見出し画像

解読 ボウヤ書店の使命 ㉚-14

長編小説『ポワゾン☆アフロディテ№X』読み直し続き。

《第五章

 1 帰還

 これもまた、まるみの事件をほぼ解決し終えた八田一之介の日常風景だ。

『ヨメイセンコク』

 ある早朝。

 朝食を終えた八田一之介が二階から事務所に降りてきたところ、沈丁花の香りが鼻についた。これはいつも通り、やや大きめの案件が持ち込まれるお知らせだろうかと息を大きく吸い込んだが、わずかに香りが違う。通常なら焦げた沈丁花のようだが、もっと生々しい、咲いたばかりの新鮮な花のものだった。
 ――いつもと似ているが、少し違う。
 腕組みをして、細かく鼻を鳴らして嗅ぎまわりつつ、ソファやテーブルの周りをゆっくりと歩いた。犬じゃあるまいしと自身でも思う。
 すると、背後から急に声を掛けられ、心臓が飛び出るかと思うほどに驚いた。
「八田さん」
「わあっと」
 振り返りながら、飛びのく。「だ、誰だ」
 小柄な老女が一人、うつろな目を床に向けて立っている。今時、こんな婆さんがいたのかと思うような、こげ茶の格子柄の和服を着ていた。白髪を結い上げ珊瑚の付いた簪を差している。手には風呂敷に包まれた箱を持っていた。
「どこから、入った?」
 今日は、まだ事務所の鍵は開けていないはずだ。
「鍵が開いておりました」
 床に眼を落したままで老女が言う。声だけはよく通って柔らかく、姿形からは想像のできない透明感。なにか菫のように若い。
「そんなはずはないけれど」
「いえ、開いておりました」
 笑顔ひとつ見せない。
「ところで、なんの用ですか」
「こちらでは問題を解決してもらえると聞いてお伺いしました」
 老女は手に持っていた箱をデスクに置き、着物の胸の合わせから封筒を取り出し、中に入った札束を引き出して見せ、「こちらがお代でごさいます」と言う。
「適当にご自身で見積もり、持ってこられたのですか」
 一之介が言うと、
「いえ、こちらの常連さまが、その問題ならこの程度と教えてくださったので。大きい方のお札を十枚」
 十万円だろうか。それなら大型案件の場合における初回の相場だが。それとも、もしもこの老女が化けた狐なら柏の葉が十枚か。
「常連とは?」
「それは秘密にしてくれと仰って」
 床に向けていた目をちらりと一之介の方に向けた。
「秘密にしてくれだなんて、なんだか気持ち悪いじゃないですか」
「そうですけれども、そこは我慢していただいて、ぜひとも話を聞いて頂きたく思います。それと言うのも、私はもうすぐ死ぬ身だそうです」
 ろくろの上で回っていた陶芸土がぐしゃりと潰れた時のように、固かった表情をゆがめ、一之介をじろりと睨んだ。
「死ぬ身だそうです、って、誰に言われたのでしょうか」
「それはお医者様に。ヨメイセンコクだそうです。だけど、それも珍しく、明日、死ぬそうです。普通なら、何ヶ月とか言うそうですが、私に限っては、明日、死ぬそうです」
 悲しいとも怒りともとれない、震える声を出した。
「明日お亡くなりになると決まっているのでしたら、問題を解く必要もないのではないでしょうか」
 一之介は人情を見せることなく言ってみた。
「それはどうして? できるだけ多くの問題を解決してから死ぬことが、人としての使命ではございませんか。そうしなければ、また生まれ変わってしまうのでしょう?」
 老女の表情は再び正しく整って、床の一点を見つめていた。
「それはどうだか」
 死生観は人それぞれだからと言おうとした時、老女の首に細い金のネックレスがあるのが見えた。カーテンの隙間から差し込んだ光が反射したのだ。茶色の格子柄の着物に似合わない、よく磨かれたゴールドだった。
「まあ、いいでしょう。ひとまずお話を聞くだけ聞きましょう。聞いた後、お受けする場合にはその大きい方のお札を十枚頂きますし、お受けしない場合には、それでもお話を聞いた時間分ということで、一枚だけ頂きます。それでどうですか?」
 一之介が言うと、老女は黙って頷き、一之介の勧めに従ってソファに腰掛けた。
「問題と言うのはこれでございます」
 デスクに置いた箱を改めて膝の上に乗せ、風呂敷包みの結び目を外し始めた。
「まるでお骨が入っているみたいですね」
「みたいというか、まさにそれ」
 老女は口角を持ち上げて、にんまりと笑う。
「どなたの?」
「それが問題なのです」
