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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-外伝-8

長編小説『路地裏の花屋』外伝『ツツジ色の傘』読み直しつづき。

《「ところで、御手紙の仏像の件ですが、お庭に投げ込まれたものを私に見せたいと仰るのでしたね」
 草子は模糊庵の顔をまっすぐに見つめて大きくうなずく。
「御手紙に書いた記事以外にも、街の情報誌に先生が随筆をお書きになっているのを読んだことがあるわ。毛糸屋の隣にあるお堂に収められている仏様のお話だったかしら。時々夜中に背中を向けて立っているという話」
「書きました。嘘じゃありませんよ。時々それを見かける人が出没するのですが、携帯のカメラで写真を撮ろうとすると元通りになるそうで。なかなか証拠写真は撮れません。私自身はまだお背中に出くわしたことはありませんが」
 それを聞いた中西は記録を取りながら必死で笑いを堪えているようだった。というのも、背中を向けて立っている仏像の話は、雑誌コラムの入稿締め切りが迫っていた時にどうにもネタがなくて困ったあげく、模糊庵自身が無理やりでっち上げて提出したものであり、中西にはそのことをこっそり教えたばかりだったのだ。草子はすっかり真に受けて、嘘ではないと主張する模糊庵の説明を真顔で聞いて、やはり笑顔ひとつ見せずにさもありなんとうなずいている。どうやら真面目な女性のようだ。
「あの記事の中で、仏像というものは生き物みたいなものだとお書きになっておられました。そんな見解をお持ちだから、きっと私の話も理解してもらえると思ったの。今日は、私の庭に投げ込まれた仏像を持ってきました」
 草子は斜め掛けにしている鞄からごそごそと紫の風呂敷に包まれている物体を取り出し、「これですわ」きっちりと結び目が作られている風呂敷を細い指で懸命に解いていった。
 中から現われたのは生まれたての赤ん坊くらいの大きさで、色の方もまるで新生児の如く赤茶色をしている木彫りだった。草子のどうぞと手渡す仕草さえ生き物を取り扱うように何か恭しい。
「円空仏のような風情ではありますね」
 受け取った模糊庵は顔を近付けてまじまじと眺めてから、中西の方に目をやり、小さく首を横に振る。 そんなわけあるまいと言いたかった。中西は記録用紙に何かを書き込んでいる。
「私もそう思いました。まるで円空仏のような気がするの」
 声の調子が少し上がって、小麦色のふっくらとした頬に僅かな赤みが差した。「実は、昨日、ここにお伺いする前にも調べておこうと思って、知り合いの古道具屋にも見て貰いました。木の状態からすると年代的には確かに古いものに思えるけれど、道具屋さんが所蔵しておられた円空の目録で調べても、何とも判定できないと言われて。というのは、後ろをご覧になって」
 模糊庵は言われた通りにひっくり返して背中側を見た。上背部分に衣類の彫はなく、肩甲骨部分には波型が彫り込まれている。要するに羽根ということになるだろう。
「天使、ですね。これでは、まるで。道具屋さんが判断できないと仰るのも無理はないですよ。それで、どんな風に庭に投げ込まれたのですかな」
「投げ込まれたのかどうかはわかりません。ただ、気付くと庭にありました。楓の木の横にきちんと立っていましたの。だから、正確には投げ込まれたのではないのかもしれないけれど、家の者は誰も知らないというから、投げ込まれたようなもの。そうでしょう? 木の性質として古いものは古いし、円空のような彫り方をしたものには他に木喰という方の仏像もあるそうだけれど、古道具屋さんはそういう後ろ姿の細工のものは全く知らないと言われました。だから、やはり、残念だけどちょっとした、単なる民芸品かもしれないとか」
 模糊庵は草子の話を聞きながら、木彫りの前や後ろをしばらく指で撫で回した。
「背中側は前を彫った人とは別の人が後から手掛けたものかもしれませんね。前方の滑らかな彫と少し違う。砥の粉か何かで色味は同じようになっておりますが」
 草子はあくまでも無表情ではあったが、なるほどというように顔を縦に振った。
「でも、問題はそれが誰の彫ったものかではありません。それよりも、どうして、それが私の家の庭に投げ込まれたかなの。実は二か月前に私は知人から仏像を盗んだ疑いを掛けられて、とっても心外に思っていたところで、その人は、防犯カメラに私に似たような人が映っているからそう思ったと言われて、嫌な思いをしました。でも、その盗まれたと仰られた日は、私、お仕事でしたから、職場の方たちに頼めばその日お店になんか行っていないことは証明できます。それなのに、また、追い打ちをかけるように、そんな仏像みたいなものが投げ込まれて、しかもこれ、その知人が盗まれたと言っている仏像にそっくりなのよ。だからもう……」
 上下の唇をしっかりと合わせて息を大きく吸い込んでから「がっかりよ」目を伏せた。
「がっかり?」
 中西は記録している手を止めて草子の方に目をやり首を傾げた。ここはがっかりしている場合ではないと言いたいのだろう。
 模糊庵は仏像をきっぱりと机の上に置いた。
「私に何をお聞きになりたいのですか。私は仏像を好きではありますが、探偵のような仕事はしておりませんから、あなたの代わりにもろもろのことを調査して差し上げることはできませんよ。誰が盗んだのかとか、誰が投げ入れたのかとか」
 実のところ、関わると厄介な気がしたのだ。
「まずは話を聞いていただきたいの。だって私は知人のお店に行ったこともないのよ。それなのにどうして、防犯カメラに映らなければいけないのかしら。それに私、そういうお人形のようなものって好まないのです」
 草子は上目づかいに模糊庵を睨んだ。
「お人形って、これは仏像ですよ。民芸品だったとしても、仏像を模して彫られているものです」
 模糊庵は慌てて訂正させようとする。
「分かります。ご利益があるものなのでしょう? でも、だからと言って、私盗んだりしませんわ。そんなものくらいのことでああだこうだ言われて」
 草子の顔は紅潮し険しくなっていった。膝の上に添えていた手のひらをぐっと握りしめている。「悔しい」
「草子さん、仏像というものはご利益のために造られるものではありませんよ」
 仏像研究家である身としては、草子の言い方にややむっとせずにはいられなかった。「お人形だとか、そんなものくらいとか仰ると罰が当たりますよ」
「ごめんなさい。でも私、どうしたらいいかわからなくなってしまって」
 前歯で下唇を噛み、すねたように模糊庵を睨んだ目には涙が滲み始めた。「なんにも悪いことしていないのに。責められて」
「いや、まあ、それはお気の毒でしたね」
 模糊庵は慌てて優しい声を出した。やはり涙には弱い。「では、いっそ、これは焼いてしまったらどうでしょうか。確かにお仏像を焼いてしまうなどというのはそれこそ罰が当たりそうですが、草子さんのように可愛らしい方が苦しんでいるのなら、この仏像も喜んで焼かれてくれるかもしれません。なんなら私がお預かりして適当な時期を見計らい、知り合いに頼んで供養してもらいましょうか」
 それはなかなかよい案だと思ったのか、それとも、意味がよくわからなかったのか、草子はしばらくぽかんと模糊庵の顔を眺めていた。
「でも、疑われていることには間違いないし、誰が何の目的でそのようなことをするのか知りたいの」
 小さな声で言い、人差指で目尻の涙を拭った。「なんとかしてもらいたいの」
「じゃあ、どうします? 私に何かできますか」
 草子の切実そうな様子を見ていると、模糊庵の方まで悲しくなってくる。
「私の代わりに知人のお店に行って、その防犯カメラの映像を確かめてきてもらえませんでしょうか。私に似ているかどうか。私、自分では行きたくないから。だって、ドッペルゲンガーだったりしたら嫌ですもの。できれば私から頼まれたと言わないで、こっそり見て来てもらえませんでしょうか」
 ドッペルゲンガー? 妙なことを心配するものだ。確かにドッペルゲンガーと遭遇した者は死ぬとの言い伝えはあるけれども。模糊庵は中西と目があった。中西は口を動かして模糊庵の方に何かの言葉を言っている。あ? あ? い? お? お? なんだ?「変わり者?」だろうか。また余計なことを言い始めた。ひとつ咳払いをして、眉間に皺を寄せて顎髭をしきりに手櫛で梳きながら、中西の方を見たり天井を仰いだりした後、
「お受けしてもよいですけれど、その場合はどこかの仏像雑誌のコラムにでも、このお話が載ることになりますけれど、それでもよいですか。もちろん名前は仮名ですし、若干変更いたしますが。通常持ち込まれた仏像の調査をする場合には原稿料が報酬と決まっておりますので」
「それで構いませんわ。どうしてもお願いしたいの。疑われたままだなんて、嫌よ」
 草子の涙は渇き、ぴんと背筋を伸ばすと毅然とした様子に戻った。
 模糊庵は腕組みをしながらひとしきり顎鬚を撫でた後、まあ、それならばお引き受けいたしましょうと言って、その知人とやらの店の住所などの必要事項を聞いた。中西が記録を取り終えペンを置くと、草子は
「仏像は置いて行きます。お調べ頂いて、結果を聞きにくるまで預かって下さい。または、もしそれが知人の店のものだったらそっと返しておいて下さい」
 と言い、それ以上余計な話はせずにさっと立ち上がって玄関へと向かった。

