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あの空、友の空。~筑波海軍航空隊を知る~

どうも、お久しぶりです。らむねびん。です。

皆さんは「神風特別攻撃隊」というのをご存じですか?

飛行機に爆弾を取りつけ、敵の艦船に飛行機ごと体当たりする、旧日本陸海軍が創設した部隊のことです。

その始まりは終戦の約1年前にさかのぼります。

1944年10月。

日本軍はフィリピンへ向けて総力を挙げてアメリカ軍を蹴散らすことになり、すべての艦船や航空機、兵力を投入します。

当時の第5航空艦隊司令官、大西瀧二郎は同年6月下旬のマリアナ沖海戦で大敗した後、

「アメリカ艦隊をたたくには、航空機の体当たり攻撃で確実的に損害を出すしかない」

とし、初めて特攻隊が編成されます。

最初に特攻隊が飛び立った部隊は「敷島隊」で、隊長は、台南空などで戦ってきた、「関 行男」大尉でした。

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最初の特攻隊「敷島隊」の隊長を務めた関 行男大尉。

引用元:https://www.ricepier.jp/%E6%B0%B4%E3%81%AE%E9%83%BD-%E8%A5%BF%E6%9D%A1%E5%B8%82%E7%B4%B9%E4%BB%8B/%E9%96%A2%E8%A1%8C%E7%94%B7-%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E4%B8%AD%E4%BD%90


そのあと陸軍も海軍の特攻隊による戦果を聞き、特攻隊を編成します。

これが陸軍最初の「特攻隊」、「万朶隊」(ばんだたい)となります。

特攻隊の始まりはざっとこんな感じになります。

では本題に入りましょう。

茨城県笠間市に、

「筑波海軍航空隊記念館」という施設があります。

この施設は、映画「永遠の0」のロケ地としても使われました。

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引用元:https://traveltoku.com/thkuba-navy/

この記念館がある場所はかつて「筑波海軍航空隊」がおかれた場所でもあるのです。

ではここでざっと「筑波海軍航空隊」についてみていきましょう。

1934年に茨城県西茨城郡宍戸町、現在の茨城県笠間市にあった国立種羊場の跡地に開かれた霞ケ浦海軍航空隊友部分遣隊がルーツとされています。すでに1928年より陸軍が所沢陸軍飛行学校の離着陸演習場として使用しており、海軍も1931年より使用していました。1932年より霞ケ浦海軍航空隊の陸上練習機練習場とするために昭和9年に完工しました。

1932年8月15日に霞ケ浦海軍航空隊友部分遣隊が発足。

同年9月1日に第26操縦練習生が入隊し、「筑波海軍航空隊」は始まりを告げます。

1936年に予科練を卒業した兵士に対する初歩訓練が開始。

1938年12月15日に「筑波海軍航空隊」として独立し、第11航空連隊に編入。以後、予科練や操縦訓練生の初歩訓練、中間訓練に従事することになります。

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操縦訓練生が搭乗し、訓練に励んだ「九三式中間練習機」

操縦訓練生たちはこの「九三式中間練習機」に乗り、日々厳しい訓練に励んでいました。

太平洋戦争勃発後の筑波海軍航空隊

1941年12月8日。日本がアメリカ・ハワイの真珠湾に奇襲攻撃をかけ、太平洋戦争がはじまりました。

開戦初期は連勝の連続でしたが、1942年6月のミッドウェー海戦で大敗を喫すると、防戦一方に日本は追い詰められてしまいます。

日本に敗戦の色が濃くなった1944年、

筑波海軍航空隊に変化が訪れます。

1944年3月15日に筑波海軍航空隊の教育課程を「練習機」から「実用機」に変更します。

つまり、「九三式中間練習機」のような練習機ではなく、「零戦」を使った「実際に戦闘に使われている飛行機」を使った練習課程に変更されたのです。

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練習用として使用された「零式練習戦闘機11型」引用元:https://www.jiji.com/jc/d4?p=zft812-75859669883424537&d=d4_mili

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海軍で使用されていた「零戦21型」の尾輪、前輪のカバー、機銃を外して練習機として使用していた「零戦21型 練習機型」引用元:https://yanesan.livedoor.blog/archives/cat_50049991.html

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アメリカ軍の本土空襲時に迎撃機として使用された「零戦52型」(写真は零戦52型乙)引用元:https://hobbycom.jp/workshop/library/zero/9/1505

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零戦52型と同じく迎撃機として使用された「紫電11型(紫電)」引用元:https://www.jiji.com/jc/v2?id=20110904japanese_naval_aircrafts_04

