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解読 ボウヤ書店の使命 ㉙-6

長編小説『無人島の二人称』

《第四章

 敏樹はちょうどアパートを出たところで警報機が鳴るのを聞いて、遮断機が下りる前に踏切を通り抜けられないかと走ったが、寸前のところで間に合わず舌打ちをした。ここは開かずの踏切として有名で、左からと右からの電車が全て通り過ぎるには十分近くかかる。アパートと駐車場の間にある厄介な代物だ。これから吉川宅で『標本クラブ』の打ち合わせ。遅れると吉川が不機嫌になるだろう。
 間に合うか? 左腕に巻いたクロノグラフの腕時計を見た時、手の甲にあるほくろが目に入り、そう言えばと思い出す。
 このほくろ。三つある。やはり目立つのだろうか。
 前回の『標本クラブ』に来た井上恵三がじっと見て、「前に一度お会いしたことがありませんでしたか」と近付いてきた。咄嗟に「ないと思います」と答えた。嘘をつく必要もなかったが、何年も前のことを覚えているなんて、『標本クラブ』で井上恵三をマークしていることがバレそうに思えた。
 ほくろ自体には盛り上がりもなく、まるで小学生が退屈しのぎに油性マジックで書いたいたずらの風情だから、敏樹自身は全く気にもならないのだが、三つもあるせいか目に付くらしく、こんなところにほくろがありますね、とよく言われる。ひとつは薬指の付け根から三センチほど手首側に下りた位置、もうひとつは人差し指と中指の間からやはり三センチほど手首に下りた位置、そして三つめは手首より少し上。三つを線で繋ぐとぴったり正三角形となる位置にある。
  腐れ縁の亜由美などは「敏樹の性格は腹の立つことばかりだけれど、この正三角形の星座みたいなほくろのお陰で別れられなくなった」と言う。敏樹にしてみれば、そんな馬鹿なことがあるわけないだろうと思うのだが、「長く傍に居たらまるで私自身のほくろのような気がしてきたのよ」と力説する。
「あたしがあんたを見捨てないのは、ド、レ、ミ、と単純な理由」
 派手なネイルアートを施した爪の先でほくろを辿る。おかげで敏樹はどこに居ても自身のほくろを見るとそのくすぐったい感覚が蘇って来て、「ド、レ、ミ」という声すら聞こえてきそうだった。この先もしも亜由美と別れることになったとしても、この感覚からは逃れられそうにもない。きっと、その感覚と同時に亜由美の整髪料のケミカルな匂いがむっと蘇ってくるだろう。彼女は気付いていないかもしれないけれど、体温が上がるとその匂いが強くなる。そして、敏樹の左手を取って爪を立てながら「ド、レ、ミ」と言ってはにかんだように笑うのだ。「ドレミちゃん」とからかうと、きゅっとほくろの一つに強く爪を立てる。
「それを言うならドラミちゃんでしょ。どうせ」
 さらに、きゅうと引っ掻く。亜由美は小柄のぽっちゃり体形で、家にいるときにも用心深く厚化粧をやめないからドラミちゃんに似ていないこともない。「いてて、ごめん、ごめん、間違えた、そうそう、ドラミちゃん」
「こらあ」と言って、亜由美は敏樹を押し倒すパターン。
 それにしても、恵三がこのほくろを覚えていたのなら驚きだ。店には一回しか行っていない。手に着いた珈琲を拭いてもらったとは言え、何年も前のことなのに、小さなハプニングだけを手掛かりに客を忘れないでいたなんて、喫茶店マスターという一国一城の主の中でも、ひときわ鋭い記憶力の持ち主だ。
 なんとなく右手で左手の甲をさすっていたら遮断機が開いた。歩きながら改めて腕時計を見る。大丈夫、なんとか間に合いそうだ。駐車場に辿り着いて車に乗り込み、発進させた。

 約束していた時刻の数分前に吉川の家に着くと、もうしんちゃんが居て、畳に寝そべってテレビを見ていた。いつも通り白いTシャツと紺色のジャージ姿。吉川自身はどこかに出掛けたのか、家の中にいない。しんちゃんは吉川から預かっている裏口の鍵を使って中に入ったらしい。しんちゃんと吉川は仲がいい。敏樹も出会ってから何年も経つけれど、吉川から鍵を渡されることはなかった。信頼されていないのだろうか。
「まみちゃん、どう?」
 寝そべってテレビの方を見たままの恰好でしんちゃんが言う。
 敏樹は「特に変わりないよ」と答える。
「まみちゃんは綺麗な人だけど、敏樹さん、手、出してないだろね」
「別に、手、出したって、いいのでは?」
 冗談で言うと、むっくりと起き上がって、敏樹の肩を中指でぱちんとはじいた。
「だめに決まってんじゃん」
「どうして。吉川さんは、合意ならいいですよ、とか仰っていましたけれど」
 わざと慇懃な言い方をした。
「敏樹さん、恋人がいるんでしょ」
 また指で肩をぱちんとはじいてくる。
「まあね。でも、それも、バレなければいいんじゃないの」
「だめに決まっているでしょ。人間は物(もの)じゃないんだから」
 またそれか、と思った。吉川の哲学説法のおかげで、しんちゃんまで小難しいことを言い出した。
「人間は物じゃないというなら、ブツなのか」
 ふざけて言うと、今度は肩に思いっきり肘鉄をくらわしてきた。
「いい加減にしろ、ばぁか」
「ばかとは何だよ、とりあえずとか言ってみんなでまみちゃんを僕に押し付けておいて、いつになったら交替してくれるんだよ」
「俺は無理」
 きっぱり、だった。がさりと起き上がってテーブルの上にあったポテトチップスをポリポリと食べる。胡坐の膝の貧乏ゆすりも始まった。
「無理って、僕だって無理なんですよ、実際は」
「まみちゃん、金は持ってるんだろう?」
「乃利子さんがお金持ちの方とご結婚されて、それで仕送りが多いだけ。だけど、そもそも僕はお金に困っていないんだから、経費のことを言っているわけじゃないよ」
「金のある人々はいいですねえ」
 しんちゃんは手のひらをパンパンと叩いてポテトチップスの屑を払い落とし、まみちゃんのことは俺の責任ではないとばかりに、こちらから何を言っても返事をしなくなった。金の話をして機嫌を悪くしたらしく、再び畳に寝そべってしまった。座布団を折りたたんで枕にしている。
 テレビのワイドショーの音だけが部屋の中に響く。ある芸能人の不倫の行方を、さも興味深そうにコメンテーターたちが語っていた。某国のミサイルの話をするコーナーと同じトーンのけしからん度合いだ。不倫の話とミサイルの脅威に関する語り口が同じだったとしても、まあ、何も間違っていない。そのことに強い違和感があったとしても、断じて間違っているわけではない。そう、断じて。
 いつのまにか、吉川が出先から戻ってきたらしく、裏庭で千切ってきたミントの束を台所の流しに投げ入れて洗い、水を入れた空き瓶に何本かを挿している。それをテーブルの上にこつんと置き、悠然と、「いらっしゃい、待たせたね」と言う。こちらが遅刻した時には不機嫌になるのだが、吉川自身が遅れた時にはそれほど謝りもしない。
 敏樹に対しては耳に蓋をしたように返事をしなくなっていたしんちゃんが、「おおっ、お帰り」と言って起き上がり、「お茶ですね」と台所に行き冷蔵庫から冷えたペットボトルを取り出す。食器棚からグラスも出している。こうなるとこの家の主が誰なのかわからなくなる。
「それにしても井上恵三の登場には驚いたね」
 吉川は受け取った烏龍茶を一気に飲み干した。
「初めて間近で見たよ」
 しんちゃんは吉川のグラスに烏龍茶を継ぎ足す。「全然、いかがわしい感じじゃないんじゃね?」
「最初から、いかがわしいなんて、誰も言ってないよ」
「だけど、しんちゃんの言う通り、予想外な感じはあるね」
 吉川がいつも通りしんちゃんの肩を持つ。「単に、最近の被害者の何人かが事件に遭う直前に、彼の喫茶店に足を運んでいるというだけだからね。とはいっても、喫茶みなみは地元の古い常連だけで成り立っている感じの地味な店だから、若い被害者でも足を運んでいること自体、特異な出来事だと言える。あれは若い子がふらっと行くような店じゃない。地理的にも便利とは言えず、坂道を上ってわざわざ出向いていくような場所にあるわけだから」
 真美子も事件に遭遇する前日に喫茶みなみに行っている。吉川によると真美子は珈琲を飲まないはずだが、恐らく珈琲好きの小野山総一郎に頼まれて買いに行ったのだろう。財布に喫茶みなみのレシートが残っていた。それを見ると、持ち帰り用の珈琲豆百グラムの他に、一杯だけブレンド珈琲の料金が印字してある。ということは彼女が珈琲を飲んだということだ。どうして珈琲を注文したのか。せっかくの専門店だから飲んでみたいとでも思ったのだろうか。吉川の思い違いで、彼女も意外と珈琲を飲んだのかもしれない。
 真美子の事件以後、多くの被害者の鞄からも同様のレシートが発見された。大抵は一人で喫茶みなみに行って、一人で珈琲を飲んだ形跡があった。何か関連があるのかもしれないと吉川は考えて、研究会でその主旨のことを発表したこともあったらしいが、「あの恵三さんに限って何か疑わしいことがあるとは考えられない」と当時の研究会の進行役が断言して無視された。確かにそうだ。先日の『標本クラブ』で接触した井上恵三の雰囲気からすると、彼が何か意図的に「悪いこと」をするとは考えられない。神隠し事件に遭遇した人たちの多くは、事件後直ちに血液検査や尿検査をしてドラッグ接種などの疑いもないことはわかっている。恵三が珈琲に何かを混ぜて飲ませたというようなことはないだろう。しかし統計的事実として、多くの被害者が恵三の店に行った後、何か問題に巻き込まれていることは事実だった。
「喫茶みなみと因果関係があるかもしれないと、研究会で話しても相手にされなかったはずだけど――」
 敏樹が言いかけると、
「何度も言うけど、あの会は俺らが参加するようになった頃から既に形骸化してたじゃん」
 しんちゃんが言葉を被せた。「一応なにかを疑って本気で調べてみようなんて、やんないよ。ずっと昔から続いて来たから、まあ続けようってだけなんじゃね?」
「しんちゃんの方の調査ではどう?」
 吉川が先日のクラブでの書類をテーブルに並べながら言う。
「まあ、特に何も、だけど、盗聴器から採取できる音を分析してみたりしてる」
「分析って?」
「そういう機器が手に入ったの。声紋を調べたりする時に使うやつの、わりと精度の高いのを知り合いが持っていて、買い替えるというから、メーターだけ取って捨てておくよとか言って引き取って、こっそり使ってる。たぶん、本気のプロのやつだろうから、黙って持ってるのが見つかったら叱られそう」
 大型電気店が駅前にビルを構えたばかりの頃、しんちゃんの店は商売が一時期傾きはしたけれど、近年一人暮らしのお年寄りが増えてからは修繕や配線を頼まれることが多くなって持ち直している。お年寄りにしてみれば自宅に呼び入れるのは顔見知りの方がいいのだろう、少々割高でもお声がかかるそうだ。洗濯機などのちょっとした修繕からパソコンのOS導入まで、親が引退してからは一人でありとあらゆるトラブルに対応し続けている。つまり、腕前はプロ中のプロ。何かと電気関係の危ない仕掛けがお得意で、喫茶みなみのちょうど裏側にある貸し倉庫にこっそり潜り込んで盗聴器を仕掛けることをやってのけた。そんなことはもちろん犯罪だ。テレビなら「よい子は真似をしないでください」と字幕が出るところだろう。しかし、喫茶みなみに何かあることは間違いないと踏んで、命懸けでやっているらしい。貸し倉庫に忍び込むのもお茶の子さいさい。大家に空調を整備する仕事はないかと持ち掛けて侵入した。親の代から電気店を営んでいるおかげで、この辺りに住んでいる土地持ちの人間とはほぼ顔見知り。そもそも人懐っこい性質なので、相手も疑わしく思ったりしないのだろう。
「しんちゃんのコネで精度の高い機器が手に入るのはいいけれど、何をするにも、慎重にね」
 吉川が言う。
「あいよ」
 しんちゃんが目くばせをして応える。
 敏樹は意気投合する二人に、意味もなく嫉妬したくなった。
