も高い。だからほとんどの人が文章を書いて自分を表現することができる。そして表現している。発信している。みんなが表現者になって自由に表現するすてきな時代になった。

けれども、受信する力は、もしかしたら落ちているのかもと思う。受信する………というよりも、いやおうもなく情報が入ってきてしまうと言ったほうがよいかもしれない。多くの人が発信し続けるこの社会では、受信能力が強いと少し生きがたい。なので無自覚に遮断している。

音、映像。他人の声。文字。物。街に、ネットに氾濫しているさまざまな情報を遮断していないとしんどい。けれども遮断してしまうと、物語を受信できない。よって小説は書けない。

「ものがたり」は「もの」が「かたる」ことを書き留めたものだ。もの……とは、得体のしれない見えないものだ。人間の自我を超えたものの声を聴き分けて、その「もの」の語りを受信すること。それがものがたりを書くということ。

「もの」が「かたる」ことに向けて受動的で在る、そういう在り方が「小説を書く」という行為なので、発信するとか、表現する……とは、異なったフェイズに自らを置いておくことを学ばなければならない。
能動的でありすぎると「ネタ」を集めることに夢中になるけれど、ネタは自我が「面白い」と思った出来事だ。それはそれで面白いかもしれないが、自我が入りすぎていて自分が想定した以上のものにならない。

ものがたりは「もの」が主体なので作者の思惑を超えてしまう。それを許すような受動的な態度であれば「ものがたり」を書き記すことができる。

「もの」の「かたり」は私の常識を超えているので、驚きをもってそれを聞くことが多く、私の自我で作りだそうとしたものではないし、到底、作りだすことができない。

いろんな人が「私の意図を超えた出来事」についてのものがたりを持っていて、それは少し矛盾していたり、不整合であったりする。この不整合さにあまりに整合性をもたせてしまうと、ものがたりは生命力を奪われて死んでしまう。

小説は読み終わってスカっとするよりも、むしろ、モヤっとするし、涙が流れるというよりも、呆然と取り残される。自我を超えて「もの」の「かたり」を受信して書かれたものを読んだ時の読書体験は、自分が正しいと感じていたものを崩壊させる力がある。

受信する力……、自らのアンテナを全開させていくこと、これはいまの時代にとても重要な技だ。

誰もが受信する力をもっている。生きるために多くの人がその受信能力を眠らせている。が、感性は作動している。人間は全方位から情報をキャッチしている。観察力を高めていけば、自分が遮断して捨てていたものを発見できる。

ほんのちょっと開くと、ガジェットのなかから「もの」の「かたり」が現われる。それが、小説のソースだ。多くはそれぞれの記憶と深く結びついており、そこから神秘が漏れてくる。

それを品にするために、多少のテクニックが必要だけれど、まずは受信することだ。若いほど受信力は高い。年をとるとアンテナもしぼんでくる。

いまの特殊な社会状況のなかで、「もの」たちの「かたり」を受信できる作家が増えていくだろうし、その人たちが世界を変えていくだろう。この地上の「人あらざるものたち」の声を受信し、それを書いてほしい。受け身であること、ぼんやりとなにもせずに受動的であること。ネタを追い求めすぎないこと。書くことはすべて、自分のなかにあるし、必要なものは黙っていても受けとれる。

タイトルに使用しているイメージ写真は、仙台のビジネスホテルで撮影したベッドの上のシーツだ。この日は交流していた死刑囚との面会の日、面会のために仙台拘置所に行った。面会後に部屋にもどりやることもなく、窓からの光がきれいなのでシーツの写真を撮った。そのシーツが死体のように思え、写真を加工してつくった。これが最後の面会になった。似たような写真をこの時期、仙台で何枚か撮った。いま、これをつくろうと思っても、もうこういうコラージュができない。

2018年、死刑執行の情報を遮断したまま、閉じている。来月、文庫が出る。カバー写真にこの頃に撮った写真が使われることになった。同じようなものは二度と撮れないし、自分が撮ったとも思えない。

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