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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-外伝-12

《第六章 繭子からの手紙
 数週間後、ふたたび屋の繭子から手紙が届いた。

―模糊庵先生へ
 先日はわざわざお越しいただき、私の話を聞いていただきまして、本当にありがとうございました。
 あの日帰られた後、例の仏像が椅子の上に戻っておりました。不思議と思って手に取りますと、背中に天使のような羽根が彫られていて驚きました。天に舞い上がって戻ってきたのかしらと思いました。でも、その数日後、近所の小学生の女の子と母親が揃って謝りに来られました。なんとその女の子が防犯カメラに映っていた人物そのものでした。風野草子さんを疑って悪かったと反省しております。でも、やはりそっくりでした。
 女の子は学校の帰りに仏像を持って行ったそうで、ちょうど学校の図工の授業で彫刻を学んでいたらしく、仏像に手を加えたくなり背中に天使の羽を彫ったそうです。それからというもの、その子は夢でうなされたりご飯が食べられなくなったりしたらしく、どうやらご本人が仏像を盗んでいたずらをしたせいだろうと思い込んだそうで、それでもここに返すのは憚られて、反省しつつ毛糸屋の隣にあるお堂にそっと置きに行ったそうです。ところが、先日、学校の帰りに再びここに置いてあるので驚いたらしく、とうとうお母さんと謝りにいらっしゃいました。
 あの日、仏像そのものがどこから戻ってきたのかしらと思いますがわかりません。もしかして、先生がお持ちになったのではないかと疑いましたけれど、もう気にしないことにしました。お世話になったお礼に、仏像の写真を入れておきます。後ろの天使の羽根も撮影しました。前後から撮ったものをそれぞれ一枚ずつと、お店の台に仏像が座っている様子を一枚。
 それから、小鉢揃えのことですが、あの後、兄夫婦が家に来て謝ってくれました。やはり義姉さんが一枚壊してしまったそうで、私に濡れ衣を着せようとしたわけでもなかったのだけれど隠す場所がなくて持ってきたそうです。兄がどうして小鉢揃えのことを思い出したのかと言うと、かつてあれを預けに来た人から連絡があって、現在の妥当な価格で買い戻したいと言うから探したそうです。結構なお値段になるはずだったと残念そうにしていました。だけど、だとしたら、骨董の展示会の時に葵美術のブースで売られていた小鉢は一体なんだったのでしょう。そもそもあの小鉢揃えは一点ものというわけではなく、同じものがいくつもあるのかもしれません。いずれにしても、先生がいらっしゃってから、いろんなことがあっという間に解決しました。先生は不思議なお方のように思います。
 いつかまた、お店にお寄りくださいませ。別の古伊万里にて美味しいお茶を淹れて差し上げます。
 ふたたび屋 岸野繭子―