「それにしても、先日のクラブに恵三が現れたのは急な出来事だったというのに、山崎めぐみの件はうまくいったね。人形を見て恵三はずいぶん動揺していたみたいだけど、あの時、恵三は『じゃあ、言ってやろうか』って立ち上がって、いったい何を言おうとしたのだろう。しんちゃん、わかる?」
 吉川はクラブで隠し撮りした恵三の写真を見ている。会が始まる前にしんちゃんがスマホで参加者の顔ぶれを撮っている。ちょうど敏樹と話し込んでいるところの写真が数枚あった。
「衣装じゃね? 人形の衣装について、何か言いたかったんだろう」
「あの衣装はしんちゃんが用意してくれたはずだけど、恵三が驚くような何かを咄嗟に加えたの?」
「咄嗟に、というわけでもなくて、盗聴させてもらった記録の中から山岸めぐみがしゃべってるものを見つけ出し、前もって確認しておいたの。二人の会話から、ああ、めぐみの服、旦那に殴られて血が出たから、恵三が着替えさせたんだな、というのがわかって、他の資料にある彼女の写真なんかから類推してシマムラで買って、その日の汚れに似た感じで作成。それに、実は俺、あの貸し倉庫の空調を見るからと言って倉庫の大家からずっと鍵預かっていて、時々、盗聴器の具合を見に行ってんの。配線の修理が入ったとか言って店を出て、ほぼ毎日喫茶みなみの建物の後ろ側を通るんだけど、山岸めぐみが恵三の店に行った頃、彼女の服が洗って干してあるのを見たことがある。なんでそんな細かいこと覚えてるのって言われそうだけど、当時、録音記録を聞いたらけっこう強烈な告白してたから、この件のことはよく覚えてんの。それに恵三は全く女っ気がないはずなのに、あの直後だけは女性ものの服が洗って干してあったから、あれ? と目について服の感じが記憶にくっきりと残ってた。近所の人だって、そう思ったと思うよ。口に出しては言わないだけでね。で、今回、その時の服のイメージを思い出して衣装は作った。録音記録によると服の汚れは血痕だから、それを演出するためには、わざわざ俺の指をちょっとカッターで切って血を出して汚し、それから洗濯するというほどのリアリティ」
「しんちゃん、それはやりすぎでしょう、ねえ敏樹くん、そう思わないか」
 敏樹はうなずく。「やりすぎですね」
「それにしても、しんちゃんは事前に恵三が来るとわかっていたわけ?」
「もちろん」
「まじで?」
 珍しく、吉川と敏樹の声がハモる。「それは驚いた」
「だって、研究会の方には山岸めぐみの夫の代理ということで酒屋の太一さんが来て、その太一さんと恵三さんはもとから仲良しだとわかっていたわけでしょ。どちらかと言えば山岸めぐみの夫と仲良しなのは恵三の方だ。あの男が異常にオーディオマニアであることは電気関係の業界ではけっこう有名な話。そういうマニアックな奴は『標本クラブ』の方には来るんじゃないかなと踏んでた」
「オーディオ趣味の人がみんなマニアックってわけじゃないでしょう?」
 吉川は少し窘めるように言う。
「いやあ、電気業界にファイリングされている購入履歴を見れば、恵三のあれはオーディオ趣味って次元じゃないよ。アンプから組み立てちゃうし、誰かが処分したスピーカーを拾ってきて、中身を開いて部品を取り出し別のものにくっつけたりする。たとえば膜をパルプにしたら低音の振動が変わるという程度ではなくて、配線から工夫して機械が生き物みたいに涙声っぽくなったり金切り声を上げたりするのをじりじりと楽しむというような領域。音楽を楽しむというより、機械を生き物のようにいじくりまわすっていうか」
「そういう感覚と『標本クラブ』が合うって言ってるの?」
 敏樹はこじつけだろうと思いつつ尋ねる。
「感覚は似たようなもんでしょ」
 しんちゃんは吉川の方を見てにやりと笑う。
「それで、来るだろうと思って、人形の衣装に凝ってみたの?」
 敏樹の問いにしんちゃんは、「もっちろん」と親指を立て、ウィンと得意げな顔をする。
「だけどね、今回のことが他の事件と違うのは、山岸めぐみが初めて恵三の店を訪れて血痕で汚れた服を着替えたのは七年くらい前で、それはまみちゃんの事件があってからたった三年ほど後のことでしかない。だけど実際に被害に遭ったのは最近でしょ。ということは、恵三の店を訪れてからすぐに神隠しに遭ったわけじゃないってことだ」
 しんちゃんの言葉に、ほお、と吉川も敏樹も心底感心する。
 吉川は首を傾げた。「どうしてだろう」
「断定はできないけど、録音記録をよく聞いてみると、七年前のその日、めぐみは珈琲が嫌いだとか言って紅茶を飲んでいる。もちろん、珈琲を飲んだ人間が全て神隠し事件に遭っているわけじゃないから、珈琲がなんらかの幻覚症状を与えているとは言えないし」
「確かに、喫茶みなみが出現する以前から、この村では同様の事件があったわけだろう? 珈琲は関係ないんじゃないか」
 敏樹は冷静に考えてみる。
「それもそうだ」
 吉川は顎の無精ひげをいじっている。いや、無精ひげというよりは、無精ひげのようにカットした髭と言った方が正確だろうか。「ところで、めぐみは七年前に恵三の店に行ったっきりで、神隠し事件の直前には行ってないのか」
しんちゃんは大きくうなずく。「記録を探したけど、記録の中にはなかった。もちろん、彼らは知り合い同士みたいだから時間外とか、住居に訪問してないとは言い切れないけど」
 神隠しが発生するきっかけが見つかりそうになっては、互いの考察によって否定される。ひょっとしたら、これといった一つの要因があるわけではなく、いろんなことが複合的に合わさった時、時空に隙間のようなものがぽっかりと出来て、そこに居合わした女性を変容させてしまっているのだろうか。
 三人寄れば文殊の知恵というけれど、結局新たな妙案が浮かぶことはなく、しばらく経過観察を継続しようということで、その日の会合はお開きとなった。
 帰る頃には、道路を跨いだ向こう側に広がる海が、ところどころ金色に光り始めていた。
「敏樹くん、カメラは持ってきましたか」
 吉川が庭の置石に立って海を見渡しながら言う。簡単なものだけど車の中に入っていると言うと、まみちゃんを象った球体関節人形を撮影して欲しいと言う。
「ずっとあらゆる角度から撮影しているけど、あれじゃいけなかったかな。人形が成長するわけでもないだろうし、変化はないだろう?」
「そうじゃなくて、外に持ち出して撮っておきたいと思って。テトラポットの上で」
 二人が立ち話をしていると、しんちゃんはヘルメットをかぶって愛車のスクーターにまたがり、「じゃあ、お先に」とエンジンをふかして帰って行った。
「もしかして芸術写真でもやりたいの?」
 吉川と二人になってから、敏樹は聞く。少々べたつきはするものの潮風は爽やかで涼しい。
「敏樹くんの言う芸術というものが何かはよくわからないけど、標本的な写真とはまた違った、愛情深さのあるものを撮っておきたいと思ってね」
「珍しいね。そんな、情緒的なことを言うなんて」
 何か思いつめたりしているのだろうか。
「真美子が言い出して、撮影したんだろう? もう終わったのか」
「そのことか。いや、まだ。結局、約束の時間に、約束の場所に来たけれど、気乗りしないと言って、二回ふられた。今度の木曜日、再チャレンジする予定」
「そっか。実は、この十年、彼女がそんな能動的なことを言うなんてなかったから、私としても驚いている」
「普段の僕はアート写真としては抽象的なものしかやらないから、人物は基本的にファッション関係の仕事の時くらいしか撮らない。だけどせっかく彼女が言い出したから、やろう思っているだけ」
 吉川が嫉妬しているのだろうかと思い、慌てていろいろと言い訳めいたことを言った。
「敏樹くんが仕事以外で人物を撮らないことはもう知ってるよ。池の波紋とかガラス越しの木漏れ日を使って瞼の裏側の世界を表現するのがライフワークなんだろう? だからこそ、今回真美子をモデルに芸術をやろうというのは特別なことに思える。それはいいのだが、私としては人間の真美子と人形の真美子を写真の上で比較してみたいんだ。だから、あの人形を人間のように撮影してほしい」
「人形の出来具合が気になるわけ? リアルさとか」
 真意がつかみきれなかった。
「そうかもしれないけど、そうでない気もする。特に理由はない。だけど、なんだろう、これから先、あの時間が止まってしまったように見える真美子だって少しずつ年を重ねて行くけれど、あの事件後の彼女の人形を新しく製作する人はもう居ないから、比較するには最後のチャンスかなと」
「最後のチャンスって、大袈裟じゃないか」
「嫌ならいいんだ」
「理由がよくわからないのに、撮るってのはなあ」
 海の方を見た。実際、そろそろ斜めから光が射している時間帯だから、ライトや反射板がなくても陰影のあるものが撮れる。絶好の条件とさえ言える。最後とまでも言わなくても、チャンスと言えばチャンスだ。
「理由か。明確な理由はないな。でも、何か、変わっていくという気がしてならないから」
「何が?」
「よくわからないけど、写真を撮るのに理由がなくてはいけないのか。敏樹君の抽象的な写真の展覧会ではいつも哲学的意味が添えてあって、言われてみれば理由だらけだけど」
「理由を添えたらいけないのか」
「理由を添えることがいけないわけじゃないけど、たまには私の言うことも聞いてくれてもいいのでは?」
 吉川が薄く笑顔を見せながら言うので、無性に腹が立ってきた。言い分を聞いてばかりいるのは敏樹のほうなのだ。
「いいよ、撮ってやるよ」
 敏樹は思いに反して承諾していた。それとも、そもそもの思いの方が、本心に反していたのか。海の光の具合がなかなかよいので、本当は最初から撮影してもいいような気がしていたのかもしれない。
「光の具合がちょうどよいうちに動こう」
 撮るとなったら、いい光を逃したくはない。この時間帯の光は刻々と陰影を変えてしまう。むしろ吉川を急かす。吉川は二階の保管場所から真美子を象った球体関節人形を下ろし、敏樹は庭の横に置いてある台車にタオルを敷いて準備する。球体関節人形を乗せ、二人で台車を押しながら道路を渡る。人形の顔には柔らかい橙色の光が当たって、潮風と台車の振動で人形の髪や服が少しだけ震えている。
「これ、事件前、事件後、どっちの人形?」
「事件後ですよ。敏樹くん、忘れたの? ロングスカートなんか、昔は履かなかったんだ」
 そう言っていたなと思い出す。
「人形もわずかに老けるね」
 服の色が少し日焼けしている。十年も経つから。「老けるというのは違うか。経年変化で劣化する?」
「劣化って、そう言えば、近頃人間によく使われるようになった言葉だ」
 吉川は気に入らなさそうに言う。
「正しくは、老化のはずだけど、老化とはまた違うのか。劣化とは物質的なものが経年変化して悪くなっていく様子。人間の肉体を物理的なものとして考えると、まあ、劣化なのかな。もしも老化と表現するなら、必ずしも昔より悪くなるわけではないのかもしれないけれど」
 吉川は球体関節人形の髪を触って、「だけど、もしも老化なら、この球体関節人形が老化するのなら、私は嬉しいけどね。こいつは所詮、劣化しか、しないんだろう」内側から哀しみが染み出したような微笑みを浮かべる。
 テトラポットの下まで行くと、吉川が球体関節人形を抱きかかえて中ほどまで上がり、片膝を立てて寝そべっている形に置いた。片腕はテトラポットの傾斜に従ってだらりと垂らしている。敏樹はカメラの調子を試すふりをして、その二人の様子を数枚撮影した。二人というより、球体関節人形一体と人間一人。
「いいね、それで撮ろう」
 ズームを利かしたり、ずっと離れて風景全体を入れたり、露光を変化させて髪の毛が揺れるさまを作り込んだりして、数枚シャッターを切る。ポーズも何回か変えて撮影。
「球体関節人形は人間の壊れやすさや脱力した重力をよく表しているけど、ヌードにはなれないな。いや、衣類を取り外すことはできるけど、そうなると、一見、本当に真美子とは別物になる」
