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解読 ボウヤ書店の使命 ㉚-13

長編小説『ポワゾン☆アフロディテ№X』読み直しつづき。

《第五章

 1 帰還

 これもまた、まるみの事件をほぼ解決し終えた八田一之介の日常風景だ。

 『金の鍵』

 八田一之介はとある会計事務所で社長の愚痴を聞いていた。

 近頃の若い人はどうのこうのといった、ありふれた愚痴。そう言う社長も一之介よりは十歳以上若く、早々と隠居した親の後を継いで従業員を使う立場になったものだから、自身の貫禄が追い付かないこともあるのか、時々、一之介を呼び出しては答えようのない疑問ばかり投げかける。どうして礼儀を知らない人間が増えたのだろうとか、背負うものがない人間はどうしてすぐに諦めるのかとか。
「その上、社長はいいですよねと嫌味まで言うし。何がいいんだ、僕だって後継ぎとしてやるべきことをやっているだけなのに」
 鼻に皺を寄せ、いかにも憎たらしそうに言う。
「まあ、やっかみじゃないですか」
 一之介はテキトーなマニュアル的返事をした。「社長のことが羨ましいんですよ、そういう人たちは」
「僕には嫉妬される理由なんかない」
 若い社長は油の乗った艶やかな頬を赤くし、拳を握り締めている。愚痴を言っているわりにはパワーがみなぎっている。
「お父様も若い頃はずいぶん大変そうでした」
 二つ目のマニュアル的な答を言った。この親子からは二世代に渡って望外な顧問料を頂いているが、本業のアドバイスをしたことなどは一度もない。父も子も仕事に関しては恐ろしく有能で、表向きの世渡りも上手く羽振りがいいのだが、その分、周囲の言動に苛々することも多いのか愚痴が多かった。
 ――人間の幸せとはわからないものだな。
 一之介は内心、そう思う。この世的なことには無能で騙されてばかりな人もいる。それなのに、他人には助けられてばかりいると勝手に信じ込んでいたりすることもある。結果的に、そういう人間はお金がなくてどうしたものかと相談に来るはめになりやすいのだが、悩みを話している時ですら、なんだかにこにこして幸せそうだったりもする。
 ――かと言って、有能過ぎて愚痴を言う人間が本心でどう思っているかはわからないものだ。愚痴を言いつつも、こっそり幸せを感じている可能性もある。
 一之介は、若社長の折り目正しいスーツの襟に目をやった。縫い目の間に埃はない。生地は濃紺の上質なサージで、入学した直後の学生服を思わせた。
 ――やはり、愚痴を言いつつ、けっこう幸せなのに違いない。
 そう思うと、急にあほらしくなって、事務所の窓から外を見た。ビルの三階にある窓から外を見ると、来る時には降っていた雨が上がったらしく、歩道に植えられた樹木の葉が細かく割れた鏡面のように煌めいていた。対面に新しいオープンカフェができたらしく、テーブルに飲み物とパソコンを置いて忙しく仕事をしている人たちが見えた。
 その客たちの中に、一点を見つめてじっと座っている男がいた。
 ――おや? もしかして、あれは。
 一之介の知り合いに似ていた。近頃、連絡が取れなくなって、どうしたものかと案じていたKに似ている。思わず目を奪われてしまった。
「八田さん、聞いてくれてます?」
 若社長が身を乗り出した。
「ええ、聞いています。みんなが若社長を羨ましがっている話です」
 一之介が言うと、若社長は、はあ~あ、とわかりやすくため息をつき、左腕にはめている異様に重そうな腕時計を見て、
「そう言えば、もう時間でした。タイムオーバー。また来月お願いします。僕は若造のくせに愚痴ばっかりですが、そうでもしないと、やっていけません」
 こちらを見透かしたように言い、ソファから立ち上がった。
 一之介は湯飲みに残っていたお茶を一気に飲み干し、
「少しでもお役に立てたのなら幸いです」