 書斎で中西と、ちょうど遊びに来ていた娘の和子と三人で手紙を読んだ後、模糊庵は頭を掻いた。
「しまったな、あの毛糸屋隣のお堂の仏に私もお叱りを受けたようだ。捏造した雑誌のネタがよくなかったのかもしれん。どうも、因果が巡って妙な頼まれごとをする羽目になったのだ。そうなると、草子さんは仏の遣いだったかな、それで笑いもしなかったのだ。父親に笑うなと言われたなどと言っていたが、本当は怒っていたのだろうか。明日にでもお堂の方に、お線香を持って謝りに行くしかないでしょうな」
 苦笑いをし、長く伸ばした髭を何度も手櫛で梳いた。「草子さんにも解決したとお伝えせねばなるまいな」
「そう言えば草子ちゃん元気だった? だけどこの手紙を見て妙なこと思い出しちゃった」
 和子は手紙を手に取ってまじまじと見ている。
「妙なことって?」
 中西はいつも通りノートとペンを持って何かを書こうとしている。こんな話までメモするのだろうか。
「草子ちゃん、そう言えば図工の授業で木彫りをやったとき、とても上手で先生から褒められたのよ。トンボの木彫りを作って賞も取った。いつも目立たない子だったけど、あの時だけは何か大きな展示会に飾られたんじゃなかったかしら」
「目立たない子って、どんな風に?」
「黒とか灰色の地味な服装ばっかり着て、いつもうつむいて目だけ上を向けて睨んでいるような表情をして」
「上靴は他の人とは違うオレンジ色のつま先だったんでしょう?」
「よく知っているのね」
「この前、そう言っていたから。それに傘だけは明るい色を持つのでは?」
「そんなことなかった。お兄さんのお古とか言っていつも黒い傘を差していたわよ。今の時代では何色を持っても自由かもしれないけれど、昔は学校では女の子なら赤、男の子なら黒と決まっていたのに」
 中西は模糊庵の顔を見た。
「先生、あの防犯カメラの女はひょっとして――」
「小学生の頃の草子と言いたいのかね。だけどなんで今頃そんなものが映るのですか。しかも、どうして今、繭子さんの彫った仏像にいたずらしに来るというのですか」
「アヤカシ、アヤカシ、じゃないですか」
 中西が模糊庵の真似をして言うのでおかしくて、三人で大笑いをする。
「そういえば、ふたたび屋で、帰り際に繭子さんにお茶をもう一服入れてもらうよう頼んだ後、僕にウサギの木彫りを取ってきなさいと仰ったとき、何かに気付かれて、その件は後で話そうと言われましたが、あれは一体?」
 中西が思い出したように言う。
「あれですか。防犯カメラのことですよ。カメラは恐らく繭子さんが操作しておる。何のためにそんなことをしているのかは分かりませんがな。とにかく、普段は何も映らないようにして妖めいた光を飛ばして幽霊の存在を演出し、映っているのかと聞かれたときだけ手元でスイッチを入れているようだ。そうだろうと思って、君にからくり時計の前に立たせて確認しようとした。それでウサギの人形を取ってきてくれと頼んだのだよ。素直にカメラの確認をしたいからと言ってもよかったのだが、なにせ君は声が大きいから『先生、何をお疑いですか』などと言い出して繭子に聞かれても嫌だと思って、ウサギの、などとごまかしたのですよ。彼女がお茶を淹れている間に我々がこっそり確認できたということは、まあ彼女にしてみれば手抜かりというか、うっかり凡ミスと言えるだろう。思った通り君はカメラに映りませんでしたよ。モニターには君の影も形も現れはしなかった。なんのためにそのようなことをしているのか知らんが、下手な手品もほどほどにしておきなさいと思いました。けれども、あまり深く関わっても厄介だからその場で言うのはやめました。せっかく演出したとしても、こんな大柄の男がモニターのどこにも映らないなんてへまをしでかしたら、子どもの手品にもなりますまい」
 そう言って、模糊庵は大声で笑う。「いや、まあ、目の前にいる君が幽霊だとか、別世界から来た存在だというのなら、話は別ですけれども」
 中西は微笑みながら、同封されていた店内の写真を眺めている。
「先生、これは一体なんでしょうか。花びらが落ちているのでしょうか。それとも単なる光の具合か。大きさとしては薔薇の花びらほどにも見えますが」
 写真を渡された模糊庵も、「あっ」と言う。見ると、仏像の置いてある小さな台から暖簾のある入り口の方へと、オレンジの花びらのようなものが点々と写り込んでいた。目を凝らしてじっと見つめてから、ほほほほと笑った。
「妖、妖」
 髭を梳いている。
「またそれですか」
 中西は呆れたというように模糊庵を横目で睨む。
「間違いなく、これは妖の足跡ですよ。バッタものの上靴でも履いたまま土間を歩いたに違いありません。ほほほほほ」
 模糊庵は中西の方を見た。
 そこでぽろりと写真を床に落として立ち上がった。
「おい、君、なんだ? どうしたんだ、どこだ?」

