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『マリー・アントワネット』 隠れた傑作、これいかに? 第5回

『マリー・アントワネット』  2006年/アメリカ
 監督:ソフィア・コッポラ  
 出演:キルステン・ダンスト、ジェイソン・シュワルツマン、他

これは随分とガーリーなテイストで構築された映画で、映画的という点ではとにかく凄い作品。

全編に現代のポップス、ロックが流れますが、それが又、実にユニークなセンスで選曲してある。
ラモーやスカルラッティなどバロック音楽も使いながら、
バウ・ワウ・ワウを何曲もフィーチャーしたりして、ここでこんな曲を付けるか、みたいな。

映像もそうです。
パステルカラーを基調に色彩設計してあって、この時代に本当にあったのかというようなお菓子類や小道具とか、どことなくニューヨークのセレブの暮らしぶりと重なる描写になっている。

それが、「私はアーティストよ」的ないかにも気取った感じじゃなくて、
もっとカジュアルな佇まいなのが、ソフィア・コッポラの面白い所です。

サントラにしてもそうですが、
音楽好き、映画好きの女の子が、「おすすめ曲のコンピ作ったから、ちょっと聴いてみてよ」っていう感じ。
聴かせたい曲が多すぎて2枚組になっちゃった、みたいな。
サントラで、それも既成曲のコンピレーションで、2枚組っていう。

『めぐり逢えたら』のノーラ・エフロン監督や、
『ザ・エージェント』のキャメロン・クロウ監督もそういう雰囲気があります。

自分の好きな古い映画を下敷きにして、
好きな曲をたくさん詰め込んで、
サントラのライナーにもコメントを寄稿して、
ちょっとこれ観てよ、聴いてみてよって言って回ってるみたいな、
そういう実直な好ましさというか。

とにかくソフィアは、
題材を自分の側に引き寄せてこの映画を作っています。
彼女自身の個人的な感じ方、物の見方を、
マリー・アントワネットに投影しているわけです。
空気や匂い、色や形の印象、生活のリズム、
とりわけ彼女が他の作品でも取り上げている、疎外感みたいなもの。

それは彼女自身が感じている疎外感の表れだと思うのですが、
それを、オーストリアからフランス王室にやってきて、
まんま異物として存在する主人公に重ね合わせて見ている。

だから、現代のロックが流れてもおかしくない。これはソフィアの目を通して見た18世紀なのです。

ただ、それだけだったら、
ちょっと才気走った映画作家なら考えそうな事です。

ところが彼女は感覚の鋭い、聡明な人ですから、
出来事や劇世界を現代風にアレンジするような俗っぽい事はやらず、
あくまでテイストのみをモダンにして、
現代人、特に自分の世代の人達と、
感覚的に呼応し合うような作り方をしている。

彼女が凄いと思うのは、
つまりこういう、史実を描く映画は、普通はどうしたって苦悩とか悲劇に焦点を当てて重厚なドラマを作ろうとする訳です。

主演俳優も絶叫型の、いわゆるアカデミー賞受けするような演技をして、
熱演で感動を呼ぼうとする。
ところがこの映画は、そんなものに見向きもしない。

ソフィアはここで何を描いているかというと、
それはもう徹底して、
五感で触れた世界の在り方です。

誤解を恐れずに言えば、徹底して外面的な事象を描くことで、逆に内的な世界に肉迫している。

この映画を観ていると、
匂いや味や触感まで、まるで手に取れそうな気すらしてくる。
実在した歴史上の人物の経験に、
手を触れて、匂いを嗅いで、
吹き過ぎる風を感じる事ができるような描写をしている。
これは、今まで誰も考えつかなかった事です。

私が特に凄いと思った場面が2つあります。1つは、パーティが盛り上がって徹夜した後、早朝に川べりに出かける場面。

まだ新鮮で透明な大気、
虫や鳥達の鳴き声、
鼻をつく草いきれの匂いや、
二日酔いに痛む頭の疼き、
眠気が断続的に襲ってくる朦朧とした意識など、
正に五感がフルに刺激されるような描写です。

