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新たな挑戦と貴公子の登場

はいどうも、らむねびん。です。今回は、ホンダのF1復帰と音速の貴公子の誕生のホンダF1第二期をご紹介していきます。最近、RIOTMUSICのMVの感想もこのnoteに書いていきたいなと思ってるこのころ。

夢のチャンピオン獲得へ。ホンダF1第2期

ホンダがF1の活動を休止してから、10年が経過した1977年、レース復帰の気運が高まり、準備が進められていました。

その間、ホンダは大きな会社となり、レースについていた人達はすでに会社の上位に立っていました。

1977年の春に、マスキー法に代表される大気汚染予防対策がCVCC(リーンバーン(希薄燃焼)させることで排出ガス中の有害物質を少なくする技術)の研究開発により、見通しが得られます。

2輪レースにおいては、1979年から、世界グランプリに復帰しましたが、4輪車においては、F1界においての10年間の進歩を考えると、すぐには踏み切れず、F2での実績と経験を積み上げてからF1に挑戦するという方法をとりました。

この方法を取ったためにF1の参戦に5年の歳月を費やすことになります。

F2参戦2年目の1981年、ヨーロッパF2選手権制覇を成し遂げ、1983年から1984年には、通算12連勝という大金時塔を打ち立てました。

並行して、1983年にはF1のエンジン開発も始めました。販売チャネルの3チャネル化に向けた市販車の拡大を控えていたこともあり、研究所では超多忙の日々が続いたそうです。

量産車を犠牲にしないという担当者の川本さんの方針は、その後も貫かれました。

第2期はF1界での市民権を得るため、エンジンをヨーロッパの車体メーカーに供給して、共同での作戦によって参戦する形を取りました。

第2期でホンダがエンジン供給していたのは、ロータス、マクラーレン、ウィリアムズなどといった、長い参戦歴を持つチームに供給していました。

ホンダの目標は、もちろん世界一です。しかし、10年の間にF1は様変わりし、当時の面影はほとんどありませんでした。チームの所属する国を示す、ナショナルカラーはスポンサーカラーへ変わり、技術競争のみならず、スポーツ性やエンターテインメント性が台頭してきていたのです。

そんな中で自社でマシンを作るということになったら、コンストラクターとの利害とぶつかることになってしまいます。そのためホンダは将来の製品を作っていく技術とはあまりにかけ離れていると判断し、エンジン・サプライヤーとして参戦することを決断しました。そして1980年、ヨーロッパF2選手権でRA260Eエンジンで実戦復帰し、1984年までに3回のチャンピオンを獲得しています。

引用元:https://www.honda.co.jp/Racing/gallery/1983/01/

1983年7月のF1イギリスGPにてスピリット・ホンダDAでホンダはF1の舞台に再び立ちます。シルバーストン・サーキットには15年ぶりのホンダの復帰に大勢のカメラマンやジャーナリストが詰めかけました。

引用元:https://www.as-web.jp/f1/141033

シルバーストン・サーキットはイギリスにあるサーキットで、F1だけでなく、WEC世界耐久選手権や、GTインターナショナルチャレンジなど様々なカテゴリーのレースが開かれています。気になった人は是非チェックしてみてください。

しかし、結果は期待とは裏腹にわずか5周でリタイアしてしまいます。この年の最終戦では、ウィリアムズ・ホンダが登場。ケケ・ロズベルグのドライブでかろうじて5位入賞を果たしました。

引用元:https://www.honda.co.jp/Racing/gallery/1986_2/01/

チームメンバーは第1期からの経験者は少なく、F1は初めての若い技術者たちで構成されていました。商品の開発に携わる若い技術者たちを厳しい極限のチャレンジの中で育てたいという狙いがあったのです。しかし、ホンダだから勝って当然という見方が多くいました。

1984年にはウィリアムズと契約を結び、「勝つ」という強い意志とチーム体制でF1に臨み、第9戦ダラスGPにてケケ・ロズベルグが優勝を飾りました。

復帰後の優勝はホンダを勇気づけるとともに、今後に明るい希望をもたらしましたが、F1の世界はそんなに甘くはありませんでした。高速サーキットの多いヨーロッパラウンドに移っていくと様々な問題が再発します。これらの問題を解決するために、ホンダは、基礎研究部門はもとより、量産市販車部門にかかわるメンバーも加わり、2週間後に訪れる次のレースをターゲットにし、連日連夜対策会議を行いました。それでもうまくいかず、行き詰ってしまいます。考えた結果、次のように考え直すことにしたのです。