 吉川は少し残念そうだった。「球体関節人形には球体関節人形の裸体があるからね。それは言葉として、なんとなくヌードではないのだろう。ヌードって、自分で脱いだことの過程が含まれている気がする」
「球体関節人形の壊れやすさやしなだれかかる重力をあからさまに感じさせる、球体関節がむき出しの状態のもの。それがつなぎ合わせてある人形の裸体。ぎこちない僕たちの心みたいに痛々しい。人間の裸体の滑らかさはまだまだ皮膚で覆われていて、そういったぎくしゃくした骨のつなぎ目を隠し、見えなくしている。ひょっとしたら撮影して比較し眺めてみると、球体関節人形よりも人間の方が人形的かもしれない。人間って存在の内実は、ほんとは人形のようにパーツごとにバラバラなところがあるから」
 敏樹が言うと、吉川は、
「敏樹君は意味ばっかり考えているね」
 と言って、胸ポケットから煙草を取り出して火を点けた。吸うたびに夕日のように煙草の先が橙色に灯り、吐き出された煙は潮風に混ざり合っていく。「だけど、敏樹君の言うことは外れてはいないですよ。的を射ている」
 敏樹は珍しく褒められたことで少しは気分がよくなり、手に持っていたカメラで煙草を吸う吉川を数枚撮影する。「いいでしょ。撮っても」
「本当はだめだけど、真美子人形も撮影したのだから、罪滅ぼしに、私も撮っておく」
 照れくさいのか海の方を見てレンズの方を向かないので、むしろいいアングルで撮れる。
「吉川人形も創ったらどうかな、ご自分で」
 シャッターを切りながら言うと、
「変態でしょ、それは」
 足元を忙しそうに這っているテトラポット虫を脅かそうと、強く足踏みをしている。
「何を今更、いわくつきに平気で住んでるくせに」
「球体関節人形の裸体じゃなくて、まみちゃんのヌードを撮影する日がくるかな」
「いつか撮って欲しいなんて言うかな」
「もしも、一歩でも昔に戻ったら、絶対に言うだろうなあ。前は好奇心旺盛な小悪魔だったんだ」
「見たことあるんでしょう? 彼女の裸体」
「ないよ。暗闇で、パーツごとにクローズアップしたものしか、見たことない。普通そういうものでしょう? 全身をまとめて見ることなんて、恋人同士だったらあまりないんじゃないかな。結婚的なことをしてたら、看病とかそういうので全身を見る機会もあるかもしれないけど。全身というのは、案外、見せたくないし、見たくないものだよ、恋人時代には」
「そう?」
 敏樹は亜由美のことを考えた。そういえば彼女は厚化粧。そうだな、恋人時代にはあまり、脱がないものなのかもしれない。
「人間は暗闇で観た方が美しいよ。明るみで全体となるとどこか不均衡で滑稽。均整のとれている人間もいるけど、それはそれで、存在だけでこれみよがしな感じとなるから滑稽。翻って、滑稽であることが芸術なのだろうけど」
 吉川流哲学説法だ。これだって意味を考えている。意味ばっかり考えているのは彼の方じゃないか。
 煙草を一本吸い終わる頃には太陽が西の空に大きく見え始め、二人の顔も紅色に染まる。
 テトラポットの上では球体関節人形がずっと同じ方向を見て、ずっと同じポーズを取り続けていた。影だけは生き物のように、徐々に長く伸びていった。

 真美子の初めての撮影。木曜日の午前四時――。
 アトリエの一階に降りてきた真美子はノースリーブの白いワンピースを着ていた。生地は何度も洗って柔らかくなった麻だろう。蜻蛉の羽根のようなさらさらした風合いで、レースやリボン、ボタンなどの装飾品はどこにもない、台形のストンとしたスタイルのものだった。長くなってしまった髪を後頭部でひとつにまとめて垂らしている。
 こんなに典型的すぎるワンピースがこの世に存在するのだろうか。芸術写真を撮るのには最適だ。一体どこで手に入れたのだろう。サイズもピッタリで、まるで彼女のためだけに作られたもののように思えた。一見、どこにでもありそうなワンピースなのに、ファッション誌の仕事でも見たことはない。その服はいっそ絵の中の記号のようだった。
 最初からアトリエの蛍光灯は消し、弱いライトのみを足元で照らしておいたせいもあって、無言のまま現れた真美子は幽霊のように見える。これが今の彼女の実態なのだろう。本来ならば幻想的と言うべきなのだろうけれど、神隠し事件に遭遇してしまった真美子の内実を表現すると考えるならば、この幽玄さはむしろリアルだ。ひょっとして彼女は、何も言わないまでも、自分のことをよくわかっているのかもしれない。よくわかっているからこそ、何も言わないのか。
 敏樹は標準レンズの、もっとも技巧的ではないカメラを二本用意していた。まだほの暗く、証明ライトが一本要るだろう。被写体に直接当てるよりは、最低限の光量を得るように壁の方に向けて設置する。結果的に、つまり現像後に午前四時にふさわしい色合いになるように段取りをした。深度と絞り。動きをぼかすか。フラッシュは使いたくなかった。真美子を眺めていると、写真にしたい構図や表現が次々と頭に浮かんだ。
「撮って欲しい形はある?」
 真美子から言い出したことだから、真美子が撮って欲しいものを撮るのがいいだろう。
「形なんかない」
 首を横に振った。「だけど、外で撮りたい」
「その恰好で?」
 敏樹が聞くと、それには答えず、真美子は窓を指さした。
「あの庭で」
 レースのカーテン越しの外はまだ暗く、睡眠の底に沈んでいるようだった。ノースリーブのワンピースを着た真美子のむき出しになった白い腕を見る。夏なのに、ひんやりと青白く凍ってしまいそうだ。足も裸足だ。
 レースのカーテンを開けて窓の外を見ると、ほんのりとブルーグレーの空に明るみが宿り始めた頃合いだった。フラッシュを炊かないとすると、フィルムの感度を上げないと何も映らないだろう。カメラを交換しなければいけないな。迷ったけれど、いいよ、と答えた。せっかくだから真美子が撮りたいものを撮ればいい。
 二人で外に出た。それほど風はなかった。月もなかった。鳥の声もしない。塀の横を通って中庭に立つ。中庭は北側に裏山を背負っている。 
 敏樹は、自分たち二人がどういう意味があって、その瞬間二人でここに立っているのかわからなかった。それはそうだ。真美子だってそうだろう。神隠し事件に遭遇し、よくわからない間に、同窓生とはいえ、よく知らない写真家のアトリエの二階に預けられたのだ。敏樹の方では、吉川たちに言われて断り切れずに、突然、真美子を預かることになってしまった。二人がここに一緒に立つべき根拠はどこにもない。単なる偶然だが、当面は変えようもなく、仕方なく隣り合っている。
 真美子は玄関に置いたままになっている敏樹のサンダルを履いていた。
 中庭の楓の木を中心にしたエリアで撮影することにした。広さは七十㎡ほどもあるが、庭師を雇うほどの余裕はなく、手入れとしては敏樹自身が草刈りをする程度なので、ややもすると河原にでもある荒地に見えそうな庭だ。裏山とこちら側を分けるために煉瓦を積み上げた塀の脇からは、なぜか冬を越してしまったススキが何本か生えたままになっていて、同時にちくちくする葉を持った野菊のような雑草も通年咲いている。バケツや箒などの用具を入れた納屋の庇の下には、昨夏、刈り取っては積み上げ、上に重石を置いていた草が枯れて、わざと作った干し草の束のようになっている。改めてその庭を撮影に使おうと思って眺めると、実に殺風景だった。
 敏樹は道具置き場の入り口の白熱電球と、塀の一部分を切り取った木戸のフットライトを灯し、どうにかフラッシュを炊かないで済むだけの光量を得た。少しずつ夜が明けるだろうからこれで充分だ。それから、ずっと使わないままでいた壊れかけのひじ掛け椅子を納屋から取り出し、中庭の真ん中に置いた。
「座らない方がいいよ。誰が使っていたものかわからないし、壊れかけだし、せっかくのワンピースが汚れてしまう」
 敏樹の忠告にも関わらず、真美子はすぐに椅子に座った。背もたれに寄り掛かったりひじ掛けに腕を預けたりはせず、お尻だけをそっと腰かけるような座り方だった。
 敏樹は慌てて数枚シャッターを切った。やり慣れたモデルがするような、意図的に顔周辺に手を持ってくるようなポーズを真美子は取らなかった。ふいに記念写真を撮ろうと言われて椅子に座る女の子のようにそこに座った。
 しばらくそうした後、真美子は自分から立ち上がって、今度は煉瓦塀に向かって歩いた。ざくざくと音を立てながら進む真美子の身体に、手入れしていない雑草が絡まり着いていく。そんなことも気にせずざくざくと進んで、最後には振り向いて塀にもたれた。こちらを見ない。どこか遠くを見たまま、笑顔もない。
 シャッターを押しながらも、やたらと彼女の服の事が気になった。汚れてしまう。クリーニングが大変だ。案の定、真美子が別の場所へと移動しようと歩き始めて敏樹に背中の方を向けた時、白いワンピースの背中から腰のあたりには淡い土が付着してしまったのが見えた。
「服が汚れるよ」
 シャッターを押し、ファインダーを覗くことを止めもしないのに、敏樹は何度かそんなことを言った。真美子は返事をしない。いつしか敏樹の方でも気にせずシャッターを押し続けていたら、真美子も撮られることに慣れてきたのか楓の木をしみじみと見上げたり、その幹に抱き着いたり、子どものようにしゃがんで庭の土に触れたりした。
 そしてとうとう、庭の土の上に大の字になって寝転んでしまった。いよいよ服が汚れるじゃないか。そう思いつつも、真上から、横から、何枚も何枚も写真を撮った。
 ひとたび寝転んでからは、真美子は動かなくなった。目を閉じ、息を吸ったり吐いたりしている。白いワンピースの柔らかい生地が、その呼吸で生き物のように上下している。真美子の首や手足は暗いブルーの色に溶け込んでしまってほとんど見えなくなり、そのワンピースだけが浮かぶように息をしている。
 彼女は眠っているわけではないだろう。よく見ると微かに眉間を寄せている。敏樹は横になっている彼女の身体の上に、かつて刈り取って置いたままになっていた草をばらまいてみた。真美子は嫌がるだろうか。しばらく待ってみたけれど、まだ目を閉じてじっとしている。敏樹は数枚撮影する。
 これから午前五時の、ほの明るい時間へと向かっていく。そのブルーの粒子が漂うグラデーションの時間の中で、彼女は深く眠っているように見えた。土の中に肉体は溶けて、再び構築されていく。彼女は着用している白のワンピースという繭の中にすっぽりと包まれてしまって、敏樹のことも、姉の乃利子のことも、吉川や小野山総一郎や、両親や、あらゆるこんな状況のことなど忘れてしまっているようだった。土から栄養を吸い取る球根のようでもある。
 庭の中に少しずつ影が現れてくる。深いブルーに沈み込んでしまって、どこにも影のなかった時間帯から、午前五時へと近付いていくに従って、むしろ夜の闇がゆっくり、しかし確実に掘り起こされていくようだった。雑草の奥や塀と地面の境界辺りは湿り気のある土に象られたまだ温かい夜の闇だ。その闇から朝と夜は粉々に割れ出てそこら中に散りばめられる。徐々に、朝の方が多く広がっていった。
 敏樹は真美子の上に乗せる干し草を少しずつ増やしていった。道具置き場の前に置いていた束を全部乗せてもぴくりとも反応しないので、生えていた野菊やススキも刈り取って、その上に置いていった。すると、砂浜で砂山の中に入っている女の人のようになった。シャッターを押す。それから楓の枝も数本か手折って、その上に乗せた。
 そこで急に我に返って怖くなった。こんなこと、焚火が出来そうじゃないか。まるで生きたまま埋葬しているようだった。
 敏樹が突き破るような声で、
「起きて。すぐ、起きて!」
 真美子に向かって言うと、彼女は閉じていた目をぱちりと開いて敏樹を見た。
「あったかい」
「今日はもう終ろう、起きて」
 敏樹が慌てて言うと、布団の中から起き上がる人のように、彼女は上半身をゆっくりと起こした。ワンピースには雑草が何本も付着している。朝、夢から覚めたばかりの少女のように見えた。敏樹は無意識にシャッターを切った。