実用機課程は解散した大分海軍航空隊より機体と人員を受け継ぎ、練習機課程は現在の航空自衛隊築城基地になっている築城飛行場に移し、二代築城海軍航空隊を新設します。

1944年4月22日に大分から機体と人員が到着し、実用機訓練が本格的に始まります。11月5日には教員・教官から編成された「邀撃戦闘機隊」を編成します。

特攻隊「筑波隊」編成へ。~1945年~

1945年。敗戦の一途をたどる日本は、アメリカにどんどん日本本土に近づいてきていました。

日本近海の制海権、制空権を完全に掌握したアメリカ軍は日本軍を完全にたたくため、1500隻の艦船を投入。また、サイパン島から、「超・空の要塞」と呼ばれた爆撃機、「B-29」が飛来。日本本土を焼き尽くしていくようになります。

筑波海軍航空隊があった笠間市も連日、アメリカ軍の空襲に襲われました。

1月9日 東京にB-29が8機襲来。紫電5機で迎撃、戦果なし。
2月15日 零戦補充。零戦24、紫電8体制確立。
2月16日 関東に4波にわたり敵機動部隊艦載機襲来(ジャンボリー作戦)。零戦全力、紫電半数で迎撃。9機撃墜、13機喪失。
2月17日 前日に引き続き5波にわたり敵機動部隊艦載機襲来。零戦14機で迎撃。第2波以降は会敵せず、第1波で2機撃墜、1機喪失。
2月20日 特別航空隊編成下令、鹿島海軍航空隊にて訓練開始。
2月25日 関東に敵機動部隊艦載機襲来。零戦14機で迎撃。5機撃墜、8機喪失。稼働機は9機に減少。

筑波の迎撃隊も戦いますが、徐々に稼働機を削られていってしまいます。

3月1日に第10航空艦隊が新編され、筑波海軍航空隊の所属していた第11航空連隊は隷下に入ります。

そして3月28日ついに筑波にも特攻隊の編成が下令されました。

神風特別攻撃隊「筑波隊」の編成が開始されます。

筑波隊は計8個の特攻隊が編成されました。

3月下旬に最後の訓練生の操縦訓練を終了。

3月30日に「天一号作戦」に筑波海軍航空隊の制空隊の12機が鹿児島県出水市の出水飛行場に転出となります。

さらに4月5日には筑波隊の8個のうち5個部隊が鹿児島県鹿屋市の海軍鹿屋飛行場に進出し、翌6日、「菊水一号作戦」が開始され、「第一筑波隊」が出撃しました。この後も筑波の制空隊や特攻隊は出撃し、

4月12日 「菊水二号作戦」発動、制空隊出撃、沖縄上空で空中戦。
4月14日 第二筑波隊突入。
4月16日 「菊水三号作戦」発動、制空隊出撃、第三筑波隊突入。
4月20日 十一連空解散、第五航空艦隊に転籍。2個筑波隊進出(最後の第八筑波隊は26日進出)。
4月29日 「菊水四号作戦」発動、第四筑波隊突入。
5月5日 菊水作戦従事部隊の紫電隊を筑波空に一元化。定数96に増強。
5月11日 「菊水六号作戦」発動、第五筑波隊突入。
5月14日 「菊水七号作戦」発動、制空隊出撃、第六筑波隊突入。
5月29日 関東にB-29襲来、残存邀撃隊で迎撃、2機撃墜。
6月10日 関東にB-29襲来、邀撃隊で迎撃。
6月22日 「菊水十号作戦」発動、第一神雷隊に第七・第八筑波隊参加。

筑波隊は隊員64人のうち、55人が特攻で若い命を散らしました。

その後、筑波海軍航空隊は本土に侵入してくる米軍機と戦います。

6月28日 関東にB-29襲来、邀撃隊で迎撃。
7月8日 関東にP-51ムスタング襲来、邀撃隊で迎撃。

本土決戦を前に、九州方面にあった制空隊は峯山・美保・姫路などに分散配置されましたが、一方の筑波残留隊は香取にも展開します。本土決戦に備えているうちに終戦を迎え、そのまま筑波海軍航空隊は解隊されました。

筑波海軍航空隊の司令部のその後

筑波海軍航空隊が置かれた司令部などの施設は、

友部飛行場の跡地は茨城県内の各旧軍飛行場に比べると比較的多く残されており、茨城県立友部病院の管理棟は司令部をそのまま転用しました。隊門やグラウンドも病院施設として使われました。

2011年10月、友部病院は茨城県立こころの医療センターと改称し、新病棟に移設します。施設内には「筑波海軍航空隊」に関する史料の展示ルームが開設されました。旧司令部庁舎は解体の予定でしたが、映画『永遠の0』などのロケ地として使用され、2013年12月20日から2014年5月6日までの予定で「筑波海軍航空隊記念館」として公開します。その後延長され、リニューアル後の2018年6月3日に恒久施設となりました。

