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夜刀神に会いに

『常陸風土記』の行方郡の段に、角を生やした蛇体の神の話が出てくる。その遺称地とされる夜刀神社と椎井池に行ってきた。神社は小高い丘の上にあった。丘の下は谷になっていて、そこに椎井池がある。池と言っても泉で、底からコンコンと澄んだ水が湧き出ている。少し先には木々に囲まれたどんよりとした沼がある。あたりは椎や白樫の巨木、竹、杉などが鬱蒼と繁って薄暗く、あまり気持ちの良いところではない。もちろん誰もいない。

湧水

この角を生やした蛇の神は、「夜刀神(やとのかみ)」と言って、その姿を「見る人あらば、家門を破滅し、子孫継がず」とある。継体天皇の時代(6世紀初か)、箭括氏麻多智(やはずのうじまたち)という人が、谷を開墾しようとしたら、「夜刀神」が群れをなしてやってきて妨害をしたという。そこで、麻多智は、彼らと戦って追いやり、人の地(田)と彼ら神の地(山)を区分してその境界に印となる大杖を立て、祟りが無いように山の上に社を建てて祀ったという。その後、孝徳天皇の時代(7世紀中)になって初代行方郡の地頭である壬生連麿(みぶのむらじまろ)が、池の堤を築こうとした時、再び「夜刀神」の群れが現れて、椎やケヤキの木に登っていつまでも去らないので、使役していた人々に「恐れる事なく、目に見える全てを打ち殺せ」と命じたら逃げ去ったそうだ。その現場が椎井池と伝えられている。

椎井池

この伝説をどう解釈するかだが、Wikipediaによると学者の説では「人による開拓以前の野生状態の自然を可視化したもの、自然の持つ霊威を形象化もの」であるとなっているが、そんな抽象的で、牧歌的なものではないだろう。
これは谷の湧水地周辺に住む先住民と耕作地を広げようとして入植してきた人たち、もしかしたら大和系の人たちとの支配地争いと協定をめぐる出来事を物語っているではないかと思う。「蛇」だの「土蜘蛛」は、原住民を貶める大和系の常套手段だからだ。

幸か不幸か、池や神社の周りをいくら探しても、ついに夜刀神には会えなかった。(笑)

この奥、崖下に湧水がある


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