「それが問題って、誰のものだかわからない、とか?」
「いいえ、わかっております」
 結び目を外し終えた老女は、箱からさらに小さな骨壺を取り出した。
「小さいね。たとえば、亡くなった飼い猫の骨とか?」
「いいえ。これは、その、私としても受け入れがたいのですが、この骨は実は、私の骨でございます」
 老女は下から覗き込むように一之介を見た。
「はあ? 先ほどのお話では、お医者様に余命宣告をされて、明日お亡くなりになるのでしょう? だとしたら、その前日である今日、たった今、そこにお客様の骨があるのは変ですね。タイムマシンで未来にでも行って、掘り返して持って来られたのでしょうか」
 一之介は真面目顔で言った。
「たぶん、違います。いや、そうかもしれません」
「たぶん、と言うのは?」
「これは二年前に宅配便で届けられたものです。差出人が孫の名前になっているものですから、つい受け取ってしまって。でもその孫は送ったつもりはないと申します。開けてみたら、ほら、こんなメモが入っていました」
 老女は骨壺に紐で結ばれている封筒を外し、一之介に手渡した。
 ――これは、あなたさまのお骨でございます。お受け取りくださいませ。差出人より。
「なんとも不思議な手紙ですね。お客様のお骨だなんて、冗談でしょう?」
「冗談だと思いました。でも、なんとなく捨てるのも怖いし、無縁仏としてお祀りしようかと思いましたが、ふと思い付いて、警察で鑑識の仕事をしている親戚がおりますから、念のためDNA鑑定をやってもらいましたら、恐ろしいことに、私のものとぴったり」
「たとえば一卵性の双子の姉妹でもいらっしゃったとか? 小さいうちに亡くなったとか」
「いいえ、おりません。そんな話は聞いたことがございませんし、万が一、秘密のままにしてあったが実際には居たとして、どうしてそれなら何も名乗ることなく、孫の名前など使って送り付けたりするのでしょう。しかも、DNA鑑定はぴったり私です。どうにもしようがなくて、私はこれを二年間、御仏壇に置いておりました。捨てようもないし、お墓に入れようもないですし」
「誰かがタイムマシンで未来に行って、掘り返してきたのかもしれませんね」
 一之介はメモを封筒に入れて、老女に返した。
「妙なことでしょう? どうしたらよいでしょう。ヨメイセンコクにより、私は明日死ぬのです」
「お元気そうに見えますが、本当にお亡くなりになるのでしょうか。まさか、自殺なんかしないでくださいよ」
「まさか。私はまだあと五十年くらいは生きたいのですから。お医者様がそう仰るので、そうなのかと諦めているだけでございます」
「御病気ですか? 余命宣告だなんて」
 お世辞ではなく、老女はまだまだ生きられそうに見えた。五十年は無理だとしても、少なくとも十年くらいはピンシャンして。
「病気ではありません。寿命です」
「寿命? そんなこと、医者にわかるのでしょうか。わからないでしょう。お客様、あまりよくないお医者さまに催眠術でもかけられているのではありませんか」
 老女の眼を覗き込んだ。
「そうでしょうか」
「そうですよ。いくらなんでも、明日寿命で死ぬ、と宣告する医者はいませんよ。どう見ても、まだまだお元気ですよ」
 一之介が言うと、老女はほのかに笑顔を見せた。
「本当に?」
「ええ、本当に」
 真顔で言うと、老女は、
「私、嬉しゅうございます」
 と目に涙を浮かべた。「もう、明日、死ぬものと思って、覚悟しておりましたから」
「催眠術が解けたなら、それでよろしいでしょう。でも、その骨壺はどうされますか? 誰かさんから届けられた、お客様の骨なんでしょう?」
 一之介が指さすと、
「そうなんですけど、そんなこと、わからないこと、もうどうでもよくなっちゃった」
 と、老女は急に何か、それこそ憑き物が落ちたかのように晴れやかな調子で言い、骨壺の蓋を開け、突如として、それを拡げた風呂敷の上でさかさまにした。
「ああ、なんてことを」
 一之介は思わず立ち上がった。
 老女がふふふと笑いながら骨壺を振ると、中から骨がころころと出てきた。
「そんなことして、大丈夫ですか?」
 おろおろして言った。
「うふふ、なんて、小さな骨」
 老女は細い指でひとつ拾い上げ、驚いたことに、かりんとうでも食べるかのように口の中に入れて噛み砕いた。
「うわあ、何を!」
