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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-外伝-7

長編小説『路地裏の花屋』外伝『ツツジ色の傘』読み直しつづき。

《約束の日、玄関の扉を開けると小柄の女性が立っていた。コンクリートを思わせる灰色の生地で仕立てられたくびれのないワンピースを着て、黒い布製の鞄を斜めに掛けている。七分袖から伸びている細い腕のくるぶしより内側に時計が巻かれ、どの指にも指輪はなかった。化粧っ気はなく、葡萄色をした厚ぼったい唇は一文字に結ばれていた。応対に出た模糊庵を迷子のように揺れる目つきでじっと見つめた後
「庭に投げ込まれた仏像の件でお伺いしました」
 喉の奥を詰めた小さな声で話し、既に閉じた傘の先をトントンと地面に突いて雨の雫を掃い、くるりとベルトを回してホックを留めた。「今日の午後三時に来るようにとお電話で仰ったから。そうこです。草に子ども。ガレージの倉庫じゃなくて」
 風が真横から吹くので霧のような雨が降りかかって、おかっぱ頭の黒髪が頬にくっつき始めた。煩わしいのだろう、付着する髪を細い指で掻き分けるように外しながら耳に掛け、小さく溜息を着いて見せる。早く中に入れてほしいと主張しているかのようだった。肩や袖口、裾の生地にも雨露が染みている。
 梅雨のちょうど真ん中、細かく音のない雨の降る日で、路地のアスファルトも油を塗った鉛のように濡れている。路地向こうにいつの間にかできた水たまりを自動車が容赦なく踏んで、そこら中に泥水を撒き散らして通り過ぎた音が聞こえてきた。
 模糊庵は慌てて
「今日は意外としつこく降りますね。家の中にいると気付きませんでした。さあ、どうぞ」
 肩をすぼめて立っている草子に言い、「傘を玄関先の傘立てに入れて奥へ入るように」と勧めた。

