ぼくたちはなぜ、よりよい選択肢を選べないのか?
社会や自然界において複数の主体が関わる意思決定の問題や、行動の相互依存的状況を数学的なモデルを用いて研究する学問をゲーム理論という(Wikipediaより)。
ぼくたちはなぜ、よりよい選択肢を選べないのか?
その理由と解決へのヒントをゲーム理論から学ぶことができる。
囚人のジレンマとナッシュ均衡
有名なゲーム理論に「囚人のジレンマ」という次のような話がある。
ある宝石店で時価総額1億円相当の宝石が盗まれ、AとBという二人が逮捕された。
ところが、警察としては決定的な証拠を掴んでいない。
わかっているのは、二人が宝石店の近くをうろついていたということだけだ。それは付近の監視カメラで確認されている。
警察は、二人が逮捕されるまでの間に宝石をどこかに隠したと踏んでいる。しかし、それがどこかは皆目検討がついていない。
そこで警察は、容疑者Aに交渉を持ちかける。
「白状しないなら禁固2年だ。だが、お前が自白せずに容疑者Bが自白した場合、お前を禁固5年にする。逆にお前だけが自白したなら、容疑者Bを禁固5年にして、お前は無罪放免にしてやろう。もし二人とも自白した場合は、2人とも禁固4年となる。どうする?」
警察は同じ話を容疑者 Bにも持ちかける。
さて、容疑者AとBはお互い自白すべきか、すべきではないか?
自白しなければ、禁固2年か、禁固5年となる。逆に自白すれば、無罪放免か、禁固4年となる。
容疑者Aにとって最大のメリットは無罪放免であるから、自白した方がいい。逆に最大のデメリットは禁固5年である。容疑者Bが自白することを想定するなら、容疑者Aとしては自白した方がよいということになる。これは容疑者Bに入れ替えても同じである。
したがって、お互いに自白した方がいいという結論になる。
小難しく言えば、囚人のジレンマで何が起きるかについてのナッシュ均衡による予測は、「二人とも自白する」ということになる。
ナッシュ均衡について、wikipediaでは次のとおりに説明されている。
囚人のジレンマはゲームの設定如何によっては選択肢が変わりうる。
しかしここでポイントとなるあるのは、相手がどう出るかがわからないが取り得る戦略は想定されるということである。そして、相手の戦略に対するベストな行動は決まってくるということである。
ただし、そのベストな行動はお互いの利益を最大化することにつながらないのだ。
他人がサボるかもしれないとき
さて、ここからナッシュ均衡という考え方を用いて会社のチームワークのあり方について考えてみたい。
ここに今月末が納期である仕事がある。あと1週間だ。
だが最近はトラブル続きで思うように仕事が進んでおらず、納期までに間に合うか微妙な状況だ。みんなで力を合わせればなんとか間に合う。
ところが、最近は社員Aは残業続きで体がとても怠いため、できれば手を抜きたい、休みたいという思いに駆られている。社員Bも同じことを考えている。
けれども、社員AもBも関係性ができておらず、お互いの考えを率直に共有している訳ではない。
二人ともサボって納期に間に合わなければ厳しい処分が待っている。
さて社員Aと社員Bは、サボるべきか、サボるべきではないか?
自分がサボらなければ、仕事は納期に間に合うかもしれないが、相手がサボればその分の負担をかぶることになる。一方で自分がサボれば、仕事は納期に間に合わないかもしれないが、相手が負担をかぶれば間に合うかもしれない。
社員Aにとって最大のメリットは自分が楽をして仕事は納期に間に合うことであるから、サボった方がいい。逆に最大のデメリットは、サボらずに自分だけがバチをかぶることである。社員Bがサボることを想定するなら、社員Aとしてはやはりサボった方がよいということになる。これは社員Bに入れ替えても同じである。
したがって、仲が悪いためにお互いにサボって、仲良く処分を受けるという身も蓋もない結論になる。
ナッシュ均衡を回避できるか?
相手の取り得る戦略がわかっている一方で、どのオプションをチョイスするかわからない状況では、双方にとってより悪い結果をもたらしてしまう可能性が高い。
このナッシュ均衡を回避する術はあるのだろうか?
合理的に考えれば、ゲームが始まってしまったら、ナッシュ均衡を回避することは極めて難しくなると思われる。
ここでもう一度ナッシュ均衡の定義を見てみよう。
ナッシュ均衡は「他のプレーヤーの戦略を所与とした場合」に発生し得る。とすれば、所与となる戦略を予め組みかえることができれば、別の結論を導き出すことができるかもしれない。
先の会社のチームワークで言えば、日頃からコミュニケーションを円滑に行い、プライベートなことだったり、体調のことだったりが気兼ねなく相談でき、ピンチのときにはお互い支え合う関係性が構築されていれば、お互いがサボらないという選択肢を取り得るかもしれない。
所与の条件の中で窮地に置かれた際に、苦しい努力を続けることが不必要だとは思わない。
しかしながら、窮地に置かれた際に苦しい努力をしなくて済むために、所与の条件を組みかえる努力を選ぶということは必要だと思う。
最後に
ロシアによる軍事侵攻と核をめぐる世論を見聞きしていると、ますます所与の条件を国際的に組みかえていくことの必要性を思う。
たとえば、核兵器のボタンをお互いに押さなくて済むようにするにはどうすればいいか?
たとえば、原発を攻撃し合わなくて済むようにするにはどうすればいいか?
お互いに「相手は何をしてくるかわからない奴だから」と考えている状況から一歩進むために、人類はあとどれくらいの時間と努力を必要とするのだろうか。
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