見出し画像

解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-外伝-9

長編小説『路地裏の花屋』外伝『ツツジ色の傘』読み直しつづき。

《第三章 ふたたび屋
 三日間音のない雨が降り続き、水曜日の明け方になってようやく止んで、朝食を済ませた頃には眩しい陽が差して心まで晴れ上がるような青空となった。模糊庵は中西を書斎に呼び、そろそろ先の件について動き出そうと思うが、と前置きをしてから、仏像泥棒の濡れ衣を着せた女のことを草子自身が「知人」だと言ったのは少し妙だと思わないかと聞いた。草子はその女のことを、店の住所以外は名前も知らないと言ったのだった。
 中西は記録用紙を見ている。「もともと名前も知らないのだからなあ。濡れ衣を着せられたせいで友人とは言えなくなって格落ちとなり〈知人〉となったという訳ではなさそうですね」
「どういった知り合いかを聞いておくのを忘れてしまったな」
 模糊庵はどっかりと腰かけていたデスク椅子から立ち上がって、中西のいるテーブル横まで行き丸椅子に跨るように腰掛けた。「そういうことを聞き忘れるなんて、私としたことが」
「あの時、なんとなく草子さんのペースに巻き込まれたような感じでしたね」
「君もそう思うか」
「今にして思えば、先生の仏像研究とはかけ離れた内容の調査かと――」
 中西は言いにくそうにしている。
「考えてみればそうだな」
 模糊庵は顎髭を握りしめて目を上に向けた。
 書斎の天井には薄茶色の線で百合の紋章が描かれた壁紙が貼られており、その線上を小さな黒い虫が這っているのが見えた。蜘蛛だろうか。
「ですが、ちょっと興味があります。草子さんの件について、僕としても」
 中西も虫を見上げていた。
 まるで二人の視線に気付いたかのように、虫は素早く動いてシャンデリアもどきの電灯まで辿り着き、その留め金のひとつまで進むと、つうと糸を垂らして下へ降りようとしていた。やはり蜘蛛だったらしい。
 中西は立ち上がって小窓を開けた後、蜘蛛の糸の中程を親指と人差し指でつまんで千切り、慌ててもぞもぞ動く蜘蛛を外に出してやっていた。前の道に停車している車のミラーやまだ雨の乾かない葉の裏に朝陽が反射して、銀紙のような眩しさを放っていた。
「やっと晴れましたし、今日の午後にでも、その知人とやらの店に行ってみましょうよ」
 窓から少し身を乗り出して蜘蛛の行方を確かめているようだった。しばらくして窓を閉め、振り返って、ね、と笑う。