「御手紙は拝見いたしましたが、草子さんと和子とは一体どういうお知り合いでいらっしゃいますか」
 草子を居間の座布団に座らせる。中西が茶の入った湯呑を盆に乗せたままどうしたものかと入り口付近に立っているので、「それはここに置いて、君は横で記録を取りなさい」離れた位置にある二月堂机を指さし同席するように促した。
「和子さんとは小学四年生の時に同じクラスでした。特に仲良くしていた訳ではなかったけれど、上靴の色が一緒でしたの。上靴のつま先にゴムの滑り止めが着いていますでしょ。あの色が和子さんも私もオレンジ色だったのよ。みんなは赤なのに」
 模糊庵は顎鬚に指を入れて櫛ですく仕草をした。「お二人で規則違反をしていたということですかな」
「学校の近くに上靴を買うお店が二つあって、一方ではバッタものとしてオレンジ色を売っていましたの」
 先程の喉を詰めたような声色ではなく、急に水を得た魚のように軽快な調子になった。どういうわけか、模糊庵が顎鬚を梳く仕草をすると多くの人は必ずこのように心を開いて流暢に話を始める。「一割ほど安いけれど校則違反ということではなかったの。でも、普通はみんな赤い方を買いました。私はあの頃、両親のお商売がうまくいかなくて、少しでも安い方をということでそちらを買ったのよ。そしたら、和ちゃんがオレンジの方が素敵ねと言い出して、私もそれにしたいから取り換えてくると言ってわざわざバッタものを買って履いていたの。二人だけオレンジでした」
 丁寧な語尾を使うかと思えば、馴れ馴れしい語尾が混じる。どこかしら幼さを感じさせる話し方なので、座布団の上できちんと正座をして膝の上に両手を添えている草子の姿は、叱られて言い訳をしている子どものように見えた。
「うちの娘が偽善ぶったことをしたのですね。いやらしいことを」
 中西の方に顔を向け、ずれたメガネフレームの上から覗き込んで「なあ」と同意を促してみた。草子の方は、模糊庵がそう言った意味が分からないのか、急に肩透かしを食らったかのようにきょとんとしている。中西はどう答えたらよいか分からない様子で、模糊庵と草子を交互に見比べた後、
「それより先生、失礼ですが草子さんは和子さんと同級生とは思えませんね。随分若く見えませんか」
 話を逸らしたようだった。「えっと、おいくつですか」直接草子に聞いている。
「四十五です」
「それは驚きました」模糊庵は鼻先でずれかけていた眼鏡を指でぐっと押し戻して、草子の顔をじっと見つめた。中西も驚いたように草子の顔を眺めていた。
「先生、和子お嬢さんはおいくつでしたっけ?」
「そういえば、四十五だよ」
「そりゃそうか、草子さんとは同級生ですからね」中西は納得したらしく、「草子さんはお若いですね」もう一度念押しするように付け足した。
「よく言われますの。あまり笑わなかったからだわ。それで皺が出来なかったの」
 言われてみれば、草子の顔は子どものようにつるりとして、どこか心配そうな表情が張り付いてしまった能面のように見える。「父に言われましたの。『お前はお父さんと同じでそれほど容姿に恵まれた顔つきではないからなるべく笑うな。笑わなければ皺が出来ないから、五十くらいで逆転勝ちすることができるかもしれない。それを狙うしかないだろう』って」
「草子さんのお父さん、ひどいですね。ねえ――」
 中西が言い、やはり同意を求めるかのように模糊庵の方を見ると、模糊庵はひとつ咳払いをし、「娘の和子には笑うなと言ったことはないけれども、あいつは愛想が悪くてあまり笑いませんよ。それでも、近頃きちんと年相応に皺は目立ってきたように思う。だから、皺が出来ることに、笑う、笑わないは関係ないと思うが、確かにあなたは、如何にもつるっとして随分若く見えます。驚きました」
 どうにかうまく話にまとまりを付けた。すると草子は初めて笑い顔を見せた。どこかぎこちなく、顔の筋肉がゆるんだ程度のものではあったが、微かに胸を張って鼻を膨らませたようにも見え、彼女なりに心の底から見せた表情らしく思えた。自己防衛のために見せる営業的なものに比べれば、ずっと真実の笑顔だと言えるだろう。
「どうあれ、草子さんは逆転勝ちしましたね」
 模糊庵も気持ちが和らいで微笑む。中西の方は「逆転勝ちって――」とつぶやくように言い掛け、本件には何か物言いをしたそうだったが、それを見て模糊庵は小さく首を横に振る。何も言うなよと伝えたかった。若く見えるかなどという正直どうでもよいことであれば話を長引かせることなく、気分よくいてもらえばいいのだ。
「和ちゃんがオレンジの上靴を買ったのは偽善じゃありません。本当にオレンジの方が素敵だったの。だけど、別につま先の色が素敵だったというわけじゃないのよ」
 草子はいつのまにか無表情に戻っている。模糊庵が返答に困っていると
「じゃあ、和子さんは何がよくてオレンジの方に?」
 中西が言って、記録用紙に向かい、ペンを握りしめている。書くべきことでもあるというのだろうか。
「靴裏のゴムの滑り止めがただのギザギザではなくて、かかとのところにお花の形が彫ってあったの。それが気に入って。普段は上靴だから土の上を踏まないでしょ? それで土に凹凸の型が押される機会がないのだもの、みんなはいつまでも上靴の裏側の模様のことなんて気付かないのだけれど、和ちゃんは、私が履き替えているところを見て気付いたみたい。それで、交換に行ったそうです」
 模糊庵は髭を撫でながら顔を何度か縦に振った。「あいつがやりそうなことだ」
 中西の淹れたお茶を一口啜る。雨が止んだのか庭の方から少し西日も差して、障子に鳥の影がさっと横切り、ちちちと囀る声が部屋の中まで聞こえた。鳥はツツジの木に止まったらしく、枝や葉が鳥の動きに合わせて揺れるのが影の動きで知れた。》


つづく。

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