 真美子が草に覆われている膝をゆっくりと立て、掌を地面に着いて立ち上がっていく間の様子を、敏樹は連続撮影する。すっかり直立し、服に着いた雑草を払い落としているのも撮る。真美子は一つに束ねていた髪をほどいて、首を横に何度か振った。髪に着いた土を落としているのだろう。その様子も撮る。
 とうとう完全に立ち上がった。
「玄関で、少し、待ってて」
 敏樹は温かい湯で絞ったタオルを数本用意し、玄関で軽く拭くようにと促した。真美子は黙って従い、腕や足に着いた土を丁寧に拭いてしまうと、じゃあ、と言って、二階の自室へ向かう階段を上っていった。
 撮影している途中で何度も敏樹が心配していた通り、白いワンピースにはいくらタオルで拭いても取り除くことのできない庭土がたくさん付着して、ところどころは土色に染まってしまったけれど、二階へと上がっていく真美子の存在自体は相変わらず、幽霊のように透明で、決して人と交わることのない真珠色の清らかさに包まれていた。
 彼女が神隠し事件で失ってしまったもの。簡単に言ってしまうと生活感という匂いだが、それは干し草や土の匂いでは修復されなかった。むしろ干し草や土も、彼女のワンピースの上では汚れではなく無垢なるものの記号となって、彼女の清潔な存在感をより一層ひき立たせていた。
 あの歪んだ記号のような笑顔がよかったのだが、と敏樹は思い出す。
 ――だとしたら、姉だけが特別に素質がなかったのではないでしょうか――
 と言った時の、本心が滲んだような笑顔。悔やんでも仕方がないことだが、中庭での撮影では再現できず撮り損ねてしまった。ひょっとしたら彼女の中の最後に残された悪魔だったのかもしれないのに。きっぱりと二階へと上がっていく真美子の後ろ姿を見て、ちっぽけな小悪魔の欠片も、この撮影で消え去ってしまったと思わずにはいられなかった。あの中庭に埋葬してしまったのだ。
 撮影の片付けをしたり、珈琲の準備をしたりしているうちにすっかり夜が明け、隅々にまで朝陽が行き渡ると、中庭に散在する陰に息づいていた夜は単なる影へと生まれ変わっていった。珈琲を飲みながら外の移り行くさまを眺めていると、いつもの縞猫が尻尾を立てて塀を歩いていた。
 その日のうちに、暗室で現像をした。ネガがポジになり、やがて現像液の中で写真が浮かび上がってくる。
 敏樹は一枚目の写真をピンセットで液から持ち上げた時、まるで暗闇に咲くカサブランカだと思った。あるいは、白いアゲハチョウ。もちろん、そんなのが居るとしたら、だけど。
 写真の中で白いワンピースを着た真美子は、厚みの無い影のようで、少し迷っている表情を見せているものの、感情らしきものはなかった。百合の花か、あるいは揚羽蝶らしき物体へと化したように見えるが、それを演じているわけではない。彼女の輪郭の中で閉じられつつ変容が進行し、きっちりと閉じられていることそのものだけが、世界に向かって剥き出しにされている。
 その白いもの、写真の中の真美子は、白いワンピースが周りの色を反射するせいもあって真珠色にぼおっと発光して見えるが、彼女自身にそれは見えていないようだった。目を開けてはいても、自身ではその光は感じ取れず、無表情だった。かすかに眼を開けているけれど、何も見てはいない。闇の中で途方に暮れ、それ以上内側から開く扉はないのだ。
 写真によっては、熱を放つ太陽のように、内側から眩しい光を放って見えた。覆いが剥がれてしまって、内側の孤独が透けるみたいだった。何も覆うものが無いせいで、少し不安そうには見えるけれど、ひりひりした痛みを伴うものではなさそうだった。どんな殻もない白いものは、外界に晒されてはいるが、決して弱々しく柔らかいものではなさそうだった。
 撮りたかったけれど撮れなかった歪んだ笑顔と、目の間に出来上がった写真はどこまでいっても交わらない。写真の中に写真家とモデルの接点もない。きっと敏樹も本来の真美子も、何か許される程度のささやかな悪意や、偽善やありすぎるほどの肩書といった間違いが存在しなければ、深く結びつけない人間なのだ。
 失敗だ。この撮影は失敗だった。この白い命、無垢な花びらとは、なにひとつ共有することができないだろうと敏樹は思った。
 化学記号がノートの上でぽっかりと浮かぶように、白いワンピースを着用した真美子は薄墨色の闇の中で泳いでいる。中庭は闇という実験室のフラスコで、そこにいる彼女は化学記号の粒子として、辺りと交じり合うことなく、神なのか、自然なのかはわからないけれど、透き通るガラス棒のようなもので、ぐるぐるとかき混ぜられている。
 全てを現像し終え、なんとなく失意に包まれながら、暗室の作業台の上に並べて乾かした。
 ところが、仕上がってから見渡してみると、一度は失敗だと思ったものが、作品としては悪くないように見えた。誰とも共有できないこと。むしろその哀しみがどの写真からも溢れていた。真美子が? 哀しい? いや、敏樹自身が? 誰もが。
 接点がないこと。無機質な風合いだ。時間が経つほどに、敏樹の心にもしっくりくるように思えた。何かもっと、これからも撮れそうだという気にもなる。
 眺めながら、小野山総一郎という男が描いたかもしれないデッサン帳のことを考えた。一度も見たことのないそれを思い浮かべていると、今なら小野山総一郎と同調できそうな気がした。
 デッサン帳には真美子のどんな横顔が描かれているのだろう。神隠し事件に遭遇する前のことだから、きっと、もっと湿り気のある喜怒哀楽の表情、少なくともその空気感が、デッサンからあふれ出ているに違いない。そう考えると、敏樹は不思議と嫌な気分がした。その小野山総一郎のデッサン帳には、彼女のありとあらゆるささやかな可愛げのある悪意の面影が、いくつもの断片に切り取られ、閉じ込められているのではないかと思って、早く見てみたいような、見たくないような不思議な感情になる。彼女への恋じゃない。どうしたのだろう。小野山総一郎への――、何か。
 その日の夜、吉川に連絡し、真美子の第一回目の撮影が終わったことを伝えた。
「それはいいな、見てみたい」
 声のトーンからは真面目に言っているようだった。
「まだ完全に納得のいくものが撮れたわけじゃない。知っての通り、これまではガラスや鏡なんかを使って抽象的な空間を作り出したものを撮影してきたから、こういう芸術写真で人物を撮るのは初めてなんだ」
 敏樹はまだ見せたくはなかった。
「真美子のリハビリのために撮った程度じゃないのか」
「そのつもりだったけど、仕上がりを見て、何となく気が変わった。彼女はいいモデルだよ。心配しないで欲しいのは、恋愛感情みたいなことではないということ。こんなことを歯切れよく言うのもなんだけど、彼女に対してはそういう欲は全くといっていいほど湧かないのだから」
「敏樹くんは欲情がなければ恋愛は成り立たないと思っているようだね」
 電話口の吉川は笑っているようだったが、ペースを握られると、また哲学説法が始まりそうな真剣さを感じさせる声音だった。
「どうでもいいけど」と説法を遮って、「できれば早めに小野山総一郎のアトリエに行ってみたい」と告げた。「例のデッサン帳がないかどうか、見てみたい」
「行ってみても、デッサン帳があるかどうか、わからないよ。そもそもデッサン帳の存在は敏樹君が乃利子さんから電話で聞いただけのことだし、それも乃利子さんがたった一人で片付け物をしている時に見たもので、真美子の絵かもわからない。我々にとっては実に不確かな物質なのだから」
 吉川は乗り気ではなさそうだった。
「連れて行ってくれるなら、今日撮影した写真を見せるから」
 敏樹が慌てて交換条件を提案すると、
「まあ、それならいいか」と納得したらしく、「では、来週の月曜日はどうか。駅前のラズベリーで待ち合わせよう。午前十時。邸宅は少し電車に乗っていく場所にある」吉川が提案した。
「それでいいよ、ラズベリーで」敏樹はうなずいた。

 敏樹は吉川との約束よりも三十分ほど早く喫茶ラズベリーに行った。遅刻をして吉川の機嫌を悪くさせると後の対応が面倒だし、ぎりぎりに間に合う時間に入るのも気が引ける。吉川は喫茶店では冷たい飲み物を注文して一気に飲み干すと「さあ、もう出ようか」を繰り返すに決まっている。どちらかと言えば熱い珈琲を注文してゆっくりしたい敏樹にしてみると、たとえ待ち合わせや打ち合わせと言った用事で利用したのだとしても、あまりに急かされて出ていくのはなんとなく不全感が残るので、約束の時間より早めに行って独りでゆっくり過ごすことにしたのだった。
 井上恵三がたった一人で経営する喫茶みなみとは違って、喫茶ラズベリーは遠縁の親戚まで総出の家族経営。もともとは洋菓子店だったところ、十年前にカフェも併設してイートインにした。敏樹にとっては子供の頃から知っている店とは言え、従業員が全員親戚同士で形成されている空間に、家族との縁が疎遠になりがちな独身男が独りで入って行くのはなかなかの修業。それで近頃では利用していなかった。
 ホットコーヒーとアップルパイを注文。
 レジ横にある雑誌入れから新聞を取り出して読もうとした時、ママが「久しぶりね」と敏樹の横に立った。「さっき注文を聞きに来たのは、ようこのいとこのかなちゃんよ」と言う。「写真はまだ続けている? そろそろ個展やるの?」
 敏樹は開きかけた新聞をとじた。「個展は毎年やってます」
「近くでやるなら案内を置いてあげるのに」
「その場合には、ぜひお願いします」
 敏樹は店の壁を見渡した。確かに、近所で開かれる展示会や演奏会のポスターが所狭しと貼ってあり、レジの前にも案内の葉書らしきものがいくつか重ねてある。
「この辺りではやらないの?」
「ちょうどいいギャラリーがないんですよ」
「あるわよ。公民館の横に、絵画とか書道とか展示する空間が」
 敏樹はあれかと思い、どう言おうかと躊躇する。何を言っても妙なことになりそうだ。
 確かに、そういう空間はある。
 公民館で催されている趣味の会の絵手紙や折り紙細工、木目込み人形などが飾ってあるのを見たこともあるし、この辺りを中心に風景画を描いているプロの作品の即売会に招かれたこともある。世間的には展示場として非常にいい空間なのだろう。無駄な野心を感じさせない。第一レンタル料が安いし、近所の人は役場の用事のついでに来てくれる。そこで人脈を上手く繋げば会報等の写真を提供して欲しいと言われるかもしれない。非常に有用で現実的な場所なのだ。
 しかし、敏樹としてはその場所を使いたいとは思っていなかった。かと言って、もっと素敵な都会のギャラリーでやれる男だなどと中二病的に妄想しているわけでもない。公民館横の展示場だって外観も悪くない場所なのだが、今のところどうしても自身の作品に合うと思えなかった。意識しているのではないが、関心を寄せてくれる数少ない批評家たちの指摘から考えると、敏樹の芸術が指し示しているのは人間礼賛の方向ではないらしく、どこか化学記号の視覚化のように温かみがないようだった。さらには敏樹自身で哲学的散文を付けたりするものだから、地元の人々に見て貰っても褒められそうにもない。それならいっそ、山側の道路脇に時々設えてある自己申告制の野菜売り場か、道祖神の祠みたいな方が徹底的でいい。
 そんなことをラズベリーで素直にそのように発言すると、たぶんお叱りを受ける。お前何か違う夢でも見ているのかと言われそうだ。違う夢? そうだろう。芸術における分相応という言葉にはいつも悩まされる。
「またそのうちに考えておきます」
 敏樹は新聞を開いて話を終わらせようとした。
「いつもはどこでやってるの?」
 ママは敏樹の様子など気にせず話しを続けた。
「いろんな場所です。北海道とか、沖縄とかにも行きます」
「そお、敏樹君、有名写真家だったのね」
 嫌味かと思いつつ、敏樹は苦笑いして首を横に振る。「スポンサーの都合とか、いろいろあって、全国津々浦々。もしも有名な作家であれば、地元でもどこでも客の方から求めて見に来てくれますけど、僕なんか、スポンサーに頼って馳せ参じて行かなければ誰も来ません」ズバリ本音でどうにか切り抜けようとした。この風体を見ればわかる。まさか有名写真家のわけがないだろう。からかわれているのだ。