 では、と頭を下げて、急いで外に出た。
 急がないと、Kがどこかに行ってしまう。エレベーターは三階から下へと向かっている途中だった。下まで行って、さらに戻ってくるにはけっこう時間がかかりそうに思えた。気が急いて、じっと待っている気分でもないから、一之介はエレベーター横の階段を駆け下りた。
 外に出ると、空が眩しく、風は雨上がりの匂いがする。街路樹の葉に付いていた雫が風に吹かれて落ちてきて、一之介の額をポツンと濡らした。
 ――傘、置き忘れたな。
 若社長の事務所にある傘立てに入れたままだ。しかし、どうせビニール傘だからと無視することにした。それより、Kが立ち去ってしまう前に捕まえなくてはと、新しくできたオープンカフェのある通りへと走った。
 男はまだオープンカフェのテーブルに居て、先ほどと同じように一点を見つめていた。
「Kさん、よかった。やっと捕まえた」
 一之介はそこまで走って行き、男の肩に手をやった。ところが、男がこちらを見返すと、それはKではなかった。とても似ているが、違う。Kよりも十歳くらい年を取って見え、眉間が少し広い。目力も弱く、瞳の色も薄かった。
「ああ、すみません。てっきり、知合いだと思って」
 一之介は体中が熱くなるのを感じた。
「いえ、別に、かまいませんよ」
 男はうろたえもせずにぽつんと言った。すみません、ともう一度行って立ち去ろうとする一之介に向かって、
「あ、もしもお時間があれば、ちょっと、あれを見てください」
 男は、ずっと一点を見つめていた方向を指した。
「なんですか、あれ」
 歩道を挟んだ向こう側の通りに、幼稚園児くらいなら入れそうな直方体の箱が置いてあった。焦げ茶色の木製で、ささやかな屋根が付いている。小さな地蔵菩薩が祀られている祠のようにも見えるが、扉が閉まっていて、金に輝く真新しい南京錠が掛かっていた。
「僕はさきほどまであそこに入っていたようですよ」
 男は他人事のように言った。
「ようですよと言うのは?」
「僕はね、さっき気付いたらここに座っていた。そして、一人のマジシャンらしき人が横に居て、『君はさっきまで、あの中に居たんだ。俺が出してやったんだ。鍵が掛かったまま、とあるマジックで俺が出してやった』と言った」
「あのお、大丈夫ですか?」
 一之介は男の顔を覗き込んだ。酒でも飲んでいるのだろうか。しかし、酒臭くはない。
「さあ、大丈夫なのだか、どうだか」
 口元を緩ませて苦笑いをする。
「そのマジシャンとやらはどこへ?」
 一之介は聞いてみたが、男はその問いには答えず、
「実を言うと、これは初めてのことじゃない」
 重大な告白をするかのように語調を強めた。
「ということは、何度もここで、あの箱の中から出してやったというマジシャンに遭遇したということでしょうか」
 一之介は一瞬、
 ――嘆かわしきは業務外の相談業務なり。
 心の中でつぶやいた。
「こことは限らない。ひとつ前は別の部屋の前だった。立派なダイヤル式の鍵が付いた部屋の前に立っていると、マジシャンらしき男が居て、やっぱり『君はさっきまで、あの中に居たんだ。俺が出してやったんだ。鍵が掛かったまま、とあるマジックで俺が出してやった』と言った」
「台詞まで同じとは奇妙ですね。毎回、鍵付きのどこかの前で立っている時に、マジシャンがやってくるとは」
「それだけではない。マジシャンに、箱に入るのを手伝ってもらったこともある」
 男が腕を組み、弱い笑みを浮かべながら一之介を横目でちらりと見て、自身の隣の椅子を指さすので、一之介は素直に従い、腰かけた。
「箱に入る? わざわざ、マジシャンに閉じ込められに?」
「そう思うでしょう? だけど、気付かないうちにそうなってしまう。頼んだわけでもないのだが、気付いたら箱に入っている。しかし、僕は何度もそんな目に遭っているうちにわかった。ああいうのは箱ではない。出入り口だ。そして、あそこから、別の世界へとつながっている。奥深く、奥深く」