 その店は、模糊庵の家からそう遠くない場所に存在した。私鉄の駅へと向かう道を反対側に歩くと古びた小さな寺があって、店は寺の付属物のようにひっそりと建っている。その寺の宗派は模糊庵自身が受け継いできた仏壇の出所と違うのだが、ただそれだけのことで、長年近くに住んでいても存在すら気付かなかった。
「意外と近くにありましたね」
 中西は門前に立っている案内札を撮影している。「ここは曹洞宗だとか」
「私は真言宗ですからね、なんとなく宗派というものが違えば建物すら目に入らなくなってしまうものです。避けていたわけでもありませんが、私にとって寺というのは神社とは違って遠慮を感じるところがあるのです。蕎麦屋に行くみたいに、いつも行く店を今日はやめてこっちに変えてみようかなという感じでは気軽に考えられないものでありまして、こうして仏像の研究をしておりましても、有名な像があるらしいと聞かない限りは全く足を運ばなくなる。しかし、実際はお恥ずかしい話ですな」
 しみじみと反省して鼻を鳴らさずにはいられなかった。
「仕方ありませんよ、駅も逆側ですし。お住まいの方からはゆるくても上り坂ですから、わざわざ来ようという気持ちにはなりにくいでしょう」
 入り口前の柱には『ふたたび屋』と書いた看板が括り付けてあり、戸は開け放たれたままで長めの紺暖簾が垂れ下がっていた。腕時計を見ると午後二時三十分。やはり雨が降り出す気配はなく、風もないので暖簾は閉じた扉のようにそよとも動かなかった。入り口近くの会計机の向こうに毛糸の帽子を被った女が一人、背もたれのない椅子に座って本を読んでいた。パッと見たところでは三十代後半くらいか。店の構えも内装も古いままだが、明かりだけは裸の白熱球ではなく今どきのスポットライトに変えられており、壁に掛けられた時計や版画の類を煌々と照らしている。置いてある物のほとんどには薄い染みがあり、どうやら古物の類を扱っているらしいことがわかった。それらの埃臭さと寺から届く線香の香りが混ざり合って店内を満たし、ちょっとした古物であったとしてもこの店に数週間でも並べられたら、何か貴重な骨董品としての価値が現われてきそうだった。
 店の女は、二人が中に入ってきても全く気付きもせずに本を読んでいる。模糊庵はむしろ気付かれないようにそっと奥まで入って行った。
「ふたたび屋って、おもしろい名前ですね」
 中西が率先して第一声を上げると、女は驚いた風に身体をぴくりとさせて本にしおりを挟んで閉じた。「骨董屋さん?」中西は女の方は見もしないで棚に展示してあったぐい呑みを手に取り、裏返したり表に返したりして眺めている。「骨董屋だからふたたび屋?」
「骨董と言えるものばかりじゃありません。お預かりして、そのまま中古として引き取って店に並べているものもあります。この場所は以前お寺が経営する茶店でしたの。お蕎麦を出したり、お団子を出したりしていましたのよ。でも、蕎麦屋を取り仕切っていた御爺さんがお亡くなりになったから閉めて、もう建物も取り壊そうとしていたところ、趣味で骨董を集めていた私にお声が掛かって譲り受けることになりました。つまり、一度閉めた店をもう一度開けたから、ふたたび屋――」

