見出し画像

静かなあたまと開かれたこころ

「静かなあたまと開かれたこころ」吉福伸逸アンソロジー集 サンガ出版

吉福伸逸さんは日本に「精神世界」を広めた人だ。トランスパーソナル心理学をはじめとして、彼がカリフォルニアから持ち帰ったカウンターカルチャー的文化は80年代の精神世界ムーブメントに発展していった。吉福さんは私にとっては「伝説の人」だった。超越している人、変人、天才……いろんな噂を聞いた。もう世捨て人のようになって、ハワイでサーフィン三昧をしている……とか。
エサレン研究所で神秘体験の洗礼を受けた意識高い系のおじさんみたいなタイプかな、くらいに思っていた。そういう人、団塊世代にはいるよなあと。
2012年に来日してトランスパーソナル学会に講演をしに来た吉福さんを紹介していただき、2時間ほど個人的にお話をする機会を得た。神楽坂のカフェで奥さまと一緒に雑談をした。その後に仏教誌「Sanga」の対談企画でもう一度対談をした。この対談の一年後に吉福さんは他界された。


吉福さんは、噂通りの(以上の)「天才」で、サンスクリット語をカリフォルニア大学バークレー校で学び、エサレンでさまざまなトランスパーソナルな体験をし、知識も体験も圧巻で、凄みがあり、私にはまったく歯が立たない。話についていくだけでやっとだった。自らの体を使って人体実験をしているこの世代のおじさまたちは、いつも私たちの上に圧倒的な存在感で君臨してきた。私は彼らのおこぼれを拾って育って来たような気がする。
吉福さんはなんども「僕は対談相手としては最低だから」と言った。「なぜかというとね、僕は仕事柄というのもあるけれど相手を怒らせることになんにもストレスを感じないだんよ」と。

いろいろな方と対談をしていると相手を怒らせて予定調和をぶち壊すタイプの人も多い。吉福さんはむしろ紳士だなと思った。つっけんどんだけれど、率直で自然体な人だった。

仏教雑誌の対談だったので、話は仏教に振れた。吉福さんは日本の仏教者に対して手厳しかったが、そこが面白かった。

残念だったことは、私の突っ込みが甘くて「ボーディ・サットバ(菩薩)」の「救済」という、大乗仏教の根幹ともいえるもテーマでうまく議論ができなかったことだ。
「一切衆生の救済というものは納得できない」「菩薩が一切衆生を救うという発想が出てきたことは仏教の堕落だ」と吉福さんが語ったことに疑問を感じたが話を展開できなかった。このことは、対談が本になった後もずっと気にかかっていた。

「個(菩薩)」と「衆生」を分けるものとして「菩薩の請願」を捉えている吉福さんは、その発想では分裂していて人を癒せないと言う。

しかし、私の理解は違った。菩薩の背後には「輪廻転生を繰り返し続ける」という超越時間が存在している。菩薩は人間であるけれども、菩薩が存在するレイヤーはそもそも「自他」の区別が不可能な時空間にあるとされており、輪廻転生を前提として「すべての者が救済されなければ私の救済もありえない」という「請願」……強い意図が、時空間を貫いていく。ボーディ・サットバは、そもそも前提として「私があなたを救う」という次元の話ではないのでは?と突っ込みたかった。

とはいえ、このボーディサットバ、つまり「他者救済」は、仏教的意識変容なくしては理解できるものではなく(日常的意識状態では不可能)、よって実に簡単に下層レイヤーの「私が他者を救う」という意味に誤変換されてしまう「危険なターム」であることは間違いない。

そこを危惧する吉福さんの考えも理解できた。だからこそ、ボーディ・サットバは、仏教的意識変容の胆ではないか? 踏み絵ではないか? そうではないですか、吉福さん。……と今更に問いかけてみる。