 追い打ちをかけるように、奥から洋菓子職人である旦那さんも出て来て、「敏樹君はそんなに全国でやるような立派な写真家になっていたのか」と話に参加してきた。「それで近頃はこの店に来てくれなかったんだな」
 こんなことになるのであったら、吉川と待ち合わせた時間ぴったりに来て、冷たい飲み物を急いで飲んでさっさと出ていく方がよかった。
 やさぐれ気分でちょうど約束の時間になった頃、ドアベルの響きと共に扉が開いて吉川が入って来た。薄手のパーカーにジーパン。大きめのリュックを背負っている。慌てて来たのか髪には寝ぐせが付いたままだった。どかっと敏樹の前のソファに座って、短く「おはよ」と言ってから、「オレンジジュース」と、メニューも見ないで言う。案の定、冷たい飲み物を注文した。
「吉川さん、ラズベリーを指定したけど、ここはよく来るの?」
 敏樹はひそひそ声で言う。
「ぜんぜん。小野山総一郎の邸宅に行く時に立ち寄ることもあるだけ。駅から近いから。どうして?」
「いや、別に」少なくとも吉川が来てくれたおかげで、最強の家族経営店に入ってしまった独身男の肩身の狭さは解消された。
「あの電車を利用する客も減ったけど、それで廃線になったら大変だ。そうなると、あの小野山の家に行くにはタクシーしかなくなる」
「確かにあの方面、公営の乗り物はあれしかないね」
「あの辺りは別荘地みたいなもので、普通はお抱え運転手がいるような人たちが住んでいる集落だから、世間からは全く隔離されていると言っていい。彼らは電車を使ったりしない」
 敏樹は小学生の頃に、一度だけ母親とその鉄道に乗ったことがあった。
 最初は路面電車の風体だが、途中から山あいを走る。車窓から海が見え、随分遠くに来たような気がして、嬉しい反面、何だか不安だった。どこに行くのかと母親に聞くと、ただ乗ってみているだけだから反対まで行ったら折り返してくるのよ、と言った。終点まで行って折り返そうとすると、時刻表を見て次の発車は三時間後だと気付いて驚き、仕方がないので駅を出てその周辺を歩いた。中央公園のそばにウサギや鶏、インコなどの小動物を飼っている小さな動物園があって、動物小屋の前には手相占いの人がじっと座っていたのを覚えている。
 小さな丸テーブルの上には白いモルモットを入れた籠があり、敏樹が立ち止まって眺めていると、「触ってみるかい」と占い師は籠からそれを取り出した。今にして思えばモルモットは注射を打たれて眠っていたのだろう。籠から出しても目を閉じたまま呼吸を繰り返し、逃げようともしなかった。敏樹は掌に乗った暖かいモルモットの毛を撫でて、占い師が「かわいいだろう」と言うのに頷いた。少し迷惑そうな顔をした母親に「行きましょう」と急かされたのを覚えている。モルモットを戻すと、占い師は敏樹の右手をそっと持って、「モルモットを抱いた時の手の形はなかなかいい」と言った。「それほど大きすぎる幸運は掴まないかもしれないけれど、どんなささやかな幸運も受け取り、壊さないようにすることができる手をしている」
 母親が仕方なさそうに「おいくらですか」と言うと、占い師は「お構いなく」と答えた。しばらく歩いてから振り返ると、占い師はやはりじっと座っていて、誰も訪れそうもない公園の中に一人置き去りにされているようだった。中央公園の噴水の近くに手洗い場を見つけた母親が「モルモットを触ったのだから手を洗いなさい」と言い、幼かった敏樹はそれに従った。水道の水で洗い流して、母の差し出すハンカチで手を拭いた後も、その柔らかいモルモットの生暖かい感触は掌に残った。大人になった今でもその感じはずっと残っているような気がする。あの時言われた、――それほど大きすぎる幸運は掴まないかもしれないけれど、――という予言が、掌の感触と共に心に沁みついている。喜ばしいことなのか、残念なことなのか。なんとなく公民館を避けようとしてしまうのは、この予言のせいなのか。
 オレンジジュースを飲んでいる吉川に、このモルモット占いの話をすると、
「その占い師、今でもいるよ」と言った。
「マジで?」驚いた。
「同一人物なのかはわからないし、モルモットは何代目なのかわからないけれど、会ったことある。まさに小野山の邸宅に行く途中の公園だよ、それ」
「一番最近見たのはいつ?」
「先週」
「そんなに直近?」
 吉川はストローからジュースを吸い込みながらうなずく。「近頃、わりと小野山亭に行くんだ。さっき敏樹君が言ったモルモットを飼っている占い師の話だけど、実を言うと一度だけ占って貰おうとしたことがある」唐突に言う。
「吉川さんが? 意外ですね。いや、意外でもないか。むしろ怪しい感じのものは好きそうだ」
「初めて真美子に連れられて小野山総一郎の家に行った日の帰りだよ。結婚した元カノの家に招待されるなどという馬鹿げたことをやった日に、一人でぶらぶら歩いていたら発見した。確かに、動物小屋の前でじっとしていた。丸眼鏡を掛けて、白い和服だろう?」
「そんな感じだったかな。今にして思えばいかにも占い師という風情」
「占ってくれと言うと、そのモルモットを籠から出して、これを持ちなさいと言う。ここまでは、さっきの敏樹君のお話と同じだね。だけど、断ったんだ。モルモットは好きじゃないと。普通に、掌の相を読んでもらえないかと」
「そしたら?」
「ならば、占えない、と言った。手相と言っても、モルモットをどのように掌に乗せるかによって占うのだから、モルモットを触れないのなら占えない、とか。『いずれにしても幸運を手に入れることを躊躇するだろう』と嫌な予言をしやがった。どうせいかがわしいのだ。敏樹君の話を聞いても、幸運の定義が間違っている」
「どういうこと?」
「幸運というのは、大きいも、ささやかもない。運は運びだから、運動のことだよ」
 哲学説法が始まった。
「だけど、その人は、僕が子どもの頃に会った占い師だろうか。もう三十年は経っているから、別人だと思うけど、どうなんだろう」
 どうにか話を切り替える。
「あれから何度か見かけたような気もするけれど。そんなことより、そろそろ行きますか」
 吉川は腕時計をちらりと見る。説法を免れた敏樹も時計を見てこれ幸いと同意し、すぐに立ち上がって、伝票を持って歩き始めた吉川の後を追う。
 外は雨でも降りだしそうな冴えない空気が漂っていた。店を出て煙草屋の横にある自動販売機でお茶を買う。
「ラズベリーで珈琲を飲んだのでは?」
 吉川に呆れられたが気にしない。何かを飲み直したかった。
 四十分ほど電車に揺られて終点に降り立った時、敏樹は一陣の弱い風を受けた。
 風の中に東南アジアから輸入した生地が発する独特の匂いがする。立ち並ぶ街灯には紅白のボンボンを繋いだ飾りが揺れている。石碑がロータリーの真ん中に鎮座し、なぜかその横でリスを象ったプラスティック製の巨大な置物が「ようこそ」と書いたプレートを噛んでいる。少し日焼けして色褪せてはいるが子供の頃に見た風景のままだった。
「例の公園は若干遠回りだけど、行って、あの白い和服姿の占い師が今日もモルモットを連れて座っているかどうか確かめようか」
 吉川が提案したが、敏樹はやめておこうと言った。それほど縁起がいいとは思えない。
「早く現地に行ってデッサン帳を探したい。あるかないか、分からないけれど」
 吉川は、そう、と言って足早に歩き始めた。「十分も歩けば着く。少し坂道だけどね」
 その坂道のことを、吉川は「少し」と言ったが、思いのほか急なものだった。駅の周辺もそれほど人通りが多いわけではなく、まるで最果ての国境線に晒された町のような、静かながらもどこか張り詰めた空気の漂うものではあったが、坂道を上り始めてからはさらにその傾向を強めて、どこにも人の姿を見かけることはなく、心臓破りの傾きに這いつくばるように坂を上っていく。道沿いの住宅は丁寧に手入れされた豪邸ばかりで、穏やかさと緊張感が見事に同居していた。一歩一歩上っていくうちに敏樹の額にはじっとりと汗が滲み、息が乱れていく。閑静な住宅街がそれを黙って見張るように立ち並んでいる。
「小野山と結婚していた時、まみちゃんはこれを毎日上っていたの? 買い物をしたり、仕事に行ったり」
 敏樹は先日撮影した真美子の華奢な身体を思い浮かべた。「けっこうきついと思うけど」
「毎日上っていたかどうかは不明。駅裏に建設されたマーケットに電話をすれば、生活に必要なものは配達されると言っていたから、なるべく外に出ないで家の中で過ごそうと思えば延々とそうしていられたのじゃないか」
「むしろ、そうなるための坂みたいだね。引きこもりたくなる。僕の車で来ればよかった」
 息が切れる。首の横を汗が流れる。
「途中から道が細くなって、敏樹君の車じゃ通れない。坂は何度も上っているといつか慣れてくるものだよ。傾斜の具合には関係ない。不慣れな坂を上るのには苦労したとしても、どういうわけか、慣れた坂だけは大丈夫になってくる。どの程度の長さかとか、次に現れる風景とか、そういったものがわかってくると、苦労の半分はなくなる。逆に言うと、最初に上る時の心拍数の半分には、予測不能という不安によるものが上乗せされているのだ」
「かもしれないね」と敏樹は短く応えた。
 住宅塀からはサルスベリがはみ出し、左右の家の屋根を鳥が行き来している。坂を上る敏樹と吉川以外は、世間のどこと比較しても最上の平安を醸し出している。そのせいで、こちらの足はより一層重く感じられた。
 小野山総一郎の家は坂道を上り切った場所にあった。
 建物の一部を蔦が覆って、青い花を咲かせている。黒い瓦屋根と白い壁は武家の城を思わせる堅牢な風情だが、鉄製の門はロココ調の優美なものだった。椰子の木が庭に生えているのか、塀のずっと向こうはビリジアン色に鬱蒼としている。下手すると七色に変化するカメレオンでも飛び出してきそうだ。
「やたらと大袈裟な建物だね」
 ようやく息を落ち着かせた敏樹だったけれど、建物の威圧感に、再び疲労感が押し寄せる。「こんな位置に、よくもこんな設えを作ったものだ」
「あの花は琉球朝顔でね、マットな色調が綺麗だろう」
 吉川はそれほど息を弾ませてはいないようだ。「建物の向こう側は海だから、バルコニーでカクテルなんかを飲むのは最高だ。上から見下ろす青い海、しかも、私的空間から見下ろす青い海というのは、なかなかに人をクレイジーにさせるものだ。金持っているとか持っていないとか、そういう傲慢さの醸し出すクレイジーとは違って、どちらかと言えばいい意味のクレイジー。特にこの建物から見渡せる海は海岸線の切り取り方が素敵でね、サファイヤの指輪を手に入れたような形に見える。今日の天気ではサファイヤとはいかないだろうけど、とにかく入ろう」
 門の鍵を開けて中に入る。
 長方形に切り取られた岩を土の中に埋め込んだ誘い道があり、両側には柊と椿が低く植えられている。庭の奥には外からも見えた椰子の木群があるようだが、その手前で玄関の方に折れる。日当たりはよくないのか、雨も降らなかったはずなのに庭の土は黒く湿っているようだった。玄関の引き戸を開けると、樹木を艶々に磨いて作った衝立があり、横の壁には凝った幾何学模様のステンドグラスがはめ込んである。床にその七色の影が映り込んでいた。ペルシア絨毯の敷かれた廊下の左右には二つずつ扉があり、吉川はひとつずつ開けていった。
 一番手前の部屋には暖炉と立派なグランドピアノが置いてあり、その隣の部屋には家主が収集したと思われる美術品が壁や棚に並べられている。
「これ、一般人の家とは言えないな」
 窓際には博物館で使うような陳列用のガラスケースまでおいてあり、まるで美術館だ。個人的に蒐集物を楽しむというより、誰かを招いて披露することを前提としている。それも、鑑賞というよりは研究か何かのために。
