少子化は問題ではない

少子化は問題ではない。これが私の主張である。


そもそも少子化を問題として扱っている人々がいる背景として、経済的理由が最も多く挙げられる。

経済的理由というのは、人間は労働をして賃金を得ることが当然だ、という思考を多くの人が持っているということである。その中で、労働の担い手は多い方が、全体のパイとしての経済規模(GDP)が大きくなり、みんながより幸せになる、という思考経路が多くの人の頭の中に植え付けられている。

これは、経済的豊かさと人間の幸福の間に因果関係を想定している論理展開であり、それが自明の理として扱われている。


私の哲学は実存主義である。つまり、人間は実存として先に存在し、本質は各人が自分で選び取る・作るという哲学の立場をとっている。

つまり、人間には客観的に予め定められた本質(換言するとここでは役割だろうか)はないということである。

したがって、人間は労働するのが当たり前だ、という思考は多くの人間が作った価値観の1つでしかなく、それを他人に押し付けるのは全く間違いである。


ここで上記をまとめてみると、

少子化 → 数の論理 → 経済 → 経済と幸福の因果関係 → 価値観

という経路で抽象度を上げることで、少子化を問題として扱う人々にはある価値観が存在しているということがわかる。


少子化を問題として扱うことに関して他の観点から見ると、種の存続の観点があるかと思う。つまり、人間は子孫を残すことが人間としての役目であるという価値観をベースとした主張だ。

これは、約1年前だろうか、ある女性議員(?)が「LGBTには生産性がない」ということを発言して多くの人から批判されたことが記憶に新しいが、これもまた、発言した女性の価値観が反映されているに過ぎず、何よりもある価値観を他の人に強制したことそのものが問題の本質である。

この女性にとっては、人間の本質は労働による生産と子孫を残すことの生産にあると考えているということが読み取れる。

LGBTQの方々にとってはまだまだ差別や排除の論理が働いているような環境に出くわすことが多いかもしれないし、仮に世の中に(人間において)2つの性しかないとしても例えば米軍では女性差別があったりとまだまだ価値観の多様性を認める寛容さを全人類が持っているとは到底言い難い。


そこで私が提言したいのは、「逃げろ」ということと「自分のコミュニティを持て」ということだ。

「逃げろ」というのは、人間は物理空間に認識の制限をかなり受けている人が多いが、インターネットを例に取るとわかりやすいように、多面的・多層的・多元的なネットワークの中で、物理的には1人の人間がインターネット上では複数の人格を持つことができるからその選択肢に気がつけば楽になる、ということだ。例えばTwitterでは複数のアカウントを持つことができるし、その複数のアカウントを通して別々の世界観を持ったりすることが現に可能である。

「自分のコミュニティを持て」というのは、上記「逃げろ」に幾分重なるが、物理空間のみの認識から逃れることができれば、自分の居場所としてのコミュニティを見つけやすくなり、人格のポートフォリオを構築する考えに至ることができるということだ。自分の人格は、必ずしも一枚岩である必要はない。自分の所属するコミュニティは、自分ひとりでもいいし、会社という組織でもいいし、自分の定義した友達でもいいし、自分の定義した家族でもいい。これらのどれか1つひとつでも複数でも全部でもいい。とにかく自分が自分の価値観に基づいてどこのコミュニティに属するか、そしてそれを複数持てるかを探してみればいいと私は考えている。


ここであえて少子化の話に戻ってみるが、少子化というものを扱うには枠が必要である。つまり、経済学の多くの場合そうであるように、地理的な範囲、最たるものとして国、という単位の枠があってはじめて少子化というものが認識されるのである。

しかし上記私が主張したように、人間は物理的空間以外に複数の居場所を持つことができるような技術的な進歩がここ数十年で行われたため、日本などの国という単位に自分を縛り付ける意味は全く無いのである。もちろんそれを選択するのは自由だが、自分で属するコミュニティを決定するのと全く同じように、自分の選択した責任を追うのはすべて自分である。


私は経済学を勉強していて、いつも「国家」という枠組みでの集計単位に疑問を持ってきた。経済学は社会科学であり、人間の幸福に寄与するかどうかにおいて価値を発揮しなければならないにもかかわらず、GDP至上主義やそれに紐づく国家主義は、人間の幸福を差し置いて論じられてしまっているのが現状である。

また、GDPを最も重要な指標としているにもかかわらず、シェアエコノミーに関する付加価値計算や最近改定された研究開発費のGDP組入など、後追い後追いをしているだけで、定量主義の限界、いやむしろ定量主義の人間の幸福への貢献の無さを露呈している。


最後にまとめると、人間は自分で本質を選び取る・作ることが最も重要であり、何が自分の幸福・楽しさに結びつくのかを自分で探す必要がある。その上では、固定観念としての経済学やGDPや少子化といったものはとるに足らないものであり、自分の楽しさの軸として稼ぐことや子供を持つことが重要であるのならばそれに自分を投企すればよく、そうでないのであればそうでないだけの話である。

価値観の併存を皆で受け入れよう。

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