この話題の後に「……でも僕は親鸞が好きなんですよ」と語った吉福さんは、私のもやもやを察して脇道をこっそり示していたのではと、今になって思う。

親鸞は浄土真宗の開祖。「我が名を称えた者を救う」という請願が成就して菩薩は阿弥陀如来となった。よって阿弥陀の名を称えた者は救われる。かの有名な「南無阿弥陀仏」である。

「私が他者を救う」という発想の危うさを回避し、阿弥陀仏の名を称えることで救われる……という「教え」を言語化した親鸞は「自分は愚か者だから誤りを犯す」という深い自覚をもっていた。この親鸞の意識変容後の有り方を、吉福さんは好きだったんじゃないかなあ……と。

トランスパーソナル心理学は、いまはあまり流行っていない。こういう言い方はよくないのかもしれないが……。トランスパーソナル心理学的な立ち位置に立つと、「魔境を経験して大変なことになったとしても、それはそれで大切な学びとしてよし」ということになる。どういう情況になっていようがその人にとってそれがいま必要であるから起きている。都合の悪いことを体験していくことに価値がある、という寛容と大胆さが社会から消えてきたのはいつ頃からだろう。いまやとっちらかって大変なことになっている人を「私が救済する」という人ばかりがはびこっている。しかも、短時間でレスキューしようとする人たちが増えている。

人は他者の意識変容に対して「全身全霊で何もしないこと」。
この「全身全霊(熱烈)」という在り方がブッダの最後の教えだ。

それも意識の変容なくして「全身全霊」のことばの意味はわからない。「いったい意識変容ってなんですか?」まったく、意識変容とは変容を体験していない人間にとって腹立たしい、いんちき臭い言葉だ。

意識が変容したからといって、それが継続するわけでもない。ようするに意識変容なんて、起きたことが大事なのではなくて、そこに注意深くしていることが大事なのだ。よくよく注意深く、内的変化も外的変化も観察しつつ何が起きているのかをよく見きわめること。そのための瞑想なのだ。

言葉は、記号として行き交っている。だが、脳にあるソフトをインストールすると、言葉のパッケージが解凍されてヴィヴィッドな意味が出現する。このソフトが「悟り」などとと呼ばれているものだ。

しかも言葉には「音」が付随してあり、「音(オン)」はオンそのものが「暗号」で、このオンを脳に送ることで作動されるデフォルトのアプリがある。密教的な発想だが、音楽家だった吉福さんはその暗号を直感的に理解していたと感じる。
それを端的に示しているのが「サンスクリット語」なのだ、ということも。

対談の最後に、吉福さんは「資本主義」と「民主主義」と「ヒューマニズム」の3つがいま書きたいテーマだ、と言い切ったあとで、「(セラピーの現場には)大変な情況で悩んでいる人が飛び込んでくるから、やっちゃいけないとわかっているのに手を差し伸べるんだよね」と締めくくった。ここが、親鸞っぽいなあ。この話で対談を終わることができるのだから、すごい人だ。私だったらもっとかっこいいことを言って締めくくると思う。

この本の巻末に私と吉福さんの対談が入っています。こうして本になると文字でしかお届けできないけれど、私の中には、あの日あの時あの場にいた吉福さんの声が残っており、音としても耳に響いてくるのです。そして、言葉にしていることよりもはるかにたくさんのことを声が伝えてくれるのです。よく耳を澄まして聴くとは、音楽を聴くようにこの微細な振動に触れることを指すのだと思う。音にはすべてがある。いまここにすべてがある。それを感受できることもまた、意識の変容の過程にある。だからと言って、なにかが大きく変わることはないし、無限に日々、この過程が繰り返されていくことに意識を向けていなければ、ただの高慢ちきで優越感の強い人間になってしまうだけなのだけれど。

吉福さんはそのことがよくわかっている落ち着いた静かな人、そして同時に激しくて全身全霊の人でした。

田口ランディ


日々の執筆を応援してくださってありがとうございます。