LGBTQと社会

という記事が2019年6月27日にWIREDに掲載された。

これに偶然にも関連して、昨日(6月26日)に私は

という投稿をした。上記は少子化から価値観までを昇華させて論じたが、その中でLGBTQについても少し触れた。

結論として私は、「逃げろ」ということと「自分のコミュニティを持て」ということの2つを提言した。どちらも本質的には、実存主義の哲学・価値観に触れて、自分の軸で自分の人生におけるポジションを取ることこそが人間が自由であることを発見することを助けられると考えての主張である。

価値観は、どのような価値観であっても長所・短所があり、応えられる批判と応えられない批判がある。故に、既成の価値観で広く流布しているようなもの、例えばキリスト教であっても、常に応えられない批判を抱えており、全く完璧ではない。

私が主張している実存主義とかなり親和性が高いと考えているものとして、個人心理学(アドラー心理学)がある。

実存主義は、人間は実存が先んじており人間の本質は各人が選び取る・作るものであることを主張しており、個人心理学は、目的論という立場を取ることで過去や自分の周りの社会(という幻想)に支配されずに今この瞬間に自分で目的を決めてそれに向かって自分を行動させていくことを主張している。

上記2つの哲学・心理学に対して、世の中の多くの人間は因果論に支配されて生きている。つまり、人間には予め定まった役割があったり、過去の事実は今の自分を説明する客観的な1つの事象であると捉えたりすることを主張する哲学・心理学に支配されている人が非常に多い。

この因果論を思考にいつの間にかインストールしている人間が数の論理においてマジョリティであることが、同じく数としてはマジョリティである異性愛者と重なることで、マイノリティにとって生きにくい社会を形成しているのである。

そんな社会の中で、私が先に主張した「逃げろ」と「自分のコミュニティを持て」という2つを、より具体的な形で体現するために提案したいのは、「独立しろ」ということだ。

例えば国という単位を世の中の多くの人は当然の単位・概念・枠組みとして受け入れてそれに何の疑問も持っていない。このゼロベース思考を放棄する人間の愚かさに気がつくことができるだろうか。つまり国という単位を所与の条件として無意識に受け入れることのアホさに気がつけるだろうか。

国という単位は、人間が作った1つの価値観を反映しているものである。具体的には、土地と人間が不可分であることを論理とした価値観を表出させた仕組みであり、その論理に物理法則のような絶対性は全く存在しない。人間はこれまでの認識において、物理空間に大きな制約を受けているが、インターネットという物理空間を飛び越えた仮想空間が世界中に広がっている中で、その物理的な制約のみに基づく思考や仕組み作りを行うのは不合理である。

換言すると、人間は物理空間以外にネットワーク・つながりの根拠を持つことができるようになっているわけである。

そこで私が「独立しろ」と主張している意図は、物理空間とは異なる仮想空間を使うことでお互いに干渉し合わない・重なり合わない空間に同時に存在できることに気付くべきで、LGBTQとは偶然にも価値観や性的指向などが異なるだけで、物理空間にいるマジョリティの人々がいない世界を独自に持てるということだ。つまり、自分たちにとって都合の良い世界・空間を自分たちで作ったりすでにあるのであれば加わったりすることの選択肢に気がついて欲しいのだ。LGBTQ世界共和国を作って今いる土地から空間的に独立してはどうだろうか。

私は他の投稿でも度々、国という単位の不合理さや価値の減少について触れているが、例えばある民族・宗教間の争いが仮に解決可能なものであっても、それに国同士の政治的・経済的思惑が重なることで問題をより複雑に解決不可能にしていることが往々にしてある。

ある個人がある価値観を選ぶことに地理的な要因(生まれた地域や家族など)があることは否定しないが、それを受け入れるか、違うものを選ぶか、自分で作り上げるかは本来の意味での人間の自由である。

人間は自分で自分が生まれることを全くコントロールできないことから明らかなように、その存在は全くの偶然であり、その個体としての人間がどんな性的指向を持っているかも全くの偶然である。ここで言っている性的指向に関する偶然とは、人間の性的指向パターンの本来的な分布は決まっているとして、異性愛というマジョリティやLGBTQというマイノリティ(この割合も本来的にはまだ正確に認識されていないはずだが)のどちら(どれ)に振り分け得られるかはランダムに決まるという意味である。(性的指向が例えば6つだけあるとして、ランダムに振り分けられるとサイコロを振ったときのようにそれぞれの目が出る確率が1/6ずつに収束するという意味ではない。)

この偶然に支配された世の中で、たった一つの性的指向、例えば異性愛しか存在することできない世界というのは、偶然という自明の現象に反している。

今の多くの人間は世界は1つだと捉えているかもしれないが、今後、物理空間・仮想空間どちらも含め、複数の世界が併存し、自分に都合の良い世界や心理的安全性はないがチャレンジングで刺激のある世界などを人間の精神は行き来するようになるだろう。

世界が1つなのだとしたら、あなたは国という単位を絶対的なものとして説明できるだろうか。

最後に、私の主張する「独立しろ」は、戦えということにも戦うなということにも取れる表現になっているが、自分や自分の選んだ仲間にとって価値があって解決可能なのであれば戦うのも良いだろう。ただ、自分の固定観念を全く変えないことを決心している人間に対して戦うことが意味があるのかは私にはわからない。いずれ自分も相手も死ぬことを考えると、戦わないという選択をして自分の好きな世界だけで生きることを優先すべきだとも言えるのではないだろうか。

偶然性への悟りと価値観の併存を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?