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人に求める条件と性悪説


よく例に出されるものとして、自分の性的指向に応じた相手に求める条件というものがある。

伝統的には(もしくは今も多くの場合?)、へトロセクシャルな女性が男性に対して、3H(高身長、高学歴、高収入)を条件として恋愛・結婚したいような相手に求めるというものが、おそらく最近までは例としてよく出されていたと思う。(本当かどうかは知らない。誰か教えてくれ。)


では、どうして相手に条件を求めるのか?

もちろんだれでも良いわけではないだろうが、なぜ、フィルターをくぐった人間としてか、一般的に言う深い関係に進みたがらないのか?(くぐった人間と深い関係になるのかも知らないが。)

そもそも、深い関係を築く前提条件として、エクセルで並び替えるかのようにフィルター掛けをすることを選択するのはなぜなのか?


その背景として、相手に対して条件付けをする行為の価値観としての背景として、性悪説に基づいた価値観形成がなされてきたのではないか、ということを今回考えた。


性悪説的な態度とは、会社で言うところの、採用条件としての学歴フィルターだったり、従業員の管理方法としての時間管理だったりする。

それらはともに、「一定条件を満たせるか」を基準にフィルター掛けがまずなされてから、それをくぐり抜けた人と企業(やチーム)との相性をお互いに確かめていくプロセスを辿ったり、事前に約束した所得を発生させたりする。

またクレジットカードや銀行の審査は、性悪説的アプローチの最たる例だ。もちろんビジネスは、社会課題の解決よりも前に利益を生むための主体であって、ほとんど常に供給側の問題や制約、持続的に可能な供給のための条件を抱えている。


ここで、条件付けを換言すると、「~(条件)~でないと、私は~(願望)~ではない(になれない)」となると考えられる。(願望に入る言葉としては、happy、ラク、満たされた状態、などが考えられる。)

イロイロ考え@2x

この換言をしてみると、最終的に自分が叶えたかったり、味わいたい感情だったり、ありたい状態だったりといった願望があり、それに対する個々人のアプローチとして、(おそらく多くの場合、いつのまにか)条件付けをしていることが推察される。


あなたは、「信用」が基となるアプローチをとっているだろうか?それとも「信頼」が基となるアプローチをとっているだろうか?


さてここで提案したいのは、例の場合であれば、「男性であること」、「3H」という条件を一旦取り払ってみることだ。

性的指向やその他諸々を前提として願望を考えるのではなく、自分の願望をもっと身近な何かに置いてみて、それと行動を限りなく近づけてみることだ。


例えば、かの有名なひろゆき氏は、Youtubeで流すライブ放送(あ、これ録画ね)において、「若い頃から、マンガ読んだりゲームしたりして生活できたら良いなと思っていて、いままでずっとそれを出来ているから、僕それなりに幸せなんだよね。」と度々言っている。

ここで着目したのは、「自分がありたい状態」と「行動」が直接結びつているという点だ。

ひろゆき氏にとって、「自分がありたい状態」とは、マンガを読んだりゲームをしたりしている状態であり、そのためにすべき「行動」は、マンガを読んだりゲームをしたりすることなのである。

さらに一歩踏み込んで考えると、自分が幸せな状態がなにかを認識しているからそれに達するために行動しているというよりは、好きなことやっていること自体は無意識で(←だって好きだから)、好きなことを好きなときにやるコントロールをできるように生活・活動の方法を選んでいる。

例えば、将来の予定を決めないことだったり、自分の遅刻癖に対してキレるような人とは付き合わないということだ。


こうして、ひろゆき氏を例にとって考えてみると、「好き」というのは最強だなと思う。(「好き」は「没頭」に換言できると個人的に考えている。)

なぜなら、自分の願望と行動が直接結びつくからだ。


願望が複数あるのであれば、それは自分の心理としてポートフォリオをつくれてバランスが取れて、多くの選択肢を持てることに繋がると思う。その人にとっては、願望が可変であることだったり代替可能であることが、生きている間に楽しみ続けることに寄与するかもしれない。

願望が1つなのであれば、実は強い執着をもって突き進むことができる人なのかもしれない。その人にとっては、願望が行動を直接結びつかない場合は、願望に寄与するものを因果関係として自分で描いて可視化して、線をなぞっていくことがより願望に近づくことができるアプローチかもしれない。願望が行動と直接結びつく場合であれば、それを繰り返せばよいし、飽きたらまた次の好き=願望=行動を見つければ良い。


イロイロ考え@2x (1)


図にしてみると、なんとシンプルで簡潔な関係なんだろうか。鳥肌が立つね。立つよね?ね?

性悪説はどこへいった?と思うでしょ?しょ?

そう、自分の(無意識にやってしまうような)好きに、性悪説も性善説も登場しないと思うのだ。


自分の願望に素直になってみよう。


もしかしたら、3Hは、それを好きな人、その願望を持っている人が素直に求めるものなのかもしれないね。テヘペロ。





個人的に自分が選択する態度、いやむしろ、色々な哲学に触れて形成してきた感覚としては、ライフパートナーがいるのは自分の人生としてとても良いことなのではと思っている。

そのライフパートナーが、自分の個人的な性的嗜好としてのへトロセクシャルから自然と生じて、女性となるのか、1人となるのか、パートナーとして複数人で集団を形成するのか、まだまだわからない。

ただ、ライフパートナーを人として愛する自分個人としての唯一の条件は、「自分がその人を選び続けると決心すること」とする決心をしている。


ちなみに私の基本情報は、

・身長:176cm (体重60kg)

・学歴:慶應義塾大学卒業

・収入:非公開(いま所属する選択をしている会社の都合上) + 金融投機で変動あり

という、世の中に数万人いるであろう状態となっている。


今回、自分で文章にしてみて再認識したが、世の中で生きやすい人は、

・バカ

・悟った人

の2種類だと思う。

今回書いたことを、バカであれば考えずに生きてられるし、悟った人であれば考え尽くして結論が出ているからだ。


ちなみに、堀江貴文氏の『多動力』で書かれている「猿のようにハマり鳩のように飽きよ」というのは、自分の好きなもので一定以上の実績なりが必要となるので、中途半端にやって飽きても、それは社会的評価は得られない。社会的評価を得ることが自分の願望であったり、願望のための必要条件なのであれば、その評価を得られるほど実績と、人によっては実績を残すための努力が必要となる。


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