 一之介はあまりに驚いてくらくらし、再びソファにどっさりと座り込んでしまった。「骨を、食べるだなんて。それも、ご自身のものかもしれないものを」
 あまりに驚愕して動けなくなっているのをいいことに、老女はぽりぽりと骨を食べ続け、
「私のものなら、別にいいんじゃない? うふふ、不謹慎なんてこと、ないもん」
 とうとう全部食べてしまった。
 動くことも、口を開いて話すことすらできなくなっている一之介の眼を、老女はじっと見て、
「あ、でも――」
 と言い、何か不安げな顔をして、少し苦しそうに胸を押さえた。
「何か、飲み物をくださらない?」
 そう言われても、一之介は動けない。金縛りに遭ったかのようにじっとしていると、老女は立ち上がって、自分で水道まで行って、硝子のコップに水を注ぎ、ごくごくと飲み干した。
「あら、やだ」
 老女は振り返って、一之介の方を見た。先ほどまでと、何かが違う。白髪に黒髪が混じっている。そして、徐々にその黒髪の分量が増えていく。
「まあ、なんで?」
 手のひらを見て、甲を見て、着物の腕をまくって手首の辺りを見ている。
「やだ、私、手のシミが消えている」
 老女は一之介の傍に駆けよってきた。一之介は、うわっと言ってのけぞってしまう。
「お客様、髪もなんだか、白髪じゃなくなっていきますよ」
 震えながら言った。
「えっ? ほんとうに?」
 老女は入り口横の鏡の前に歩いていき、背伸びをして自身の姿を映した。
「あら、ほんとうに」
 そうこうするうちに、老女はどんどん若返って、焦げ茶色をした格子柄の着物の胸元は柔らかそうに膨らんではちきれそうになっていた。首がすっと伸び、着物の柄には不似合いな金のネックレスが露わになっている。
「八田さん、どうしましょう」
 老女はおろおろしていた。「自分の骨だからといって、不謹慎に食べたりしたから、ばちが当たったのよ」
 とうとう老女は二十代の娘の姿になっていた。
「わ、若返ったのだから、よかったのでは?」
 一之介はおどおどしつつも、なんとか冷静に言ってみた。
「だけど、だけど――」
 老女は頬や首や腕をさすりながら、涙をぽろぽろ零した。
「やっぱり、死んでしまったのね。おばあちゃんだった私は死んでしまったのね。ヨメイセンコクが当たったんだわ。おばあちゃんだった私、死んじゃった」
 そう言うと、声を上げて泣き始めた。
「よかったじゃないですか、若返って」
「いやですよ、こんな風になってしまって、孫や息子が私だってわかってくれるかしら」
「私が証言してあげますよ」
 そう言うと、少し安心したのか、一瞬おとなしくなったが、改めてまた、
「だけど、いずれにしても、ああ、あの老女には戻れない」
 近所に聞こえるだろうと憚られるほどの大声で泣き始めた。
「きっといつかまた、年を取ったら、老女に戻れますよ。それにどこか、あなたはここに来られた時から、なんだか若かった。声が菫のように若かった。今のあなたのその姿こそが、本当のあなただったのかもしれません」
 慰めてはみたが、一向に泣き止まなかった。
 ひとしきり泣いた後、洟を噛んで涙を拭き、
「ご迷惑をおかけしました」
 と言って、空になった骨壺を箱に入れ、風呂敷で包んで帰る用意をした。
「料金は大きい方のお札を十枚置いて帰ります。遠慮なさらないでください。きっと、びっくりされたでしょうから、迷惑料だと考えて、黙ってお受け取りください」
 そう言うと、頭をぺこりと下げて出て行った。
 ――朝から、いったいなんだったんだ。彼女に僕を紹介した常連って、いったい誰なんだろう。
 一之介はあまりの出来事にソファから一歩も動けずにいた。ふとテーブルを見ると、さきほどのメモが入った封筒が置いたままになっていた。忘れて行ったのだろう。
 ――これは、あなたさまのお骨でございます。お受け取りくださいませ。差出人より。
 そして、小さな骨の欠片が三つ、テーブルの下に落ちたままになっていた。抜け落ちた歯のような大きさだ。
 一之介は骨の欠片をそっと拾って、封筒の中に入れた。彼女はいつか、この封筒を取りに戻ってくるかもしれない。事務所の神棚の横にそっと置いて、手を合わせて拝んだ。
 一之介は思う。
 彼女はこの骨三つ分、食べ忘れてよかったのかもしれない。

(『ヨメイセンコク』了)》


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?