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傷痕となった風景(雑文)

深夜のテレビで流れる風景が心に刻まれて、一瞬の夢のような一筋の傷のようなものになってしまった。中学生の頃のことだ。

それなりに進学校として名前が売れている(地元では)ところの中学生であった私は、テスト勉強ともなると、深夜2時3時まで起きて机に向かっているのが普通だった。そうでなければ90点以上が取れない。テストの点数はそのまま「内申」とかいう凶悪な数字に直結し、体育に自信のなかった運動音痴の私には、無情に記される通知表の「3」を、別の、知識だけでなんとかできる教科の「5」で補わなければならなかった。
なにしろ、当時の社会科のテストでは「現在の韓国の大統領の名前を答えなさい」とか出問されるのだ(ちなみに盧武鉉大統領であった。私はその設問だけを落とし、97点を取り、悔しくて悔しくて、今では唯一書くことのできる韓国の方の名前になった)。何時間勉強しようと、知識はビニール傘にぶつかる雨粒のように、はじかれてそのまますべり落ちてゆく。果てがなく、容赦もない。

それでも勉強は好きだった。
1日14時間くらいやっているとさすがに脳が沸騰してきて、「物理的に入らない」という、無茶苦茶な気分を体感するけれど、そうすると私は歌を歌ったり、紅茶を複雑な手順で淹れたり、自分宛のメールを書いたり、あるいは深夜帯の、あまり青少年には向いてなさそうなテレビ番組を見たりした。健全な青少年であった私には大体意味がわからなかったので、頭を空っぽにするにはうってつけだった。

その日もひたすらにノートに単語を書き綴り、蛍光ペンで爪を汚しながら、消しゴムのカスを集めて丸めて、ふと目を上げるとテレビには風景が流れていた。

音声もなく、水平線を埋めるだだっ広い森林の中に、断崖絶壁の大地がまるで逆さにしたコップのように「生え」、そこの上空だけに雨が降っているのを、遠くから撮っている映像だった。大地からは大きな滝…その距離を考えれば、想像を絶する量の水が流れ落ち、途中には虹がかかっていた。つまりそこには太陽の光が当たっているのだ。大地の上は豪雨なのに、下層に虹が出るなんて!

脳みそからこぼれおちる単語や数字が、何ページも費やした一夜限りの知識が、丸めた消しゴムのカスみたいに思えた。ビニール傘からすべり落ちる雨粒のように透明で冷たい、今の私には手の届かない知らない国の、知らない景色。

奇妙な大地は荘厳で、晴れた空に突然現れた雨雲が踊るような躍動感でふくらみ、大量の雨を降らし、それでも空ははるか彼方まで濃い青で覆われていた。そして、祝福のような虹。
世界は広くて私は小さい。それだけのことがすとんと、もうほとんど「救い」みたいな感覚で、腑に落ちた気がした。


結局私はその翌日(いや、当日だったかも)のテストではいつも通り高得点を取り、凡ミスを悔しがったりしたけれど、その内容はもう全然覚えてなくて、ただあの奇妙な大地とふくれ上がる雨雲と、鮮やかすぎる青の空とのコントラストだけが今も残っている。あ、盧武鉉大統領も。


次にその風景に出会ったのは本の中でだった。

「おまえさ、ギアナ高地って知ってるか。ベネズエラにあるんだよ。日本なんてすっぽり入っちまうくらいの大きさの、未開の土地だよ。世界最後の秘境とか、よく言われてさ。わたしもね一度、写真で見たけど、まあ、凄いんだよ。テーブルマウンテンつって、風とかと関係で、頭がごっそり削れて、テーブルみたいになった山が広がってんだよ。でこぼこの土地に、珍しい植物がたくさん生えて。雨水とかが、その山から流れて滝になってんだけど、それがまた壮観でな。一キロくらい上から水が落下してくるんだけどな、下まで落ちる途中で、水が水蒸気になっちゃうんだよ。すげえだろ。滝の流れが途中で消えるんだぜ。自然のでかさに圧倒されるぜ、ありゃ」

伊坂幸太郎『バイバイ、ブラックバード』

ここだ!!
と思ったのを覚えている。ギアナ高地!

あまりにも幻想的な風景すぎて、もしかしたらCGなのかも、と思っていたのが現実になった瞬間だった。私はいまだにその風景を自分の胸の中だけで守り続けていたので、いざ(文章とはいえ)目前にしてしまうと……。

ギアナ高地。テーブルマウンテン。途中で水蒸気になる滝。きっとそこに虹がかかって……。

文章と、かつての思い出がレイヤードされて、一層の鮮やかさをもって私に迫ってくる。私は目を閉じてそれを味わう。深夜のひやりとした静けさ、紅茶の匂い、丸めた消しゴムのカスの紙にくっつく感触、蛍光灯が寝不足の目に痛く、ずっと組んでいた足の痺れも、翌日のテストで自分の人生の何が変わるのか、ずっと心配していた中学生の夜。



そういう、一瞬の夢になった、あるいは一筋の傷になった風景をたくさん自分の中にためてゆくこと、を、私は愛しているのかもしれない。
いつか誰かの傷になりたい、と、少し思う。

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