 男は真面目顔で言う。
「マジシャンが出てくるというのも変な話ですが、あれが出入口で、あの中から別世界に繋がっているというのは、もっと変な話ですよ」
「でもね、そうなんですよ。いずれにしても、目の前に箱があったら注意しないといけません」
 男はそう言うと立ち上がって、じゃあ、と一之介に笑顔を見せ、目の前にある祠のような箱の方に歩いて行き、ポケットから何か光るものを取り出した。それを、南京錠に差し込んだ。
 ――なんだ、鍵を持っているんじゃないか。
 一之介が唖然としているうちに、男は南京錠を開け、箱の扉を開け、もう一度一之介の方を向いてにやりとしたかと思うと、背をかがめて真っ暗な箱の中に入って行った。そして、内側からゆっくりと扉は閉じられた。南京錠は開いたまま、ぶらりと扉に下がっている。
 ――あんなことして、大丈夫か?
 冗談だろうと思って、箱を覗きに行こうとしたところ、たまたま通りかかった歩道の清掃人が南京錠の開いていることに気付いて立ち止まった。そして、
「なあんだ、これは、また開いてやがる」
 扉を開けてみることもなく、南京錠を扉の金具に差し入れ直し、指でカチッと施錠してしまった。
「ああ、なんてこと!」
 一之介は驚いて、つい叫んでしまった。たった今、Kに似た男が箱の中に入っていったばかりなのに。「その中に――」清掃人に訴えようと歩き出したところで、
「八田さん」
 後ろから呼びかけられた。
 振り返ると、会計事務所の若社長だった。
「傘、忘れていらっしゃいました」
 ビニール傘を渡された。
「ああ、置き忘れていましたね。こんなものの為に、ご足労頂きましてすみません」
 一之介が言うと、
「さっきの言葉、響きました」
 珍しく、しおらしいことを言う。
「さっきの言葉って?」
「八田さん、『ええ、聞いています。みんなが若社長を羨ましがっている話です』と仰ったでしょう?」
「言いましたか?」
「仰いました。それで、僕、ハッとしました。いつも愚痴ばっかり言い過ぎだなって」
 艶々した頬を丸くして微笑む。
「そんな、とんでもない」
 一之介は慌てて首を横に振った。「愚痴だなんて、そんな。若社長は本当に大変なお立場ですから。それに、愚痴くらい言ってもらわないと、僕の仕事もおしまいじゃないですか」
 自分でも意外だったが、背中に汗が滲みそうなほど動揺していた。愚痴を聞くだけで、けっこうな報酬がある契約などそうはない。「人さまから羨ましがられているのは、若社長ではなく、お話を聞かせて頂く僕の方かもしれません」
 その言葉を聞いた若社長は一瞬沈黙し、全く邪気のない声で笑い始めた。
 一之介は自身の卑屈さに身の置きようがなく感じられ、違和感をどうごまかせばいいかわからなくなり、さっきの男が入って行った南京錠のかかった祠の方を見ると、ちょうどその横に立っている人が居た。とんがり帽子を被り、派手な色の服を着て、靴の先は尖っている。顔は、さきほどの男に似ているが、無表情だ。
 ――なんと! マジシャンか?
 目を凝らしていると、その人の背中からゆっくりと翼が現れ、顔からは嘴がにょきと生え、とうとうカラスになった。弱く羽ばたき、箱の屋根に止まり、小首をかしげている。
 ――なんだ、あれは。
 カラスは一之介を見て、カアとひと鳴きしたかと思うと、ゆっくりと羽根を拡げて、滑らかに飛び立った。
「立派なカラスですね」
 若社長が言う。
 それに返事をするかのように、遠くの方でカアと鳴いた声が届き、どこか間抜けなその声を聞いた若社長は再び、何がおかしいのか笑い始めた。
 架空の青空みたいな声でいつまでも笑った。

(『金の鍵』了)》

小説はもう少し続く。

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