見出し画像

佐藤琢磨とオールホンダ~日本メーカーの挑戦~ホンダF1第3期(前編)

はいどうもこんにちは。らむねびん。でございます。今はバイト探し、ワイヤレスイヤホン迷いの森にはまってしまっており、抜け出せない状況となっております。(笑)通学中にTikTokでここあちゃんの弾き語りを見るのが今の僕の楽しみになっていますね。早く通信容量増やしたい・・・。

さて今回は、2002年から世界金融危機で世界が大混乱した激動の2008年までのホンダ第3期をご紹介していきます。その前にあるブランドのF1でのエピソードをご紹介していきます。

1992年ホンダが撤退した年、あるブランドがF1に参戦しました。SUPERGTでは、おなじみの、あの目玉のマークです。

ダウンロード (1)

引用元:https://www.facebook.com/mugen1973/

ホンダのブランド、「無限」。現在の「M-TEC」です。

1992年から、1991年にティレルに供給されたエンジン、「RA101E」をベースに開発された、「無限MF351H」でF1への参戦を開始します。ホンダが撤退した後も、ホンダの技術を使って、作った無限ホンダエンジンはF1に参戦し続けました。1996年にはオリビエ・パニス(リジェ)が無限ブランドとしての初優勝を挙げます。この勝利を皮切りに、1998年には、インディ500、ル・マン24時間、そしてF1のモナコグランプリと世界3大レースを制した、グラハム・ヒルの息子、デイモン・ヒルが、序盤の多重クラッシュ、首位を走っていたミハエル・シューマッハが周回遅れのデビッド・クルサードと接触してリタイアするなどの波乱のレースを制し、ラルフ・シューマッハが2位に入るなど、無限ブランドとして、初のワン・ツーフィニッシュを飾ります。ちなみにホンダがエンジン・サプライヤーとしての参戦を終了した後、かつてのライバルであったフェラーリに技術供与を行っていました。

1999年にはハインツ=ハラルド・フレンツェンがフランス、イタリアGPで優勝を飾りました。なお、フレンツェンのF1生涯における3回の優勝のうち、2回が無限エンジンでの優勝でした。

画像2

フレンツェンが優勝を飾ったときのマシン、ジョーダン199。引用元:http://miyabikun.blog.jp/archives/1061901539.html

2000年もシーズンの終了まで、無限ホンダとしてジョーダンにエンジンを供給する予定でしたが、この年からホンダがB・A・Rのために開発したエンジンを投入したことに伴い、シーズン途中からホンダブランドとしてのエンジンがジョーダンに供給されたことにより、2000年度をもって、無限ブランドとしてのホンダエンジンの供給は幕を閉じました。ちなみに上の写真のマシンにはノーズの部分にスポンサーであったイギリスのたばこメーカー、「ベンソン&ヘッジス」のスズメバチが描かれており、世界のF1ファンから人気がありました。

フルワークス参戦の模索と断念


1998年、本田技研工業の当時の社長だった川本信彦から、「シャシー製造でのフルワークスでのF1参戦」を明言します。その後、イギリスにあるHRD(ホンダ・レーシング・デベロップメント)を設立して参戦準備を進めます。デザインを日本で行い、イタリアのダラーラ社が製作を行い、ホンダRA099が完成。テストドライバーとして、現在レッドブル・ホンダのマックス・フェルスタッペンの父、ヨス・フェルスタッペンを起用してサーキット走行を行えるほどまで準備が進みました。しかし、ここで悲劇が起こります。

当時テクニカル・ディレクターを務めていた、ハーベイ・ポスルスウェイトがバルセロナでのテスト中に急死したのです。

これで、テストの進捗度は滞り、またホンダ社内に残る慎重論などを背景に、

ホンダはフルワークスでの参戦を断念したのです。

画像4

エンジンサプライヤーとしてのホンダ復帰

2000年、B・A・R(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)へエンジン供給と車体の共同開発を行うという形でF1に復帰します。2000年シーズンはすでにB・A・Rによってマシンが製作されていたため、本格的な車体の共同開発は2001年以降となりました。

エンジン供給にとどまらず、2002年からはホンダ独自のギアボックスの開発が行われました。当初はギヤなどの内部部品とマグネシウムケーシングの研究が行われました。マグネシウムケーシングに関しては2002年のB・A・R004で採用されましたがB・A・Rがカーボンファイバーケーシングの採用を決定したことから、開発はそちらに移行されました。内部部品の方に関しては開発が継続され、2004年から実戦投入されました。2005年には、変速時のパワーロスをなくすシームレスシフト(クイックシフト)を実戦投入し、2006年以降、他のチームにも急速に広まっていきました。2001年と2002年には、ジョーダンにもエンジン供給を行いました。

辛く、苦しい第3期序盤

2000年から始まった第3期は、第2期とはことなり、なかなか良い結果を残せずにいました。2002年にある男がF1に参戦を開始し、日本にF1旋風を巻き起こします。二度のインディ500を制した日本人、

画像3

引用元:https://f1-gate.com/sato/srs_45852.html

レーシングドライバー、「佐藤琢磨」です。

琢磨さんは現在44歳。現在はアメリカの「インディカーシリーズ」にレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングから参戦しております。今年のインディ500は14位で残念ながら連覇することができませんでした・・。

佐藤琢磨さんは2002年、ジョーダンGPから、ジャン・アレジと交代する形で加入。最終戦の日本グランプリでは、5位入賞するという快挙を成し遂げます。しかし翌年、ホンダがジョーダンへのエンジン供給を取りやめたため、事実上解雇されてしまいます。その後、琢磨さんはB・A・Rに移り、テストドライバーとしてチームに貢献することになります。この後は後半にお話しします。

