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『CASSHERN』 隠れた傑作、これいかに? 第11回

『CASSHERN』  2004年/日本
 監督:紀里谷和明 
 出演:伊勢谷友介、麻生久美子、寺尾聰、唐沢寿明、及川光博

世界大戦が50年も続き、核兵器や化学兵器で荒れ果てた希望のない世界。
人類再生の道を提唱する東博士は、重病の妻のためにも、人体のあらゆる部位を再生させる「新造細胞」理論を実行へ移す。
ところが、生前の記憶を持つ新造人間たちは、怒りと哀しみを胸に人類へ復讐しはじめる。

かつての竜の子プロダクションのTVアニメ『新造人間キャシャーン』を、
写真家/MV監督の紀里谷和明が実写化。

私が凄いと思う映画や監督は大抵、大手サイトの利用者レビューで酷評されるのですが、本作の場合も、ソフト化された際に目を覆うようなレビューが並んでいました、

映画界には、ベテランになってもまだぎこちない作品を撮り続ける監督がいる一方、
初監督だというのに、新人らしさのかけらもない、見事な傑作を撮りあげる人が現れます。

ここで脚本・撮影・編集を兼ねている紀里谷和明監督も、間違いなくそういうタイプの人でしょう。

私はこの、壮麗な大伽藍を思わせるすさまじい映画にすっかり驚かされ、
こういうのを見ると、映画を作る能力やセンスは経験ばかりが物を言うわけではなく、
持って生まれた素質も大きいのではないかと思わざるを得ません。

これは、映画によって描かれた、巨大な悲劇。
映画全体が、崇高なまでの悲劇性を帯びています。

「命に優劣などあろうか」というブライのスピーチや、愛する者を失って激しく慟哭する人々の姿は、シェイクスピアの戯曲やギリシャ劇にそのまま通ずるもの。

この映画が表す巨大さ、厳粛さについては、演劇的とも言える俳優陣の演技も大きく貢献していますが、
それには何よりも、彼らの芝居が宙に浮いてしまわないスケールのキャンバスが、きちんと用意されている事が肝要です。

本作の気宇の大きさは、紀里谷監督が映画全体を巨視的に捉え、
大きくうねる一つの感情の流れの中にドラマを置く事から生まれています。

彼は、個々のシーンの総体としてではなく、映画全体を一つの大きなシーンのように演出しています。

具体的に言えば、
シーンをまたいで音楽が滔々と流れ続ける事とか、
映像と感情のトーンを途切れさせず、次の場面へと流れるように繋いでゆく手法がその感覚を生むのですが、
これは、作品のヴィジョンを全員に共有させ、強靭な意思で細部を積み上げていかなければ出来ない事です。

素晴らしいのは、物語が人間の愚かさに立脚しながらも、
結局はやはり、あらゆる人間が内奥に持ち合わせた気高さ、偉大さに目を向けようとしている所でしょう。

ここでは、誰もが自らの信念に基づいて行動していて、誰の立場、誰の言い分にもそれぞれに一理があります。

劇中の
「誰か一人が正しいわけでもない、誰か一人が間違っているわけでもない。みんなが共に生きる道を探さなければ」
というセリフは、作り手の意思が直截に表れた箇所。

世界中の人々がみんな一緒に幸せになれたらいい、
なのに、どうしてそれができないのだろう?と。

これは正しく紀里谷監督やその前後の世代、戦争も学園紛争も経験してこなかった、ある種ナイーヴな人たちの多く(私もそうです)が、
この、きな臭く不安定な世界に対して感じている、最も痛切で真正な感情ではないでしょうか。

主人公は言います「誰か一人が幸せになってそれで終わりじゃだめなんだ!」。

宇多田ヒカルの主題歌に乗せて、登場人物たちの遠い記憶がコラージュされるラストは、
あまりにも美しく、優しく、衝撃的でさえあります。

ここでは、怒りに憑かれた悪鬼のような軍曹でさえ、暖かな眼差しで子供を抱き上げるごく普通の父親なのです。

この映画のそこここに戦争の記憶、喪失の記憶、人間が犯してきた罪の記憶が散りばめられていて、
それが私たちの胸に様々な想いを去来させます。

その感覚は、見せかけの皮相な人道主義には無いもので、
メッセージでも異議申し立てでもなく、
“願い”の色彩が濃厚なものです。
つまりはこの映画そのものが、
“祈り”なのです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。(見出しの写真はイメージで、映画本編の画像ではありません)

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