 中西マウルの姿はどこにもなかった。

 忽然と、消えている。なにが起こったのか?
 模糊庵は動揺し、閉めたままになっていた窓を開けた。まさか蒸発するかのように窓から消えたというのか? 外にいるのか? いない。
いつも通り、隣家の車が路地に停まっている。
 歩道と車道を分けるために植えられたツツジは満開だった。
 風が吹いたのか、鳥でもいるのか、ツツジの葉が揺れた。
 すると花びらがひとつ、ポッと消えたような気がした。

蝶《わたくし、ちょうど桜の咲き終わった春の朝早く、運河のそばをはたはたと飛んでおりましたら、豪邸の門前に辿り着きました。見ると、男が一人、仰向けになって眠っている。かなりの大柄。あら、見たことのある人と思って近づくと、そうそう、あの日模糊庵の助けた中西マウルでした。模糊庵が彼を発見した夕方と同じように橙色の薔薇の花びらが点々と辺りに落ちておりまして、どうなるかと見守っていましたら、唸り声を上げて目を開けた。体を起こして辺りを見渡している。ああ、よかった、目が覚めた。中西は何も知らないのか、とぼけた様子で辺りを不思議そうに眺め回しているのです。手に持っているメモを見て何やら頭を抱えている。たった一晩眠っただけだと思い込んで、きっと模糊庵のことはお忘れでしょう。しばらくするとツツジ色の日傘を持ったか細い女がひとり、彼に近付いていくのが見えました。あんな大男を助けようというのでしょうか。
 こんな光景を見かけることは、私にとって日常茶飯事でございます。
 それにしましても、中西マウルは模糊庵たちとの日々のことを、たとえ夢の中での出来事としてでも思い出すことがあるのでしょうか。風の中に混じるお寺の匂いや九谷焼の模様を眺めて、ふと、こういうものをどこかで知っているような気がすると考えるでしょうか。多くの場合、これまで私が見てきた限りで申し上げますと、お目覚めになればみなさん違う時空の出来事なんてあっという間に忘却の彼方。ですから、大袈裟に死などと申しましても、すぐ隣にそれはある。
 だって死とは厳密に言うと忘却のことでございましょう? 
 誰か人が変容を果たしたその暁には、あの人はもう昔のあの人ではない、あの人はもういないのだなどと人間さまは仰いますが、その場合、昔のあの人とやらは意味合いとして死んだのでしょう。いつ変わってしまったのだ、金のせいか女のせいか男のせいかと嘆くけれど、嘆いたところでその人はいない。新しくなってしまった、もう別の人格の人しかいない。あるのはひと続きの肉体だけなのでございます。逆に言うと生きるとは、忘却しない連続のこと。昨日の誓いを忘れることなく、決めた約束を果たすこと。死んでしまったら、もう昨日の約束は果たせない。
 自分自身だって、昨日も生きた、今日も生きている、明日も生きるだろうと考えますけれど、その昨日と今日の間に、何か別の時間がふっと挟み込まれるようなことがあったのかなかったのか、はっきりないと言えるでしょうか。中西マウルのように、一晩一春のような日々を、どこかで、それはユートピアかニライカナイかわかりませんが、何か中継地のような囲いの中で過ごしていないとも限らない。そして、たとえばツツジか何かの花に乗り移って、ふっとこちらに戻ってくる。もちろん、別のところに行ってしまう方もいるのです。
 このようなことを話しましても、私みたいな蝶の言うこと、たぶん信じてもらえないのに違いありません。でも私が実際に見たことと致しましては、紛れもなく本当のことなのです。みなさんそれとはお気付きにならないだけなのでして、誰でもいくつかある時空を行ったり来たり。昨日と今日の隙間に、数か月が、一年が、十年が、あるいは百年だってあるのです。それはどこか、他の場所の、だけどごく近くにある、あまり目立たない割れ目を入り口にして。
 ですから最初に申し上げました通り、わたくしのような蝶でなくても誰だって、ずっとずっとひとつの魂を、永い年月保ち続けていると考えてもそれほど不思議ではございませんでしょう? 
 そして時々、たった今の人格を生きていらっしゃいながらも、壁に映る柔らかな光にふと心が奪われてしまったような時、どこかずっと奥深い場所で永い間続いている、けれど忘却しかかっている、だけど消えない、この魂の淡い面影をふっと思い出す。》(了)》