目指せ、打倒フェラーリ~2004年シーズン

2004年シーズン、ホンダは引き続きB・A・Rにエンジンを供給し、ジェンソン・バトンとレギュラードライバーに昇格した佐藤琢磨のコンビでシーズンを戦います。(下の写真は2005年のもの)

画像5

引用元:https://response.jp/article/2005/01/17/67159.html

オフシーズンのテストでトップタイムを連発し、フェラーリに引けを取らないパフォーマンスを発揮。2004年のフェラーリの対抗馬になるのではないかともいわれました。

この年から、タイヤをブリヂストンからミシュランに変更。

B・A・R006を投入します。

画像6

引用元:https://jp.motorsport.com/f1/news/f1-2020-nostalgia-beaty-F1-bar-honda-006/4666593/

このタイヤ変更もあったのですが、このマシンはうまく対応させることができました。この年、11回もの表彰台に上がります。そのうち1回は琢磨さんのアメリカGPでの3位表彰台でした。

当時、ホンダのほかにトヨタも2002年からF1に参戦しています。しかし、トヨタのマシン、TF104は2003年のTF103の改善を図ったモデルでほとんどコンセプトの変化がなく、序盤戦は苦しい戦いを強いられました。

画像7

引用元:http://www2u.biglobe.ne.jp/~siof/2004/TF104.htm

2004年シーズンは、フェラーリ、ウィリアムズ、マクラーレン、ルノー、B・A・Rホンダと5つのチームが優勝争いをする年でした。しかし、皇帝ミハエル・シューマッハの強さはやはり他を引き付けない速さで圧倒します。

歯車がかみ合わない苦難の2005年

2005年、B・A・Rはドライバー体制はそのままに、チーム体制は完全Hondaワークス体制となりました。2004年のB・A・R006の正常進化であるB・A・R007を投入します。

画像8

引用元:https://response.jp/article/2005/01/17/67159.html

しかし、昨年のように連戦入賞、とはいきませんでした。

2005年度からF1のレギュレーションに「タイヤ交換禁止」「ダウンフォースの削減」という項目が新たに追加されます。

特に後者の項目が、

B・A・R007に大きく影響してしまいます。

空力的にセンシティブな傾向となってしまい、制限された中でのダウンフォースを活かしきれず、扱いづらいマシンとなってしまいました。

B・A・Rホンダは昨年コンストラクターズ2位だったのに対し、この年は6位に転落してしまいました。ドライバー別では、ジェンソン・バトンが37ポイント、対する佐藤琢磨は、なんとハンガリーGPでのわずか1ポイント。

わずか38ポイントしか獲得できませんでした。ちなみに2004年度は二人合わせて119ポイント。大転落です。

2004年度にたばこ広告禁止のうわさが立ち込め、BATとホンダの動向が注目されました。話し合いの結果、2007年度までのホンダエンジンの供給、ホンダのB・A・Rの資本参加、BATが55%、ホンダが45%出資してBARHリミテッドを設立。B・A・Rのチーム運営の取得、B・A・Rのプロドライブとの契約の解消が締結、チーム監督、デビッド・リチャーズはチームを去ります。この影響が翌年に出てしまうんですね。

栄光と純日本チームの挑戦~2006年シーズン

画像9

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BBSA06

2006年、世界でたばこ広告禁止の採択が可決され、F1マシンからたばこ広告が消えます。この年、B・A・Rから、ホンダとして参戦したホンダレーシングはジェンソン・バトン、フェラーリから移籍した、ルーベンス・バリチェロというコンビになりました。ここでお気づきの人がいるかもしれませんが、

佐藤琢磨はホンダのシートを獲得できませんでした。

しかし、琢磨に手を差し伸べたチームがあります。

元F1ドライバー、鈴木亜久里率いる「スーパーアグリ」です。

その年から、完全日本チームとして参戦したスーパーアグリは、佐藤琢磨と井出侑治(のちにサンマリノGPでの接触によりスーパーライセンスをはく奪されたため、フランク・モンタニー、山本左近に変更)のコンビでシーズンを戦います。

しかし、F1の道は険しいものでした。

まずマシンです。スーパーアグリのマシン、SA05は4年落ちのアロウズA23を2006年の規定に合わせて改造したマシンで、戦闘力は著しく足りなかったのです。

画像10

引用元:http://miyabikun.blog.jp/archives/1076596274.html

そのため、予選タイムはトップの4秒落ちと苦しい結果に。ミッドランド、トロロッソよりも遅いマシンになってしまいました。そのため、佐藤と井出の二台で最下位争いをしているような状態になることが多々ありました。

次に資金です。スーパーアグリはプライベーターチームのため、スポンサーをつけて資金を集めていましたが、額が少なく、開発に制限がかかっていたのです。今後この資金難がのちのシーズンに大きく響くことになりますが、それは後編でお話します。

親チームのホンダはというと、新しいV8エンジンでの戦いに苦戦するものの、徐々に力をつけ、ハンガリーグランプリではジェンソン・バトンが第3期初優勝を果たします。

画像11

引用元:https://f1-gate.com/honda/f1_56225.html

スーパーアグリでもSA05を改良し、SA06を投入します。

画像12

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BBSA06

このマシンで徐々に戦闘力が上がり、日本グランプリでは佐藤琢磨が15位に入りました。

しかし慢性的な資金不足で苦しみ、また、スポンサーが1年限りで撤退してしまうなど、スーパーアグリは参戦初年度から苦しい戦いを強いられることになります。

きょうはここまで。次回は後編をご紹介します。

また、お会いしましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?