<バカにされたわが子 寄り添った日々>

を読んで。


このお母様もお父様も、いわゆる「いい子」タイプで、自分の意見を強く主張しなくても生きることができる環境で育った。
加えて、非常に残念なことに、多くの親がそうであるように、この母親も子供への接し方が支配的なところがあったのも否めない。

しかしながら、この礼智さんに「偶然」出会って、ある領域で(平均との違いは無意味ではあるが一般的な認識で)平均から飛び抜けて優れているところや不足しているところを受け入れる必要に迫られた。

僕自身が小学校にいたのは12年以上前だけど、その後の中学校も含めて、いまだに「一様性」と「機会の均等」をこんなにも取り違えている制度や環境があるのかと悲しくなった。

親を含めた年齢が上の人が本当に果たすべき役割は、自分より年齢の低い人の可能性を潰さないように支援し、「良い」環境を準備してあげることだと今回改めて認識した。

究極的には礼智さんの才能って、ある意味ではどうでも良いことであって、本質ではない。何よりも、礼智さんが生きやすくハッピーでいられることが重要だ。それは礼智さんが自分の意思で決める彼自身の課題だ。礼智さんが表出させた才能に、他人が「期待」するのは絶対に間違っている。なぜならすべての場合において、「期待」は他人の勝手な課題であって、勝手に期待される本人の課題ではないからだ。
親の思考はしばしば危険をはらんでいる。産んだことが親の意思であっても、子にとって親は、そして親にとって子は、他人であるという事実から目をそらしてはいけない。

課題の分離ができたとき、人は本当の意味で「支援」することができる。対等だからである。

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