柳田國男の少年期
流山の自宅から八郷の山小屋へ戻る際に、東に大きく遠回りして、千葉県の布佐で利根川を渡り対岸の茨城県の利根町布川へ出た。ここは、僕が尊敬する柳田國男が多感な少年時代を過ごしたところである。彼は、明治二十年(1887)に兵庫県神崎町から、長兄の鼎(かなえ)を頼って家族から離れて一人でこの地にやってきた。すでに兄は布川の小川家の離れで医院を開業していた。この時、柳田國男は13歳。その頃の肖像写真を地元の「歴史民俗資料館」で見たが、その真っ直ぐに正面を向いた利発そうな眼差しと意志が強くてイタズラ好きの表情が印象に残った。彼は、ここで二年余ばかりの間、利根川の土手や野山を泥んこになって飛び回り、小川家の土蔵にあった蔵書を思う存分読んで過ごした。
この布川での体験が、彼の人生に大きな影響を与え、後に民俗学や農政学への道を歩ませたといわれる。布川が「民俗学誕生の地」と言われる所以である。有名な話は、小川家のすぐ近くの徳満寺に掛かっていた絵馬のことである。それは一人の女性が、産んだばかりの赤ん坊を力一杯に押さえつけているという凄惨ものである。後ろの障子には、その女の影が映り、それは角が生えた鬼の姿になっている。柳田國男は、「その意味を私は子供心に理解し、寒い気持ちになった」と後に述べている。江戸時代の後期、飢饉がこの地方を襲って、こうした悲しい出来事が度々あった。絵馬はそれを戒めたものだろう。柳田國男は、これを見て、生涯、民衆の暮らしに眼差しを向け続けて、「飢饉を絶滅しなければならない」と学問に励んだといわれている。
柳田國男の著書を読んでいると、文学的な情感に富んだ名文だと思うことがよくある。それは若い頃から「文学」と近しいところにいたからだろう。森鴎外に可愛がってもらい、島崎藤村とも親友で、彼も「新体詩」を作っては藤村と並び称されたそうだ。あの柳田國男が恋の詩を作っていたのだ。しかし、その後突然やめて農政学の学問に集中した。(だから、この頃の作品は全集に入っていない)
もう一つは、柳田國男の資質である。それを示すエピソードがある。小川家の奥に小さな石造りの屋敷神(氏神)の祠がある。いたずら好きの柳田國男は、家の者が誰もいない時に、おそるおそる石の扉を開けてみた。すると、中には綺麗な石の玉が入っていた。彼はそれを見た途端、気持ちが変になって、見上げたら真っ青な空に星が幾つも輝いているのが見えた。すると、突然、ヒヨドリが「ピーッ」と鋭く鳴いて空を横切ったので、正気に戻ったという。後に、「もし、あの時にヒヨドリが鳴かなかったら、私はあのまま気が変になっていたかも・・・」と言っている。こうした体験が、民間の不思議な伝説や出来事に関心を持つことに繋がったのかもしれない。それよりも、彼は、もともと感受性が高く、神秘的なものに関心を持つ体質だったのだろう。
今回、小川家を訪れて、最も見たかったのはこの祠である。出来たら、その中に納められている「綺麗な石の玉」も。しかし、あたりに誰もいないからと言って、石の扉を開けるわけにはいかない。止むを得ず、土蔵の中に展示してあったレプリカで我慢することにした(笑)。
(後日、実物を見る機会があったら、また報告します)
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