見出し画像

ナラティブ

SDGsは素晴らしい社会規範だけれど、そこにナラティブがなければ人は「イイね!」を押すだけなんだ。奥田知志牧師を応援するのは奥田さんにはナラティブがあるからだ。だから人の行動変容を促せる。つながりあうためのナラティブは、どこか宗教性をおびてくるし、それでいいのだと思う。21世紀は、宗教性が人類のテーマになるだろう。コロナが突きつけているのは、あたらしい宗教の時代。いままでとは違った形で、人と人がつながりあうために共有する社会規範、あるいは倫理、そういうものが過去の宗教のなかからリメイクされていくんじゃないか。ブッダでもイエスでもいい、サムシング・グレートでも、ガイアでもいい。信念対立を越えるナラティブとして共有され社会規範となって機能する、そういう「もの」が生じる時代だと思う。誰がそのナラティブを語るのかはわからない。もしかしたら同時多発的にあちこちで語られていくのかもしれない。形や姿が違っても、他者を許し、多様性を認めるためのナラティブが……。
19世紀末に科学が世界共通のナラティブになったように。さらには経済が世界共通のナラティブになったように。
今朝は、目が覚めたらそんなことを思った。もしかしたら、自分が一番それを求めているのかもしれない。


日々の執筆を応援してくださってありがとうございます。