これで、長編小説『路地裏の花屋』外伝『ツツジ色の傘』は終わりとなります。
長編小説『路地裏の花屋』の十三章部分に匹敵し、この後、本体の長編小説『路地裏の花屋』の十四章へとつながります。
既に、「解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-47」に掲載していますが、改めて、以下に長編小説『路地裏の花屋』十四章を掲載しておきます。

《十四章

 どれくらい眠っていたのだろう。仰向けだ。見ると手のひらは血だらけだった。初めて会った頃のユミカの髪の色だ。そして蓮二朗が求めた薔薇の色。
 見上げる空は青い。先程飛び去ったはずの蝶が真上を舞っている。何羽も、何羽も。こんなにたくさんいたのか。海月のいる海の底に沈んでいくようだった。
 そうか、終わったのか。蓮二朗に頼まれたものは何も見つけることは出来なかったけれど、とにかく終わったのだ。ミッションに成功しようと、そうでなかろうと。
 最後にメモを取ろうか。自嘲気味にメモの頁をめくると、先程拭いた血が見えた。ああ、これが最後のメモか。血だらけさ。血を見ていると急におかしくなってきて、メモ帳を持ったまま背中を丸くすると、笑いが込み上げてきた。何がおかしいのだろう。何がおかしいのかは分からなかったが、次第に声を上げて、止まるまで笑い続けた。
 笑い終わると、やっと今日から出直せるだろうと思い、ずるずると上半身を起こして座り、門を背もたれにして足を投げ出した。
「ああ、そうだった。メモを取るんだ」
 それまで握りしめていたメモ帳を開くと、投げ出されて転がっていたセカンドバッグからペンを取り出し、血のりで汚れた頁を避けて、虫の這うような字を書き込んでいった。

『メモ。四月九日 昨日、彼女の父親に敗北いたしました。カタギリトモヒロさんはここぞという時ぴしりとツモる。オーラスで親に張られてしまいました。大負け。泥酔。』

 親って奴には勝てないな。いや、待てよ。僕は負けたのか? それとも、店に行かなかった方が無言の愛の告白か。俺の勝ち? 面前一発、運よく放り込まれてぎりぎり奇跡の逆転ロン? しかしなんだ、胸、ほんとに痛い。胸を押さえた。「いいな。痛みがある」
 目を閉じ、静かに微笑み動けなくなる。
 遠くで、門の開く音を聞いた。
 どうにか薄く目を開けると、ツツジ色の傘が見えた。誰か助けに来てくれたのか。

蝶の舞5

《蝶ごときの長話に耳を傾けて頂きまして、誠にありがとうございました。私、自分でも正確な年数はわかりませんが、長い間、あの大通りを飛んで話を見聞き致しておりました。ほんとうに彼らと寝食を共にするかの如くして。あの頃は、一日が終わり夜になって誰かがベッドに潜り込み寝息を立て始めますと、いつでもそっとその額の上に止まりました。誰かの呼吸につられて私もうつらうつらと眠くなってゆき、必ず一緒に夢を見たのです。一夜の夢に導かれていく。もう夢だということも、私が蝶であることも忘れて、その人のものか私のものか見分けの付かない世界の中に吸い込まれていきました。
 今は元に戻って松の枝。誰も彼もこの根元で眠りに着いた。そうなったのがいつのことだか正確にはわかりません。だって私は蝶でございましょう? そんな緻密な計算など出来やしませんもの。
 今宵、私はそっと誰かの骨に止まって、静かにその夢を探ろうと思います。いえ、ひょっとすると、私が骨に夢を見せるのかもしれません。
 すると骨が温かく灯る。ぼおっと明るく。
 私たちの夢が歩き始める。それを見る。もう、誰のものか私のものか分からない、その人と私がぴったりとひとつになって溶けている、暖かくて深い、やがて生まれる出る濃紺の空の夢を。》

(了)》

了。

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