このほか、隊員遺族や元隊員が建立した慰霊碑と、地元関係者が慰霊と平和祈念のために建てた碑が跡地にあります。

日本海軍が今までできなかったことをただ一人やり遂げた筑波隊パイロット。

「筑波隊」には、太平洋戦争中、何度壊れても戦場に戻り、日本海軍を苦しめた空母「エンタープライズ」を復帰不可能なダメージを与えたパイロットがいました。

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引用元:http://papamama.asablo.jp/blog/2012/01/08/6282976

パイロットの名は「富安俊助(とみやす しゅんすけ)」海軍中尉。

大正11年、長崎県に生まれ、間もなく東京都に引っ越します。幼少期は「メバチ」というあだ名で呼ばれ、その後早稲田大学に進学、柔道部に所属していましたが、すべてのスポーツに長けていました。また音楽を愛し、ハーモニカバンドを組んでコンサートもしていたそうです。

昭和17年9月に早稲田大学政治学と経済学の学士号を取得し卒業した後、満州鉄道に就職しました。しかし1年後に学徒出陣を受けて海軍に入隊します。飛行専修予備学生として、筑波海軍航空隊に配属され、短期間でありながら訓練に励みます。

昭和20年4月22日。

富安中尉は出撃のため鹿屋飛行場へ進出。出撃の時を待ちます。

昭和20年5月14日。

富安中尉の所属する「第6筑波隊」は、500キロ爆弾を抱えた零戦15機が鹿屋を飛び立ちました。爆弾のせいで機体が重く、滑走路の端いっぱいに行ってようやく機体が浮いたそうです。

途中1機がエンジンのトラブルで引き返し、14機となりましたが、同じく鹿屋を飛び立った第11建武隊、第8七生隊、第6神剣隊の爆装戦闘機12機と合流し、合計26機となって南のアメリカ空母機動部隊を目指します。

これを察知したアメリカ軍はすぐに迎撃機を発進。特攻機のうち19機が敵戦闘機に撃墜され、6機が対空砲火によって撃墜され、特攻機は富安中尉機のみとなってしまいます。

午前6時56分。

富安中尉は対空砲火を避けるため、いったん雲に身を隠します。そして時折雲間から顔を出しては「エンタープライズ」の位置を確認していました。

一方の「エンタープライズ」は20分前からレーダーで富安中尉機をとらえていましたが、雲に隠れていたために、なかなか効果的な攻撃ができないでいたのでした。

「エンタープライズ」が回頭。艦尾を向けた瞬間。

富安機は急降下。

「エンタープライズ」は集中砲火を浴びせますが、横滑りを駆使する富安機になかなか致命傷を与えられず、懐へ進入を許してしまいます。そのまま「エンタープライズ」の横腹へ突っ込むかと思いきや、

富安機は上昇し、艦の真上へ。そして180度左旋回すると、

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引用元:http://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2014/12/post-2c26.html

午前6時57分。背面飛行のまま、「エンタープライズ」の前部エレベーターに突入。

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引用元:http://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2014/12/post-2c26.html

「エンタープライズ」の前部エレベーターは突入時の衝撃で、上空約120mの高さまで吹き飛びました。「エンタープライズ」は大破し、航空機の運用ができなくなり、戦線離脱。二度と戦場に戻ることはありませんでした。

富安機の突入により、「エンタープライズ」のクルー、175人の死傷者を出しました。突入した富安中尉も22歳という若さで命を落としました。

クルーたちは亡くなった水兵たちを水葬した後、富安中尉をたたえる名誉式典を行い、空母クルーたちと同じように手厚く水葬に付しました。

「エンタープライズ」は終戦まで入渠修理を強いられ、戦後は兵員引き上げ船として使われたあと、そのまま除籍となりました。

富安機の零戦の機体の一部が戦後返還され、現在は海上自衛隊鹿屋基地にて展示されています。

また富安中尉の衣服に入っていた50銭札が戦後アメリカの研究家により、遺族に返還されました。

さいごに

太平洋戦争が終結して76年の月日が経ちました。私がなぜ、このnoteを使って戦争についての記事を書いているのか、

それは、

「戦争」を『過去の出来事』として片づけてほしくない」からです。

戦争を経験した方の平均年齢が約82歳になっている現在、戦争体験を語る人が年々減ってきています。このままでは「風化」が進んでしまいます。

そのため、今を生きる私たちが経験者から体験を聞き、後世に伝えることが、私たちのやるべきことだと思います。今ある手段を使い、戦争を伝え、「平和」とは何か、もう一度考えてほしいと私は思います。

今は新型コロナウイルスが再び猛威を振るっており、思い通りに行動ができませんが、終息したら、私は改めて「筑波海軍航空隊記念館」を訪れたいと思います。このnoteを呼んでくれた皆さまもぜひ、全国に残る戦跡を一度でもいいから訪れて、「平和」について考える機会を設けてくれたら、と私は願っています。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

またお会いしましょう。

記事の参考にさせていただきました。




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