牢獄
社会にとって意義のある活動をしていないと自分が無意味に思える、という病はとても根強かった。
私は長く死刑囚と交流して、死刑という処罰の方法が実は、処刑だけではなく、処刑前から社会的存在として一人の人間を抹殺するのを興味深く、同時に末恐ろしく鳥肌の立てて観てきた。
林さんは殺人を犯し死刑判決を受けた。確定死刑囚になって外部との交流が激しく制限され、文通や面会ができる人間が、処刑間近には家族をのぞいて3人しかいなかった。私はその3人の外部交流者の1人だった。以前は5人いたが、1人は拘置所の都合で外され、1人は個人の事情で去った。誰かが抜けても補填はしてもらえなかった。
外部との交流をここまで制限する理由は「死刑囚の心の安定のためだ」と説明された。情報と交流の徹底的な遮断。私は14年間面会に通ったが、もちろん彼に触れることはできなかったし、また、面会時間もせいぜい15分だった。最初は何が起きているのかうまく理解できなかったが、とにかく、私は彼の社会の窓となった。「◎◎さんが、××って言っていました」とか「最近◎◎さんに会いました」とか、外の出来事を伝える。それは逐一、刑務官によってメモにとられた。
死刑囚は処刑を待つために拘置所に拘置されているので、労働はしない。長い長い猶予期間がある。処刑までのおよそ18年を拘置所の独房で過ごすという想像を絶する状態を観察するように定期的に拘置所に通っていた。
彼が読みたいという本を差し入れしたり、食べ物を差し入れしたりした。この日本で、この人に会えるのが家族や弁護士を除けば自分だけなのだから、もっと事件のことを質問したほうがいいんじゃないか……という気持ちが最初の頃はあったが、私にとってはオウム真理教の地下鉄サリン事件よりも、むしろ、自分が関わっている東京拘置所のほうがはるかに不気味で、かつ奇妙であった。
なぜ面会は15分なのか、規則では20分以上となっているではないか、なぜ一日に1人しか面会できないのか、なぜ拘置所によって規則やルールが著しく違うのか、それを決めているのは誰なのか、なぜ私あての手紙が時々黒塗りされるのか、それも、どうでもいいような記述が。なぜジャーナリストが死刑囚に取材できないのか。独房に監禁するような状態で死刑執行まで人間的な権利、たとえば妻の手に降れるとか、そういうことも出来ないのか。まったく解せない。これはいぢめだと思った。死をもって罪をつぐなう処刑以前に、この社会的な人権の抹殺は、犯罪者に対する精神的な虐待であると思った。
死刑の有無や善悪よりも、死刑確定から執行までの間に、1人の人間の社会性を奪い去り、不条理な制限を与え続け、一切の理由もなく気まぐれに規則を変え、宙づりにしてじわじわと精神的に追いつめていくような拘置所の対応に衝撃を受け、その理不尽さに腹を立てることに疲れ、しだいに麻痺していった。
不条理な組織の不条理な行為が、確定死刑囚という死を待つ存在をいたぶっている、それを14年見続けてきたことは、内的世界をじわじわと砂漠化させていた。私は私自身の精神の荒廃をいまやっと実感している。
この現実を他者に伝えようとしても理解されず「人を殺したのなら死刑になるのは仕方のないこと」と言われた。そうかもしれないが、死をもって罪を償うなら、生きている間は人間としての最低の権利を保障すべきではないか?という私の思いは、どうにも伝わらない。
「なにもしないでご飯を食べられるのだから、羨ましい」
と、言う人たちに対して、言うべき言葉が見つからず、黙るようになった。反論すれば「田口さんは死刑囚に感情移入しすぎだ」と言われ、お互いの関係が悪くなる。
孤独であったし、この国のこの制度の、いやらしさ、底意地の悪さは、まるで自分がその意地悪を受けているような苦しさをもって、拘置所に通うたびに迫ってきた。見ないふりをして麻痺させるしかなく、だから私はもうこの事は書きたくないと思ったし、自分とは関係のないこと。たまたま死刑囚の交流者になっているだけだと納得しようとしてきた。
東京拘置所から帰る道は、いつも足元が揺れているような感覚を覚えた。綾瀬川の川面が西陽でぎらぎらして陸橋に反射する。
なぜ交流者を続けているのか?この先、死刑執行はいつなのかわからないし、林さんのほうが私より長生きすることだってある……。3.11が起きたときは本気でそう思った。拘置所が一番安全そうだな、と。
死刑囚との面会は、社会的に大きな意義があることだった。意義とか意味という点では十分に納得できた。なので私は自分が特別な存在として選ばれたという錯覚を信じて、面会を続けてきたが、そういう私の思惑とはまったく別の部分で、私の内的世界の砂漠化は進行しており、拘置所という場のもつ威圧的で、封建的な雰囲気に、気分が塞ぎ、私自身の内部にニヒリズムが生まれていたと思われる。
死刑が執行され、私はもう二度と東京拘置所に行くことはないだろうけれど、あの場所のことも思いだすと、うんざりと重苦しい気分になる。あの鉛色のビルはあの状態でいまもあって、そこには、たくさんの死刑囚がおり、人知れず処刑されていくんだろう。その存在は社会から隠蔽され、死ぬまでの間、存在を消される。ある日、処刑の日が来ると、遺書も書けぬ慌ただしさで刑場に連れて行かれ、死んで骨になって、引き取り人へ手渡されるのだ。その一部始終を知っているいま、独房の荷物が無造作にダンボールに詰められて送られてくることを考えると下腹がしくしく痛む。
林さんは、社会にとって意義ある人生を送りたいと願い、オウムに出家した。意義あることを求めているから私はその気持ちが理解できる。その林さんが遺書で残してくれたのは「つながりのなかで生かされていると感じる。出会った人に感謝しかない」だった。
処刑前日の彼の手紙は、すきとおっていて清々しく、もちろん不安は綴られていたけれど、その不安も含めて、文字の慈雨のようだった。
私はだれとでも自由に交流できるが、誰とでも交流できることが果たしてほんとうに幸せにつながっているか?もしかしたら、私は「価値ある人生を送らなければ」という、牢獄のなかで「価値ある人たちと出合わなければ」と思い、さまざまに交流の輪を広げることで、自分の価値を確認していただけではないか。いったいなぜそんなに人と出会う必要があり、人とつるむ必要があり、会う必要があり、意義あることをやる必要があったのか?
これが六〇歳になった頃の私の問いだった。死刑執行後、私はさらに厭世的になり、世の中が嫌いという拗ねた気分になっていた。ある時にふと、そういえば若い頃にこういう厭世的な老人たちに出合ったことがあったが、老人になると、なるほどこんなふうに拗ねるのか、と可笑しくなった。
経験を積んで理不尽を体験するわけだから、人は多少はへそ曲がりになるのだ。孤独であるし、また、ものごとを見通す経験値がある分、他人にうんざりすることもままある。ただ、ここにおいてやっと意義とか価値とか、あってもなくてもいいもののように思えてきたのも、年をとったからなのか。
突然に死がやってくるのは、私も林さんと同じなのだ。
長いこと、自分がつくった独房に籠ってよくもまあがんばってきたものだと思う。そうですよ、田口さん、田口さんは生きているうちにそこから出てくださいよ、と、林さんに言われた気がする。
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