(1)量産車で培ったエミッション、燃費技術の観点からエンジンのスペックを見直す

(2)原因解析のため、テレメトリーシステムを開発し、経験や勘ではなくデータで判断する

(3)エンジンの耐久性確認のため、実走テストだけではなく、ベンチでのシミュレーションテストができるようにシステムを開発する

(4)燃料系、点火系、ターボ系の各システムをさらに知能化するために必要な、各部門の開発体制を整える

(5)レース運営と開発・テスト部隊を分離し、エンジンのメンテナンスはイギリスで行えるようにする

このように原点回帰することで、理想のF1エンジンの姿が浮かんできました。

ホンダの黄金期と音速の貴公子~アイルトン・セナとホンダ

1985年のカナダGPではでは久々に2台完走、ダブル入賞し、第6戦デトロイトGPでロズベルグが優勝。ホンダの快進撃の始まりです。1986年にはウィリアムズ・ホンダがコンストラクターズ・タイトルを獲得しました。

そして1987年、日本の人にF1を知ってもらいたい、興味をもっと持ってもらいたいというという考えのもと、三重県鈴鹿市にある鈴鹿サーキットのF1招致に成功します。そうです。F1ラウンドに日本グランプリが追加されたのです。鈴鹿サーキットは、ホンダのサーキットでもあるのです。このサーキットは19年間日本グランプリの舞台として、日本のF1浸透に貢献したのです。

この記念すべき第1回日本グランプリにはネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセルのウィリアムズ・ホンダ、アイルトン・セナと日本人初のフルエントリーF1ドライバーである、中嶋悟のロータス・ホンダにエンジン供給を行っていました。

引用元:https://f1-gate.com/honda/f1_55890.html

中嶋悟さんは、御年68歳。現在はレーシングドライバーを引退されて、SUPERGTの「Modulo NAKAJIMA Racing」、SUPER FORMULA の「TCS NAKAJIMA Racing」のチーム監督を務めております。この写真の後ろの黄色いマシンがロータス・99T。中嶋さんのデビュー時のマシンだったんですね。

2チーム4ドライバー体制で臨み、ウィリアムズ・ホンダが念願のドライバーズ、コンストラクターズの両タイトルを獲得しました。

1988年にはマクラーレン・ホンダでアイルトン・セナ、アラン・プロストの二人で臨み、16戦15勝という、驚愕の勝ち数を出しました。

この時のちょっとしたエピソードでセナが88年鈴鹿のレース後、宗一郎さんに呼ばれて、レース後の食事に参加しました。その時の食事で、セナは宗一郎さんに、「うちのクルマで勝ってくれてありがとう。」と感謝の言葉をもらったそうです。セナは感謝されるとは思わず、感動して、涙を流し、食事もあまりできなかったそうです。また、宗一郎さんに会った際、「お前のために、最高のエンジンを作ってやるよ。」と言われ、セナは「本田さんは日本での父」と感涙したそうです。セナは、ホンダに厚い信頼を寄せていたんですね。

左がセナ、右が宗一郎さん。本当に固い絆で結ばれていたんですね。

引用元:https://f1-gate.com/ayrton_senna/f1_56193.html

1988年にはマクラーレン・ホンダで16戦15勝という圧倒的な強さを誇りましたが、1989年にレギュレーションが変わり、ターボエンジンの使用が禁止されます。この時点で、ホンダ内部では、初期目標の達成とターボエンジンの使用禁止という観点から、参戦休止という意見が出てきます。しかし宗一郎さんは「ターボ禁止はホンダだけか?全チームが同じ条件で戦うというのならいいじゃないか。それでこそ、ヨーロッパの人達に評価されるじゃないか。」と意見したのです。

マクラーレンMP4/5

引用元:https://www.honda.co.jp/Racing/gallery/1989/01

結果的に厳しい燃料制限を克服するため、3.5L NA(自然吸気)エンジンを開発。参戦を継続します。そして、ダブルチャンピオンは1991年シーズンまで続くことになります。91年はマクラーレンにV12エンジン、ティレルにV10エンジンをそれぞれ違うタイプのエンジンを供給して、将来像を描きながら挑戦を続けましたが、「所期の目標を果たした」として、10年の区切りを迎えた1992年シーズン終了をもって、ホンダは再び休止することとなります。