 中西と女が話をしている間に模糊庵は店の中を物色するように歩き回り、肘から指先程度の高さがある花瓶をひとつ探し当てた。深緑色の地に滝が流れるように茶色の釉薬が掛けてある。なかなか渋い。
「これを頂戴しようかな」
 いきなり買うのかと言いたげな目で見ている中西を無視しつつ「いやはや色も形もおもしろい」会計机の上に置いた。
 女は中西との話をやめ、模糊庵をじっと見た。
「昨日届いたばかりです。お目が高いのですね。今このお店にある物の中でそれだけは新品です。ある有名な陶芸家が、お遊びで時々、銘を入れずに焼いて届けてくださいます。自分は名前だけのものかどうかを確かめたくて、そうやって試験をされているそうです。だけど、やっぱり、すぐに売れてしまいます。ただし、一度でも彼の作品をお売りした方にはそれで終わり。二個目を売らないようにと言われています。もちろん、その方の名前をお伝えすることは出来ませんが」
 中西と話している時とは打って変わって、営業用の口調だった。
「私の目利きも、なかなかのもんだろ?」
 模糊庵は嬉しくなって横目で中西を見た。中西は唇を前に突き出し、ほおん、とうなずいている。「おいくら?」
「五千円です。あり得ないでしょ?」
「それでは土と窯の火の値段にもなりませんね」模糊庵は大きくため息をついて見せた。
「よくご存知ですのね」
 女が言うと、また中西を見て、ほうらね、と言い、小さく目配せをして微笑む。
「ひとつのよい形を生み出すためには、その何倍もの失敗作を陰で割っているはずですからな。この花瓶ひとつの物理的な土の量や窯の火の燃料だけでは価格を物語ることは出来ません」
 女は深く頷く。
「そういう真実はこちらからは申し上げたくても口に出せないことですけれど」
 よくぞ理解して頂いたとでも言いたそうだった。彼女の見開いた大きな瞳で見つめられると、救世主になったようでなかなか心地もよい。
「ところで、ちょっとお伺いしたいことがありましてね」
 和んだところで模糊庵が切り出す。「噂話ですが、こちらで仏像が盗まれたとか」
 花瓶を薄紙に包もうとしていた女は手を止めて
「どこでお聞きになりましたか」
 模糊庵の顔を訝しげに眺めた。
「飲み屋です。私は仏像研究をしておる模糊庵というものですが、仕事柄興味が出てお伺いしました。その盗まれた仏像、誰の作かはお分かりですか」
 中西は二人の話を聞かないふりして、狭い店内を歩き回り始めたようだった。器や壺、火鉢や南部鉄器の類が所狭しと並んでいるのをひとつひとつ見ている。
「模糊庵先生でいらっしゃいましたか。お名前だけですけれど、存じています。そうそう、仏像雑誌で記事をお見かけ致しました」
 女は驚いた様子で両手を打ち鳴らし「その噂話でお聞きになった仏像は、実を言うと、私が彫ったものですの」打ち鳴らした手を胸の前に組む。左手の薬指には指輪がはめられていた。
「あなたが?」
 模糊庵はこちらを見た中西と目を合わせた。「どのような、仏像で?」
「写真がありますわ。お見せしましょうか。仏像と呼べるかどうか分かりませんけれど、心を込めて彫りましたから、盗まれた時にはショックでしたの。気になっていたので見て頂けるなんて光栄ですわ」
 薄紙に包んだ花瓶を木箱に入れて紐を結ぶと、会計机の後ろにある書棚から一冊のアルバムを取り出して頁を繰り始めた。「これです」
 確かに写真に写っているのは、草子が持ってきた仏像にそっくりだった。
「前から撮った写真しかないの?」
 店内を歩き回っていた中西が急いで戻ってきて言うと、
「後ろもありますよ。ご覧になりますか」
 女は頁をめくった。「ほら」
 後ろに、天使の羽はなかった。
「何かを参考にして彫られたのですか? たとえば、円空仏とか。非常に似ておりますけれど」
 模糊庵は髭を撫で始めた。
「円空のことは存じておりますし、なんとなく記憶にあって似たようなものを彫ってしまったということはあるかもしれませんけれど、写真や何かを見て彫ったわけではありません。材料は店を改築した際に余った木片を使いました。お茶屋でしたから、今で言うカウンターのように横に渡された樹木がありましたの。骨董屋としてはどうしても邪魔になるから、大工さんに頼んで外してもらって棚に造り変えたりしたけれど、それでも余った木片がとってあったからそれを使って彫りました」
 中西は店内に置いてある小皿等を無造作に手に取って眺めつつ、女に向かって問いかけた。
「どうして、また、仏像を? ここにはそういう品物はなさそうですが」
 眠った猫を象った置物を女に見せている。「もしかしてお寺の傍にあるから売れると思って?」
「あれは売り物ではなかったの。ただ厄払いとして彫りました。お店で奇妙なことが起きるようになって、御守りみたいなものが欲しくなりましたから」
「奇妙なことって?」
 模糊庵と中西は口を揃えて言い、顔を見合わせて黙り込む。
「奇妙なこととはどういったことですか?」
 模糊庵が代表して改めて聞いた。
「店の商品がなくなったり、また現われたりといったこと。ある小鉢の揃えが来てからのことです」
「小鉢揃え?」
「もしよかったら、器をご覧になりますか? 売り物ではありませんけれど、あちらに商談用のテーブルがございますから、ご覧になるのなら、そちらに移りましょう」
 女は立ち上がって毛糸の帽子を脱いだ。長くまとめていたらしい髪がはらはらと肩に落ちた。すると初対面では三十代後半に思えたものが、今度は二十代後半に見える。模糊庵は長い黒髪にすっかり見とれてしまった。若い頃の松子のようではないか。こうなると、先程までは地味に見えていた藍色の作務衣もむしろ華やかで艶っぽいものに思えた。先日の草子といい、今日のこの女といい、女性の年齢というものはパッと見では判断できないものだ。腕に巻いていたゴムで長い髪を右側の肩の上でひとつにすると、「どうぞこちらへ」と店の奥へ入って行った。》

つづく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?