それで、馬車で川に向かう場面の音楽に、
彼女はバウ・ワウ・ワウの“フールズ・ラッシュ・イン”を流しているのですが、
この、心に羽が生えて飛んでゆくようなナチュラル・ハイの感覚は、実に素敵です。

観ていて私は、
ああ、この感覚は知っていると、文字通り五感の記憶が呼び起こされました。

つまりこれは、現代で言えば徹夜明けのドライヴなのです。
そういう経験なら、多くの人の心の引き出しにしまわれている。
そこで主人公と観客の人生が、時を越えてリンクするわけです。

閉塞感や疎外感に覆われたアントワネットの人生にも、
今、この時間に限っては楽しいばかりという、そういう瞬間がちゃんとある。
そうやって、彼女も人生の時間を生きていたのだと。

俳優の熱演に頼らず、
デリケートな感性で音を利用し、映像を利用する事で、
現代の観客とマリー・アントワネットの感覚的な共通項を、
ソフィア・コッポラは一つ一つ、
丁寧に探してゆきます。

だからこそ、ラストで見せる深淵の恐ろしさが際立っている。
それが、もう一つの凄いシーンです。

進退極まったアントワネットが、
馬車に乗って遂にヴェルサイユ宮殿を後にする場面。

馬車の中から外へ向けられたキャメラが、
朝の陽光に輝く庭園の噴水を映し出します。
すでに自身も死を覚悟したような気分になっている私達の目に、
この光景はおそるべき迫真力で焼き付けられる。
ここにはもう二度と戻ってこられない。
この噴水も、生きて目にするのはこれで最後なんだ、というような。

こんな事は、かつて誰もやっていません。
歴史上の人物が五感で触れた感覚を、観客にも体験させよう、という見せ方。

それは、悪く言えば上っ面だけを描くという事ですが、
ここまで徹底するとそれは仮想の現実として、その人物の内奥に没入してゆく事になる。
むしろ、ドラマ一辺倒の映画より遥かに深く内面を描く事にもなりうる。

実際にアントワネットが、そうやって朝日に輝く噴水を見たかどうかなんて、誰にも分かりません。
とてもそんな状況ではなかったかもしれない。

馬車でこの宮殿を去る際に、
この時間帯ならこういう光景が見えるという現実をキャメラが捉えているだけなのですが、
長年暮らした住居を今まさに去り、
これから処刑されるという立場に置かれれば、
誰の目にだって、最後の光景はこんな風に見えるかもしれない。
少なくとも、ソフィア・コッポラの目にはそう見える、マリー・アントワネットもそれを見た可能性があると、そういう事です。

この場面を観ていると、
まるで自分自身が処刑されるような、
諦めと緊張、悲しみの入り交じった不思議な気分になってくる。

これはつまり、映画にしか出来ない描写です。
小説にも演劇にも絵画にも、こんな事はできない。
「映画的」と言うのは、そういう事です。

こういう映画を撮るには研ぎすまされた感性が必要だし、
因習打破的な勇気と斬新な発想も必要で、
なおかつ映画製作では、
多くの出資者やスタッフ、キャストに自分がやろうとしている事を理解してもらわなければならない。
ただ思いついたから作りましたというような製作の在り方は、プロでは難しい。

作品を世の中に出すという事は、
不特定多数の目に触れる事を前提としているし、
道義的にも、美学的にも、
責任みたいなものはどうしたって生じるわけです。
プロのアーティストである以上、
そういった問題とは常に踵を接している。

私がこの作品を凄いと言うのはそういう事で、
私がこの映画を気に入ろうが入るまいが、
そういう事の価値はびくともしません。

感情移入できない、内面の描写が浅いだのと切り捨てるのは簡単ですが、
従来とは異なる方法で歴史上の人物に迫る道もあるのだという事を、
具体例としてこんこんと教えられる思いです。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。 (尚、見出しの写真はイメージで、映画本編の画像ではありません)

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