この時の参戦終了の知らせを聞いたセナの映像があります。かなりショックをうけていることがわかります。

ホンダが撤退した後、セナはマクラーレンに残り93年シーズンを戦います。フォードエンジンに切り替えたマシンはかつての速さはなくなっていて、勝てるレースが少なくなっていきます。94年には、それまでいたアラン・プロストがF1を引退。入れ替わる形でセナがウィリアムズに移籍します。セナにとって、ウィリアムズの加入はかねてからの夢だったそうです。

この後、悪夢のような時が来るとはだれも予想していませんでした。

1994年、4月30日。F1サンマリノグランプリ予選。この時から、悪夢は始まっていたのかもしれません。予選中、ジョーダンGPのルーベンス・バリチェロがシケインで大クラッシュを喫します。これにより、予選は赤旗中断。ルーベンスは病院に運ばれましたが、決勝レースに出ることは絶望的になりました。運営側は、コースの安全が取れたとして予選を再開。この時セナはどこか落ち着かない様子だったといいます。

悪夢は続いてしまう。

午後1時過ぎ、ビルヌーブコーナーでシムテックのローランド・ラッツェンバーガーが大クラッシュ。車体がほぼ粉砕されてしまうほどのクラッシュで、ローランドの首はもたれかかりました。すぐに救急班が駆け付け、緊急手術を受け、すぐにヘリコプターで病院に運ばれました。セナはこの時マーシャルの車に乗り、事故現場に駆け付けます。このときのセナの動揺は恐怖の顔になったといわれています。

ローランド・ラッツェンバーガーは搬送先の病院で死亡が確認されました。死因は頭蓋底骨折と内臓破裂でした。ほぼ即死状態だったそうです。94年シーズンからF1に来たばかりだけでなく、恋人との結婚式間近だった時の悲劇でした。

セナはチームのガレージに戻り、そして電話で恋人のビビアーノさんに、

「走りたくない」

と言ったといいます。

結果予選はセナがポールポジションを取り、終了。

5月1日、決勝。レーススタートから、また空気は変わります。

スタート直後、スタートに失敗したマシンが後続に追突され、大クラッシュ。この時、破片が観客席にまで飛び、多数のけが人を出してしまいます。

しかし、運営は処理が終わった後、レースを続行。

事故続きなのに続行をしたのです。普通なら中止レベルですよ。

先頭はセナ、二番手のベネトンのミハエル・シューマッハを引き離しながら、レースを進めます。シケインを曲がり、緩やかなカーブの「タンブレロコーナー」に差し掛かったところで、悲劇がセナを襲います。

二番手のシューマッハの目の前で。

引用元:http://watapon-f1.com/imora1994-sunday/

タンブレロコーナーでセナは突然マシンのコントロールを失い、

コンクリートウォールへ激突。

マシンはバラバラ。すぐに救急班が駆け付け懸命に治療し、病院に搬送されましたが、努力が報われることなく、

セナは帰らぬ人になりました。まだ34歳の若さでした。

この知らせは世界中に衝撃が走りました。一番衝撃を受けたのは間違いなく日本と母国ブラジルでしょう。

1991年に本田宗一郎さんは亡くなりましたが、生前の「自動車メーカーの経営者が車の渋滞を起こすような社葬を行ってはいけない」という言葉を守り、普段開放していない青山本社の地下の駐車場を開け、車で来たファンたちに配慮するなどしてセナの死を悼みました。この時はCMノーカットで生放送が行われていたようです。

3度のワールドチャンピオンの死は世界中に衝撃を与えました。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。次回は、ホンダ第3期、佐藤琢磨とオールホンダ、スーパーアグリの挑戦~です。

またお会いしましょう。

記事の参考にさせていただきました。
6/8火曜日※閲覧してくれた方からのご指摘を受け、確認したところ、ルーベンス・バリチェロの所属チームが間違っておりました。正しくはジョーダンGPです。訂正してお詫び致します。

出典:https://f1-gate.com/honda/f1_56246.html

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