あくまでアマチュア書評集 “ワケあって未購入です” #13 『幽談』 京極夏彦 (2008年、メディアファクトリー)

私は京極作品との出会いに、過去2度失敗している。言うまでもなく氏は売れっ子作家ではあるが、残念ながら個人的には、ひどく相性の悪い作家である。

最初は長編『姑獲鳥の夏』。このコーナーでしつこく繰り返しているように、私はミステリを苦手としているが、この謎解きの仕掛けに賛否両論が起こる事は、著者にとっても織り込み済みの了解事項だっただろうと思う。私はそちらよりもむしろ、始まってすぐの所で京極堂が延々と講釈を垂れるのに辟易し、ふと見たら既に100ページ近く経過していて閉口した。

この長い対話シーンはつまり、反則に近い仕掛けを成立させるためのエクスキューズでもあるわけだが、私にはこの100ページが、とても小説とは思えなかった。登場人物の口を借りて、著者が論文を書いているだけじゃないかと思ってしまったのである。文体も、ことごとく人工的と感じた。

次は少し変化球だが、2002年の夏、京都大蔵流・茂山家のために京極氏が妖怪をテーマにした創作狂言を書き下ろす企画があった。題して妖怪狂言「狐狗狸噺」「豆腐小僧」の2本に、古典の「梟」を加えた上演。私にとっては、むかし小学校で行なわれた鑑賞会をのぞけば、これが初めての本格的な狂言鑑賞であった。

当時の私は伝統芸能に興味があって、現代作家が書いた新作ならビギナーにも親しみやすいのではないかと踏んだわけだが、この時はそれなりに面白かった。「狂言、オモロいやん」と興奮しつつも、一人で観に行って誰とも感想を分かち合えないのを残念に思っていたら、翌年の夏に大阪の大槻能楽堂で再演があった。これはお薦めだと、今度は友人も誘った。

再演も妖怪狂言の演目は同じで、あと1作は古典の「二人袴」。果たして、一番面白かったのは「二人袴」であった。妖怪狂言は、言い回しが微妙に現代風に直されたりしていた事もあるが、こちらも二度目で慣れてしまったのか、ストーリーの仕掛けや説教臭いメッセージ性ばかりが目立って、ただ大らかに笑える「二人袴」とは対照的だった。同行した友人も同じ感想であった。

それから20年間、1作も京極作品を読んでこなかった私だが、意図的に避けているというより、お気に入りの作家を追いかけるだけで全然時間が足りないのである。本書は、同年に同じ出版社から出ている綾辻行人の『深泥丘奇談』を読んだ流れで、じゃあ短篇集ならどうだろうと久々にトライ(といっても図書館で借りたけど)したものである。

読んだ感触は、『深泥丘奇談』と不思議なほど似ている。姉妹編かと思うほどだ。ホラーと呼ぶには怖くないし、コルタサルやブッツァーティの幻想小説みたいに不穏な緊張感があるわけでもない。突拍子もない出来事もあれば、何かモヤモヤしたままの話もある。それ自体が悪いわけではなく、文学作品としてうまく行きさえすれば、結局それが全てなのである。

過去に苦手と感じた京極作品の特質は、やっぱり短篇にも出ている。一番肌に合わないと感じるのは、何かと理屈っぽい所。それ、説明しちゃったら怖くも面白くもないだろう、という方にすぐ議論(正しく議論そのものである)を持ってゆこうとする。

『姑獲鳥の夏』の次が本書だと、あまりにひとっ飛びすぎるのだろうが、その間にあるあまたの作品を読んでいない事を承知の上で総括すれば、京極氏はとかく「認識」の議論を持ち出してくる。私は小説、特にホラー系の小説で認識云々を言うのは反則だと思う。

起こっている出来事、見えている物、それを認識している自分を疑う議論を延々とやるが、そもそも小説なんて全部虚構じゃないかという事である。その立脚点の曖昧さを小説の主軸に持ってくるのは、ちょっとナシではないか。著者がその立場を取りだしたら、もはや何でもありになってしまう。

処女作の仕掛けがそれで、本書収録の短篇も多くがそこにフォーカスしているとなると、他の京極作品だってきっとそうだろうと私が思うのも、仕方がない事である。他にも『冥談』とか『眩談』とか類書が出ているが、タイトルからして、きっとまた「認識」を疑う話なんだろうなと思ってしまう。

生理的に苦手な部分はまだある。例えば古風な文体がそうであるが、古い時代を背景にしているわけではなく、現代的なカタカナ用語も混在するので、なぜかと知らずイライラしてくる。森見登美彦のファンである私に、なぜこの文体が鼻につくのかは不明である。考えてみたけど、よく分からない。何かが根本的に違うのだ。

文章力はものすごくある人だし、描写力もおそらく一級で、あくまで好みの問題かとも思ってしまうが、アイデアが作品に結実する過程で何かが抜け落ちている感触があるのは、私の好みとは別の問題のような気がする。アイデア、例えば庭で手首を拾うとか、そういう唐突さがどうも物語にしっくり馴染まない。

奇抜なアイデアが悪いのではない。それを売りにする姿勢というか、アイデアそのものがこう前面に出てしまうと、読者の隣にずっと作家がいる感じが付きまとう。著者の存在感が強すぎるのだ。そうなるともう、実存的でも自然主義でもなくなって、ただ小説家の工夫をナマのまま見せられる事になってしまう。本当に優れた小説は、書き手の存在を忘れさせるものだと思うのだけれど。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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