「小野山総一郎はフランスで有名なピアニストの親戚だとか言っていたよ。有名なピアニストと言っても、一般的に有名というわけではなくて、上流階級だけが知るピアニストだとか。なんのことだろうね。日本にもあるだろう、神道お抱えの筝曲演奏家とか。演奏会場などではほとんどやらない。特別な神事の時にだけ呼ばれて天と地の通路を作るのが目的。一般の競争社会からは保護されている」
 吉川はシャンデリアを見上げていた。「だけど、真美子がこういう生活に憧れていたとは思わなかったよ」
「まみちゃんはこれに憧れていたのか?」
「あんなに年の離れた小野山と結婚するというのなら、それしか考えられないだろう」
 他の部屋を巡る。書斎とリビング。どの部屋の設えも贅沢品という域ではなく、もはや貴重品の趣があった。壺ひとつ見ても本来なら博物館にあるべきものだろう。雑誌や目録の撮影時にしかお目にかからない。
「さてと、敏樹君お目当てのデッサン帳を探しますか。まずは例のアトリエに行ってみよう。小野山が作った真美子の人形がずらりと並べてある。神隠し事件に遭遇した直後の真美子がぽつんと座っていた場所だ」
 アトリエは、建物の裏口から一旦庭に出て、庭石を使った短い遊歩道を辿った先にある。遊歩道を渡りながら、
「あれが真美子と小野山総一郎が生活していた場所」
 吉川はアトリエと二階廊下でつながっている建物を指した。
「他の建物に比べたら平凡な感じがするけど、生活空間としてはむしろ納得できる」
 アトリエの扉に鍵は掛かっていなかった。吉川は中に入ると暗がりの中壁に手をやり、手慣れた様子で灯りを点けた。かび臭い匂いと、なぜか煎れたばかりの珈琲のような香りが漂っている。入ってすぐの場所には待合室のような趣でテーブルと椅子だけがあり、
「球体関節人形は奥の部屋に保管されている」と吉川は言った。
 奥へと続く木のドアをぐいと開ける。一歩部屋の中に入った後、吉川は立ち止まったまま前に進まなくなった。
「どうしたの? 入ろう」
「ない! 何も、ない!」
 吉川は声を上げた。「真美子の球体関節人形が全部、無くなっている!」
 立ち止まっている吉川の横をすり抜けて、敏樹も中に入って行く。確かに、そこに球体関節人形はなく、ガランとしていた。「ここに保存されていたのか?」
 吉川はうなずく。
「奴がいるんだ」
「奴って、小野山が? フランスに行っているのでは?」
「いや、きっと、ずっといるのだ。この建物のどこかに。珈琲の香りが充満しているだろう? これは淹れたばかりの珈琲じゃないか。いないはずがない。これは、小野山が愛用していた銘柄の匂いだ。奴はいる」
 吉川は少し青ざめている。
「隣の建物に小野山が居たとしてもそれほど不思議ではない。あの建物とこのアトリエは二階廊下がつながっていたから、もしそこに居て珈琲を煎れていたら、換気口を伝って香りが漂ってくるのは当然だね」
「だけど、この前、管理人の婆さんが小野山はまだフランスからは帰らないと言っていたのだよ。ほんの数日前のことじゃないか。その間に戻ってきて、あれだけの球体関節人形を片付けたとでも言うのか」
「隣の建物に行ってみようか」
「それはできない」と吉川は言った。「あの建物は小野山と真美子の家だから、勝手に入ることは許されない」
 敏樹は「もう気にしなくてもいいんじゃないか」と言おうとしてやめた。なんともない顔をしているけれど、吉川にとって真美子は元彼女だったのだから。「リビングに戻ろう。海を見ればクレイジーな気分になれるのだろう?」
 相変わらず薄曇りの空模様だったが、リビングの窓から眺める海の色は青かった。
 リビングの奥には簡易キッチンがセットされた部屋があり、吉川がそこから冷えたソーダ水を取り出してきて、ジンに混ぜて簡単なカクテルを作ってくれた。クラッカーと缶詰のアンチョビでつまみも作る。
「いい家ですね」
 敏樹はグラスを持ったまま窓際に立った。「吉川さんの言う通り、海がサファイヤの指輪みたいに見える。今日の天候ならやや色の薄いアクアマリンといったところか」
「真美子が転がり込んできて、そのくせいつの間にか小野山と結婚して、さらには神隠し事件に遭遇して、長年そのことに振り回されてきたけど、この家に出入りできることだけは幸運だったと思うよ。小野山は私に鍵を渡してくれた後、返してくれと言う前に姿を消しているわけだから、不法侵入というわけでもないし」
「どう考えても、小野山はこの建物のどこかに居るような気はする」
 敏樹は正直に言った。「吉川さんの言う通り、さっきの珈琲の香は漂っているだけではなくて、徐々に匂いを濃くしていたから、たった今淹れていることを証明している。間違いないよ。それが小野山じゃなかったとしたら、一体誰なんだ」
 窓外の空をヘリコプターが渡っている。
「そう言えば、今日はデッサン帳を探しに来たんだった」
 吉川はやっとそのことを思い出したようだった。
「デッサン帳が実家から無くなってしまったのは、今からずっと前のことのはず。この前二人で探した時の埃の蓄積状態からわかる。もしも昔からデッサン帳をさっきのアトリエの方に移動して保存してあったのなら、吉川さんの方でなんとなく見覚えがあったり、まみちゃんが神隠し事件に遭遇した日に撮った写真に写っていたりすると思うけれど、そういうことはなさそうだ」
 敏樹はジンソーダを口にした。長い坂道を上って来たので喉が渇いていた。「だから、あるとしたら他の場所にあるんじゃないか。アトリエの横の生活空間、とか。今でも小野山が珈琲を飲みながらデッサン帳を眺めている可能性はなくはない」
「あり得るな。だけどそれどころか、人形そのものが喪失してしまっていたのだから、もう脱力」吉川は疲れた笑顔を向ける。
「大前提を覆すようだけど、この家は小野山個人のものだろうか」
 敏樹は青い花模様の壁紙を眺める。古い建物のわりには張り替えたばかりのようにも言える。「最初に見たグランドピアノのある部屋の隣、ガラスケースの陳列棚のある部屋を見た時に思ったけど、ここは個人の家とは思えない。共有されている建物のようだ。絵画や陶器なんかも愛用品ではなく、貴重品しかない」
 それもそうだな、と吉川はうなずく。
「まみちゃんは子供の頃に両親がフランス語の会に入っていて、時々自宅でパーティを開き、その会の中にまみちゃんをデッサンしている男、つまり小野山が居たと話していたけど、姉の乃利子さんの方ではそんなパーティのことは知らないと言った。ということから考えてみたのだけど、まみちゃんが記憶しているパーティはここで行われたのではないか。何らかの理由で乃利子さんは連れてこられなくて、まみちゃんだけが来ていた。あんな坂道だから、車にでも乗せられて、眠っているうちにここに来ていて、両親がホストのような立場で客たちを迎えていたのなら、子供だから、これは自宅なのだと思ってもおかしくはないのかしれないな。頻繁に行われていたのならそうだろう」
「これからアトリエ横の建物を訪問してみようか」
 吉川が急に大胆なことを言う。
「それができるのなら一番いいけれど、吉川さんはまみちゃんと小野山の住んでいた場所だから嫌なんじゃなかったっけ?」
「さっきの敏樹くんの、ここはみんなの家だったのじゃないかという話を聞いて、なんとなく気が変わった」
 吉川の目はいつになくまっすぐに敏樹の目を見ていた。
「善は急げということで、すぐにでも行ってみようか」
 敏樹が立ち上がると、吉川も立ち上がる。二人はアトリエ横の建物に向かった。
 その建物はここでの他の何よりも平凡な外観をしていた。コンクリートの壁、アルミサッシを組み合わせ擦りガラスをはめ込んだ玄関扉。プラスティックの雨樋が壁横に沿わされ、庇は錆びかけたトタン屋根だった。
「この敷地内にあると異様に貧相に見える」敏樹は屋根の縁にそっと触れた。
 吉川はチャイムを鳴らした。何度か鳴らしたが返事はない。扉には鍵が掛かっていた。「珈琲の匂いがするだけで、音沙汰なし」
「もう一度アトリエに行って、向こう側から入れないかチャレンジしてみないか。外から見ると二階の廊下はつながっているようだから」
「アトリエに二階のあった記憶はないが、敏樹君の言う通りにするよ。本件に関しては、敏樹君の方が理性的にものを考えられるだろうから。長年の謎が解けていきそうな気がする」
 再びアトリエに戻って冷静に中を見ると、全ての球体関節人形が片付けられた室内の棚や床には塵ひとつなく、これならここ数日の間に片付けて掃除したことが推測できる。窓のないアトリエは部屋というよりも木製の箱のようだった。
「これまではこんな風に人形のなかった状態でこの部屋に入ったことはない」
 吉川は棚に指を押し当てていた。「先日の実家の物置とはまるで違う。埃が全くない」
 敏樹はやはり小鳥の声を聞いたような気がした。「鳥がいる?」
「まさか」吉川は笑う。
 見渡しても、鳥かごはなかった。
「順番に壁を押していってみよう。扉になっている場所があるかもしれないから」
 敏樹の提案に、吉川も一緒に壁を押していく。
「ほら、ここだ!」
 部屋奥のちょうど棚のない壁には細い切れ目が入っていた。「きっとこれが扉だよ」
 敏樹がぐっと押すと、それほど苦労もなく壁は向こう側に開き、細い階段が現れた。すると、それまで以上に濃い珈琲の匂いが漂ってきた。
「吉川さん、これどう考えても、向こうの建物に繋がっている。人形がぎっしりと置いてある時には扉の存在にさえ気付かなかっただろうけど。どうする? 行ってみる?」
 二人で細い階段を見上げた。灯りはないが、上り切った辺りにはうっすらと陽が射している。小さな埃がちらちらと輝きながら舞っている。
「ここまで来たからには、行ってみるしかないだろう」
 吉川が先に上り始めた。後を敏樹が続く。上り切った辺りで、吉川があっと声を上げた。
「鳥がいる」
「剥製?」
「いや、生きている。クリーム色のインコ」
 二人とも上り切ると、小さなのぞき窓のある狭い廊下があり、インコは薄く開いた窓の横に掛けられた籠の中で首を傾けながら小さく鳴いていた。窓の外には椰子の木林がある。驚いたことに、椰子の木群には何羽ものインコが棲息しているようだった。青や桃色、薄緑色。ぱっと見ただけでも十羽は居て、樹木から樹木へと渡るたびに葉が揺れている。百葉箱に似た餌箱がひとつその中にあって、桃色のインコが箱の中に飛び込んだと思うと、クリーム色のものが飛び出してくる。よく見ると樹木の上には透明の薄い網が掛けられている。逃げられないようにというよりは、鷹などの大きな鳥に襲われないようにするためだろうか。
「あのインコたち全部が鳴いていたのか。それが聞こえていたんだ」
 廊下を渡り切って階段を下りていくと、なるほど生活空間がそこにはあった。
 台所、テーブルと椅子、テレビ、電話、布団を敷いた部屋、洗濯物を干す縁側――。
 テーブルの上に飲みかけの珈琲があり、敏樹がカップに手を触れるとまだ温かかった。しかし、そこには誰もいない。「やっぱり誰かがいたんだ。出て行った後か?」
 敏樹が玄関に行ってみると、扉に鍵は掛かっていなかった。二人の気配を感じて、珈琲を飲もうとしていた人が慌てて出て行ったのだろうか。
「小野山か? それとも、管理人の婆さんか?」敏樹は呟く。
「この珈琲豆、井上恵三の焙煎したものだよ。見てごらん、これ」
 吉川から手渡されたものは、何ということもない茶袋だった。
「焙煎屋はよくこの袋で豆を売るんだよ。恵三の店のものとは限らないのでは?」
「底を見て。豆を零さないように」
 吉川に言われるままに敏樹は袋をそっとひっくり返した。ブルーブラックのインクで427Kと書いてある。「なんだこれ? 日付だろうか」
「日付と銘柄だよ。たとえばキリマンジャロのKかな。井上恵三の字にそっくり。前にしんちゃんが入手してきたものと同じ字だ」
 そう言いながら吉川は台所の収納スペースをあちこち探し回って、
「袋の束を見つけた」