 戸を開けると、外はまた音のない糸屑のような雨が降り始めていた。それでも風は止んで、西に傾いた太陽の光が雲間から柔らかく洩れており、連なって落ちる細かい霧雨がところどころで金色に煌めいていた。草子は玄関を出て路地に降り立つと、傘をさっと広げて差した。
「後はよろしくお願いします」
 見送りに立った模糊庵と中西を振り返ってぺこりと頭を下げる。傘の赤紫色をした影が無表情な頬や灰色のワンピースをほんのりと染めた。
「綺麗な色ですね」
 中西はしみじみと言った。どうやら、心底驚いたらしい。
 草子は先程までは模糊庵以外には誰もいないかのようにふるまっていたのに、ほんの少し唇の端を持ち上げただけの笑顔を中西に向かって見せた。「私、傘だけは明るい色にするのよ」
 少しだけ気取って見える。
 へえ、と間抜けな声を出して中西が頷いている。
 傘は梅雨時に咲く庭のツツジと同じように、特に際立って可憐なわけでもなければ、気高そうなわけでもなかったが、どことなく屈託のない表情を持ち、模糊庵の目には彼女の遠慮がちな姿の中で灯る唯一の明かりに見えた。彼女はどうしてこの色を選んだのだろう。彼女の地味な服装や無表情な話し方、化粧っ気のない顔から考えると意外な色に思えた。きっと中西もそれで驚いたのだろう。水墨画の上に零してしまったツツジの色水のように、見ようによっては失敗の趣すら持つのにも関わらず、さらさらと降る雨模様の風景を間違いなく温めていた。
 彼女が歩き出して路地を曲がるまでずっと見送っていると、その最後までこちらを振り向きもせず不愛想に消えた傘の色は、草子が塗るのを躊躇した口紅のように思えた。本当は、皺が出来ても笑った方が可愛いだろうに。どうして人は、皺の少なさなんかで勝たなければいけないのだろう。》

つづく。

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