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『ヘヴン』 隠れた傑作、これいかに? 第9回

『ヘヴン』  2002年/アメリカ、ドイツ、イタリア、フランス、イギリス
 監督:トム・ティクヴァ 
 出演:ケイト・ブランシェット、ジョヴァンニ・リビージ

夫を殺した男へ復讐するはずが、
失敗して一般の人々を犠牲にしてしまったフィリッパ。
しかし尋問に立ち会った若き憲兵フィリッポが、彼女に運命の愛を感じた事から、
事態は予想も付かない方向へ流れてゆく。

『ふたりのベロニカ』や『トリコロール』三部作で知られる
ポーランドの故クシシュトフ・キェシロフスキ監督の遺稿を、
『ラン・ローラ・ラン』で注目されたドイツの俊英トム・ティクヴァが映画化。

ちなみにキェシロフスキは本作を、
ダンテの「神曲」に題材を得た「地獄」「煉獄」「天国」の三部作として構想していたそうです。

キェシロフスキのスタティックな作風と、『ラン・ローラ・ラン』の動的な性格は一見相容れないようにも感じますが、
実は『ラン・ローラ・ラン』はキェシロフスキの『偶然』を下敷きにしており、
同じくティクヴァの『ウィンタースリーパー』も、
登場人物の運命が見えない所で交差しているという、キェシロフスキ的なストーリーでした。

それにしてもキェシロフスキほど直截に、
そして真摯に、
愛という感情を描いた映画作家を、私は他に知りません。

彼の作品にはよく、
愛を行動の至上動機において生きる人物を、一点の曇りもない視界で見せる、
そして彼らの運命と私たち観客の間に何ひとつ遮蔽物がない、
という独自の感覚が存在します。

キェシロフスキは過去に
「私はモラルには興味がない。もっとも大事なのは愛だと思う。愛を失ったら、生活は指の間からこぼれ落ちてしまう」
と発言していますが、
この言葉は、彼の物の見方を端的に示していると言えるでしょう。

フィリッパは、
自分に向けられたフィリッポの強い愛を、
ほとんど躊躇する事なく受け入れているように見えます。

自首して罰を受けるつもりだった彼女は、
フィリッポの愛を受け入れた事によって、逃亡者とならざるを得なくなる。

その後も、彼女の逡巡や葛藤はほとんど描かれません。
ここで描かれるのは、二人がお互いの運命を潔く受け入れる、その覚悟であり、
そこから、強靱な精神だけが持ちうる特有の美が生まれてきます。

二人を取り巻く基本的な状況は、最後までほとんど変わる事はありません。
状況を見れば、彼らは依然として犯罪者であり、逃亡者です。

ところが、物理的な環境が変化しないにも関わらず、
彼らの心理的状況(他ならぬ愛の感情ですが)は、むしろ深化、純化してゆくのです。

怒れる女性として登場したフィリッパは、
物語の進行と共に罪を重ねるにも関わらず、
むしろ穏やかに、清く高潔な人物になってゆくようにさえ見えます。

トスカーナの丘陵を寂しく歩いてゆく二人を空からキャメラが追う時、
私たちは、少なからぬ共感を持って彼らの小さな姿を見つめてはいないでしょうか。

全ては定められた運命である、
という強固な主題は、
フィリッパとフィリッポという象徴的に近似した二人の名前に集約されています。

フィリッポの父親が、
自分たちの行く末をはっきりと見据えた二人の強い意思の前に、
「人は、最も大事な瞬間にどうして無力なのだろう?」
と声を震わせる場面は胸を揺さぶります。

そうやってこの物語は、
私にはもう“救済”としか思えないような、
悲劇的で、美しいラストシーンへ、
ほとんど予定調和に見えるほど一直線に突き進んでゆきます。

このラストが、
冒頭のヘリ操縦シミュレーションの場面と呼応している事は指摘するまでもないですが、
ティクヴァ監督が脚本に付け加えたというそのオープニングが、
ここで、何と深い余韻をラストに与える事でしょう。

フィリッポという青年が持つ志向性、生き方のベクトルみたいなものが、まるで映画全編に渡って示されたかのようです。

過去のティクヴァ作品と同様、
本作にもスペースカムという滑らかな空撮映像がたくさん挿入されています。

彼が空撮を多用するのは、
視点を高みに置きたいという意識のあらわれに他なりません。
きっと、物事を否定も肯定もしない、
天の視点にキャメラを置こうとしているのだと思います。

クラシック音楽のリスナーなら恐らくご存知の、
エストニアの作曲家アルヴォ・ペルトの音楽も効果的。

祈りにも似て静謐で、清澄で、限りなくシンプルなスタイルながら、
その精神的な深さに驚かされます。
映画の特質と完全に一致し、その魂を最も雄弁に語っているのは、
この音楽なのかもしれません。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。(見出しの写真はイメージで、映画本編の画像ではありません)

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