 一枚ずつ膨らましては底を見ている。手に持っているだけでも五十枚くらいあるが、収納スペースにはまだあるようだった。「全部、井上恵三の焙煎豆の袋だ。こうなったら、ここに住んでいるのは井上恵三本人か、彼の豆を愛好している常連客としか思えないね。わざわざ袋を取っておくとは豪邸住まいの人に似合わないけちくさい癖のようだから部外者かもしれないし、もちろん小野山本人かもしれない。金持ちに貧乏性がないとは限らないからね。いや、いっそ金持ちこそケチなものさ」
 吉川は今にも何かを突き止められそうに思えたのか、もともとは青白い顔をうっすらと紅潮させていた。
 焙煎した珈琲豆が入っていたと思われる茶袋の底にはどれも、Kの文字が書き込まれている。
 吉川は袋の口に鼻を近付けて匂いを嗅いでいる。「ずっと前のものと思われる袋でさえ、珈琲豆の匂いがする」
「吉川さん、珈琲飲むの?」敏樹はテーブルの上に置いてある飲みかけの珈琲の入ったカップに顔を近付けて、香りを嗅いでみる。なかなかよい香りがする。
「あまり珈琲は好まない。しんちゃんが恵三の店に行き、焙煎豆を手に入れてきて、うちで淹れてくれたことがあったけど、その時に飲んだくらい」
「へえ、しんちゃんは恵三の喫茶店に行って豆まで買ってきたのに顔を覚えられていなかったのかな。『標本クラブ』の日に恵三が現れた時、僕の方は覚えられていた。恵三の店に行ったことは行ったけどほとんど会話もせず、ただ恵三が僕の手に珈琲をこぼしてしまって拭いたり無料にしてもらったりしたせいで、この手のほくろを覚えていたらしく恵三の方から話しかけてきた。井上恵三という男はなかなか記憶力のいい鋭い人間だと思ったけど」
「そう言えばそうだ。しんちゃんってやつは、不思議なやつだ。人懐っこいけれど、いつも後味を残さずにすっと消える。あの鋭そうな恵三の記憶からもすっと逃れたのだろうか」
 吉川は髭をいじりながら、遠く思い出すような眼をしながら、声のトーンまで優しくしてしんちゃんの話をする。まるで孫の話をする爺さんのようだった。
「しんちゃんと吉川さんはどうやって知り合ったの?」
 敏樹は思わず聞いた。
「どうやってって、『Q村神隠し事件研究会』の後で声を掛けられたんだ」
「それから?」
「それからって、どうだったか。なんとなく仲良くなって、真美子の話をして、いつの間にか『標本クラブ』をやることになっていた」
 吉川は天井を睨むように見て思い出そうとしているようだった。
「どっちが言い出したの?」
「さて、どっちだったか。私が人形作家だと言ったら、それを使ってファイルを作ろうと言い出したのはしんちゃんだったかな」
「吉川さん、しんちゃんが淹れた珈琲を飲んでみた時、何か感じるところはあった?」
「特に何も。しんちゃんも飲んでみたけど、何かあるとは思えないなと言っていた」
 もう一度、テーブルの上の珈琲の香りを嗅ぐ。涙をこらえたときのようなほのかな痛みを内包する酸味の予感。誰かの飲み残しとわかっていながら、なんとなく飲みたくなる。
「淹れてみようか、ここで」敏樹はキッチンのガスレンジの上に置かれた珈琲専用のポットやサーバー、ドリップ用のマグを見た。「僕は仕事場で、毎日自分で淹れて飲むから、わりと上手く淹れられるけど、どうする?」
 吉川はしばらく考えてから、ここではやめようと言った。「ここに居て珈琲を飲もうとしていた人が誰なのかわからないし、我々の足音を聞いて逃げたのだとしたら、まだ近くに居て様子をうかがっているかもしれない。なんなら、そこに山ほど買い置きしてある豆の中から一袋頂戴して持ち帰って、こんど私の家で淹れて飲んでみようか」
 それもいい。敏樹はやや罪悪感を覚えながらも同意して、一袋手に取りKの字を確かめて鞄に入れた。
「結局、探しているデッサン帳は見つからず、これまでにはあった球体関節人形さえ失われてしまったね」
 この部屋を見つけて一旦紅潮していた吉川の顔は、再び青ざめていた。「何か真美子が時間をかけてゆっくりと死んでいくみたいで、実に嫌な気分だ。たとえ小野山が作っただけの、たかが人形だったとしても、あの場所に彼女がまだ生き生きしていた頃の姿形が保存されているのなら、まだ希望があったのに」
「どんな希望?」
「どんな希望かな。昔の彼女に会えるのではないか、ということか」
 吉川は苦痛を押し殺した紙屑のような笑顔を浮かべる。
「神隠し事件に遭遇しなくても、人は誰だってじわりじわりと変わっていくものだから、もう昔のその人に会えないというのは、普遍的に仕方のないことではあるけどね。僕達はみんな、刻々と死んでいる。もちろん、それは刻々と生まれているとも言い換えられるけれど」
「誰でもみんな、そういう耐えがたいことでも耐えて生きているのだろう。あるいは気付かないように、傷つかないように、どうにかして鈍感になろうとして生きているのだろうけど」
「そういえば、あの日撮影した真美子の写真を持ってきた。前にも言った通り、芸術作品としての人物撮影は初めてのことで、まだうまく撮れていないから本当は見せたくはないけれど、吉川さんだから、まあいいよ」
 敏樹は鞄から写真を取り出した。真美子が楓の木を抱えている写真と、ブロック塀にもたれている写真の二枚。暗い背景に真美子の白いワンピースが、ぼおっと光るように映っている。
「いい写真だ」
 吉川はひと目見るなり言った。「神隠し後の彼女をよく表している」
 それはどうも、と敏樹は言い、すんなりと褒められてしまったせいか、むしろ気が抜けてしまった。
「このワンピースに見覚えは?」
「ないな。付き合っている時にはこういうのは着なかった。小野山総一郎と結婚してからも外で着ているところを見たことはなかったから、部屋着かもしれない」
「これが部屋着?」
 とてもそうは思えなかった。柔らかな生地ではあったけれど、寝転んだり動き回ったりするのに適したものではなかったと思う。上質な麻の、むしろお出かけ用の、パーティにでも出席する際に着用するような類に見えた。「写真だからそう見えるだけだろう。実際にはむしろ正装のものに近かったと思うけど。あまりにサイズがピッタリで、既製品としてはブランド製品でも見たことのないようなシンプルなデザインだったから、驚いたことは驚いた。オーダーメイドかもしれない」
「この写真は夕顔のようだね。横山大観が描いた夕顔。美術館の仕事をしている知人が保管してあるものをこっそり見せてくれたことがある。画集などの写真になった絵を見ると、夕顔は普通の白い花にしか見えないけれど、本物の絵は、花だけがあの世から来た記号のように光っていて、そこだけ生々しく生きているみたいなんだ。大観は何か別の次元の生き物を見てしまって、それを夕顔に置き換えて描いたのではないかと思った。私は一時期、本気でそれの虜になった。たかが一枚の絵画だし、一度しか観ていないというのに、夜中にうなされるほど恋しくて胸が痛くなった。私は芸術に対してそんなにデリケートな感性を持っているつもりはないから、自分でも驚いたよ。あの時、芸術は素晴らしいとも思ったし、怖いとも思った。本当にこれまでに遭遇したことのない恋のように苦しかった」
「この僕の写真にそんな力はないと思うけど」
 敏樹が言うと、吉川は大きく首を横に振った。
「そんなこともない。何か、この世にいる真美子の物質的な肉体から、蛍の光のような命の炎が透けて見えているように思える。私にとっては、今の真美子は普段からこんな風に見える。おとなしいけれど、内側から雪明りのような冷たくも眩しい灯りを放っているように。だからよく撮れているよ。現在の彼女の本質を写している」
 普段から吉川の眼には真美子がこんな風に見えているのだとしたら、やはり切ないだろうと敏樹は思った。
「敏樹君の眼はファインダーを覗いた方が裸眼に近いのでは?」
 吉川はからかうように言う。「怖がらないで、もっと人物をたくさん撮ってみるといいのに」
 敏樹は予想外に褒められて困惑する。
「冗談でしょう?」
 つい、ぶっきらぼうになってしまう。
 外に出ると、もう日暮れに近付いていた。朝から日暮れのような天気だったので、それほど時間が経ったような気がしない。鈍く止まったままの時間に、先ほど嗅いだキリマンジャロの、脳芯を酸っぱく突くような香りがこびりついている。
 来るときには心臓破りだった坂道をゆっくりと降りる途中で、
「そう言えば、あの占い師がいるかどうか、公園の方に寄り道してみようか」
 吉川が言う。「なんなら、ちょっとした遊び心で占ってもらってもいいし」
 敏樹は、いいね、と同意する。子供の頃に母親と観た光景を思い出す。あれから三十年近く経っているのに、占い師は本当にまだあの場所に居るのだろうか。
 それにしても、あの日、どうしてこんなところに来たのか。当時の母親の、どこか遠くを見ているような目や、物寂しげな様子も思い出されてくる。母親はただ電車を端から端まで乗ってみたいだけと言ったけれど、本当にそうだろうか。あれが母親のふとした思いつきだったとしても、今、小野山総一郎の家を訪ねてみて、その建物の持つ何か不思議な磁力を知ってみると、小野山家のじんじんと発電し続ける力に無意識が反応して、抗いがたくこの方面に引っ張られてきたように思えなくもない。敏樹自身がこうして偶然再訪することになった状況を考えても、宛てのない予感に導かれ、それまでには見えていなかったあらゆる記憶や縁の糸が集約させられていくようだった。
 あの生き物のような椰子の木林。そこに棲息する何匹ものインコ。からくりの施された家屋。そして、球体関節人形が消え失せていることから考えると、まだ奥深くにもうひとつの空間が存在している。
 坂を降りてから、駅に向かう道を逸れて公園へと向かった。パン屋や布地屋、編み物教室の看板が掲げてある個人宅のある細い路地を抜けていった。どこからともなく線香の匂いがする。お仏壇のある家でもあるのだろうか。猫が二匹、じゃれるようにアスファルトの上に寝転んでいたが、二人の足音に気付くと顔をこちらに向けて警戒するようにじっと見た。その横を新聞配達の自転車が通り過ぎる。
「あそこだよ。動物公園」
 吉川が指す先には、ごく普通の児童公園を少し大きくしただけの広場があった。
「あんなに小さな公園だったかな」
 子供の頃には、知らない町だったせいかもしれないが、大きな遊園地に見えていた。置いてあるブランコやジャングルジムは、かつては艶々としたペンキが塗られていて、乗ってみたいとワクワクさせられるものだったが、今となっては小さく見えるし、剥がれ落ちそうになっているペンキの皮が浮き上がって、芯の鉄が見え隠れしている。誰も遊んではいなかった。
「砂場の向こうに、小動物を飼っている小屋がある。思い出したかな?」
 吉川が先に立っていき、その後ろを敏樹は歩いた。
「居るみたいだよ。占い師の男」
 吉川が立ち止まって指さす方を見ると、確かに小屋の前に白い和服を着た男がいる。小さな丸テーブルの上にはモルモットを入れた籠が乗っていて、男は背もたれのない椅子にじっと座っている。あの日のまんまだ。冴えない天気もあの日に似ている。相変わらず、小屋の中に居る鳥やウサギが忙しそうに中を動いている。もちろん実際には動物たちの世代は入れ替わっているのだろうけれど、まるでそこだけはあの日からずっとうまく取り残されて、何も生まれたり死んだりもせず、騙されたように機械仕掛けの生命体が、くるくると出口のない小屋の中を走り回っているかのように見えた。
 吉川は何の躊躇も見せずに、どかどかと占い師の方に向かって歩いていき、その前に立った。敏樹は恐る恐る後を着いていく。
「手相占い、ですよね」
 吉川は占い師に向かって言った。「おいくら?」
「おひとり二千円です」
 占い師は顔を伏せたまま、眼も合わせないでいた。
「どうする?」吉川は敏樹の方を振り返った。
「せっかくだから、それぞれ、占ってもらおうか」
「しんちゃんに言って、経費にしてもらう?」吉川がおかしそうに言う。
「いいよ、自腹で」敏樹は財布から二千円を出して、テーブルに置いた。じゃあ、僕もね、と言って吉川も二千円を出した。
 占い師は目を伏せたまま、「それでは、掌を見せてください」と吉川の手を指さした。「右手から」
「この占いではモルモットを抱くのでは?」吉川が言うと、
「モルモットはお嫌いなんでしょう?」顔も上げずに言う。「前に来られた時にはそう仰いました」
「覚えているのか」
「当然」
 一瞬の沈黙の後、吉川が右手を出すと、「細かい仕事がお得意ですね」と占い師は言った。「指先まで気が通っている」
「手の中の筋を見たりするんじゃないのか」
「私は、それは観ません。というか、見えませんから。私に見えるのは気の状態だけです。それで言うと、あなたの手は指先まで気が通っている。ほとんどの人は第一関節くらいまでしか通っていなくて、後は儚い、申し訳程度のものしかない」
「まあ、手先は器用な方だけど」
「ただし、指先で気が止まっている。そこから放ってはいない。イメージとして、指先からも気が出ていくようにすると、よりよいでしょう」
「どう、よりよくなるのかな」
「あなたの知人に居るでしょう? なんとなく、重さの無い、しかし気の充実している、フレンドリーで、可愛げのあるような人間が。その感じがプラスされます」
 しんちゃんのことだろうかと敏樹は思う。
「左手」占い師は吉川の左手を指している。「観ましょう」
 吉川が左手を出すと、「この手は眠っている」と言った。
「動くよ、ほら」吉川は指を動かして見せた。
「そうじゃなくて、気が動いていない。じっとしている。気配とか香とか、あまり感じない性質なのでは?」
 占い師が言うと、「そうでもないと思うけど」と吉川は首をひねっている。しかし、敏樹にしてみると、笑ってしまいそうなほど言い当てていると思う。吉川という人間は手先は器用だけれど、外から来る刺激に関しては鈍さがあると思わないでもない。幽霊が出ると噂された家に平気で一人で住んでいるのだから。もちろん、本当は幽霊なんか初めから出ないのかもしれないけれど。
「問題は、合掌する時間がないからでしょう。三度の食事の前に合掌するようにしなさい。左手の奥に留まっている気が右手によって呼び覚まされて、バランスがよくなるでしょう」
 占い師はもっともらしいことを言った。「さて、後ろの人」
 目を伏せたまま敏樹を指し、籠からモルモットを出した。「これを抱いてごらんなさい」
 敏樹は子供の頃と同じように、言われた通りにモルモットを掌の中に抱いた。モルモットは眠っている。ふわふわした毛と鼓動するぬくもりが掌に感じられる。モルモットは以前より小さく感じたし、目の前の男も小さく見えた。
「おかあさんは?」占い師は言った。
「え?」唐突のことで驚いて、素っ頓狂な声を出してしまう。
「生きていらっしゃいますか?」
「ええ、生きてます」
「連絡を取ってごらんなさい。近頃は取ってないでしょう?」
「まあ、そうですね」
「それだけです。終わり」
「終わり? もっとなんかないんですか。気が通っているとか、指先から出ているとか」
 敏樹は吉川をちらりと見た。「彼に仰ったように、何か、手のことに関して」
「あなたにとって手はそれほど重要ではないのでは?」
 占い師は伏し目がちなまま、少し笑みを浮かべて、「そうは言っても、帰りに噴水の横の手洗い場でよく手を洗っておきなさい」と言った。「終わり」
 占い師は敏樹からモルモットを取り戻して籠に入れると、置物のように黙り込んで動かなくなった。呼吸をしているのかどうかもわからない。これ以上何を話しかけても何も答えないだろう。
 吉川が、じゃあ、行こうか、と言って、歩き始めた。
 占い師に言われた通り、噴水の横の手洗い場に向かい、ごしごしと手を洗う。
「子供の頃、母親に言われてここで手を洗ったのがばれているのかな。三十年前のことだけど、あの時の僕だということも、わかっているらしい」
 敏樹は手を洗いながらも振り返って、占い師の居た方向を眺める。「占い師からここは見えないはずだけど」洗った手をハンカチで丁寧に拭いた。
「テキトーなことを言っているだけだよ。この世の中にはなんとなくテキトーなことを喋れば、相手の無意識のどこかにヒットすることを言える人間ってのがいるんだよ。だけど長々と話すと大した意味もないことがバレるから、短くしか喋らない」
「吉川さんに言ってたことは当たってるように思ったけどね。それにしても、僕にとって手はそれほど重要ではないって、どういうことかな」
「わからないけど、手に気を遣っていたら、あんな籠の中に入っている、素性のよくわからないモルモットを抱いたりしないんじゃないか。噛まれたりしたら困るじゃないか」
「動物に素性なんてあるのかな? 吉川さんが単なる動物嫌いってことじゃないの?」
「腹減ったなあ」
 どちらからともなく言い出して、駅前のラーメン屋に立ち寄った。この店も昔からあるような気がする。何もかも昔からあって、何も変わらず、この町は敏樹のことをじっと見つめて、過去から未来、生活空間の隅から隅まで知り尽くしているかのように思えてくる。
 ラーメンをすすりながら、「あの手相占いの二千円は高いのか、それとも安いのか」吉川が言う。
「世の中には相場がよくわからないものがたくさんありますね」
 敏樹はセットの卵炒飯をレンゲで掻きこみながら答えた。「一回きりのお遊びだと考えれば安いのでは? もしも今日、占い師に言われた通りに僕が母親に電話をして、宝くじに当たったから半分の五十万円をあなたの口座に振り込んであげますよ、とでも言ったとしたら、まあ、二千円は極端に安いってことになるけど、そんなこと滅多にないとは思う」
 敏樹はラーメンのスープをレンゲで掬って飲む。白湯スープ。油が少なくて旨い。
「今度は、管理人の婆さんが居る時に、小野山総一郎の家に行ってみようか」
 吉川が提案し、敏樹は、それもいいね、とうなずく。管理人の婆さんの知るところがあれば話を聞いてみたい気もする。
 吉川は占い師に言われたことを気にしているのか、これみよがしに合掌し、「ごちそうさまでした」と言った。
 掌のバランスがこんなことで取れるのか?
 取れなかったとしても、やらないよりはやった方がいい仕草に思える。
「ごちそうさまでした」
 敏樹も合掌し、ラーメン鉢に軽く一礼をする。
 帰宅後、敏樹は久しぶりに実家の母親に電話をした。占い師にそうした方がいいと言われたからでもあったし、あの公園にまだモルモット占いの男が居たことを伝えてみたかったからでもある。
 きっと懐かしがるだろうと思ったが、母親の反応は予想と全く違っていた。
「あなた、まだそんなこと言ってるの? 子どもの頃から、ずっとモルモット占いやったよね、電車に乗ったよね、と言っていたのよ。おかあさんはそんなところ行きませんよ、夢でも見たのかな、と言うと、行ったじゃないか、と言ってむくれて困った」
「え? じゃあ、行ってないと言うの? かあさんと二人で、あの公園」
「あの公園って、どの公園?」
「路面電車があるのは知っているでしょう? 山の方まで伸びている、もう廃線になりかかっている電車」
「それは知ってる。町の方に向かっては乗ったことありますよ。だけど、山の方には行ったことがない」
「そんなはずない。僕は今日、仕事で山の方に行って、そのモルモット占いの男に再会してきたんだ。そしたら、近頃お母さんに連絡してないでしょう? 連絡してみなさい、と言われて、それもあって今、電話してるんだ」
「またその話――」
 母親は電話口で黙り込んでしまった。「懐かしいわね。あなたのモルモット占いの夢を見た騒ぎ」
「夢じゃないよ。今日同行した友人もいるんだ。なんだったら、その友人に証明してもらってもいい。そこに行く前に、僕は子供の頃、かあさんと二人で路面電車に乗って公園に行き、占い師の男に会ったことがあると話して、友人も、その占い師は知っていると言って、仕事帰りに立ち寄ってみたんだ。そしたら、居た。昔と変わらず、居た。占い師は後で手洗い場に行って手を洗いなさいと言って、まるで子供の頃のかあさんと僕の姿を見ていたかのように」
「そこまで言うのなら、まんざら作り話ってわけでもなさそうだけど」
 敏樹の熱っぽい語り口に母親は少し引き下がったようだった。
「子供の頃、一時期、あなたはしつこくそのことを言っていた。だけど、おかあさんはそんなところに行った覚えはありませんよと言うと、そんなはずはないと言って泣いて困った。でも、ある時期からパタリと言わなくなって、やっぱり夢だったと納得したのだと思っていたのだけど。こうやって大人になってまで言うのだったら、少なくとも嘘ではないのだとあなたのことを信じます。でも、私は、そんなところには、あなたと一緒に行った覚えがないのよ。当時も、今も」
 誰のどんな記憶違いだろう。電話口で二人とも黙り込んでしまった。これ以上話しても埒が明かないからと言って電話を切り、敏樹はソファに寝そべった。
 一体何が起こっているのか。今日、吉川と電車に乗って小野山総一郎の家に行くことにならなければ、敏樹自身、モルモット占いのことはすっかり忘れていただろうと思う。記憶の底に沈みこんで、あれは夢だったとも現実だったとも考えないまま、葬り去られていた出来事なのだ。しかし、ラズベリーでアップルパイを食べながらあの光景を思い出してしまい、吉川に話して、最終的にはその光景が夢ではなく実在することを確認してしまった。公園の遊具も占い師も時間の経過による変化をある程度受け入れていて、昔見た大きさや新しさはなかったけれど、その経年変化自体でさえ、実在していたことを物語っていた。だけど、母親はそんな場所に行った記憶はないと言う。ないどころか、当時から、敏樹が夢物語を本当のことのように言うので困っていたと言う。なんだろう、この記憶のズレは。母親が嘘をついているのでは? 当時、敏樹がモルモット占いの人に遭遇したことを母親に確認しようとして困らせているという記憶は、敏樹の方にはない。そもそも秘密のような時間を過ごしたように思っていたから、その秘密を無神経にも母親に何度も言って確認したという記憶はどこにもないのだ。何もかもがボタンの掛け違いのように、辻褄が合わず、だけど掌に残るモルモットの温かい感触だけは実感として居座っている。
 居ても立ってもいられなくなって、敏樹は吉川に電話をした。
「確かに妙だな」
 電話口の吉川が敏樹の話を真面目に受け取ったので、少しほっとする。
「だろう? そもそも、母は僕の夢物語に悩まされていたなんて言う。僕自身は母に何度も、行ったよねと確認したことなんて記憶にない。どうなっているんだ? だけど、確かにあの占い師の男は居たし、吉川さんにはあの場所へ行く前にこの話をしたから、僕が話を捏造したり、どこかの部分で嘘をついたりしているわけではないことは、わかってもらえるだろう?」
 もちろんだ、と吉川は言った後、「それにしても、ある意味、当たってたな」と言う。
「何が?」
「占い師の言ったことだよ。お母さんに連絡を取りなさいと言っただろう?」
「それは、そうだけど、取ったからと言って、混乱するばかりじゃないか」
「混乱することは、マイナスのことばかりとは言えない。記憶に関する行き違いが起きて、敏樹君の中にある絶対的な信念が揺らぐのは、少なくとも芸術家としては重要なことかもしれないよ」
 芸術家として重要? 
「それはそうかもしれない」敏樹は素直に答える。
「敏樹君が子供の頃、あの場所に行ったのは本当のことだと思うよ。だけど、考えられるのは、その時、一緒に行ったのは、実体としてのお母さんじゃなかったのかもしれない。お母さんの分身とか、何か別の存在」
「そんなばかな。まだ小さい子供だけど、母親を見間違えるなんてことがあってたまるか」
 吉川が突拍子もないことを言うので、つい動揺して声を大きくしてしまう。
「お母さんじゃなかったとは言っていない、実体としてのお母さんじゃなかったのかもしれない、と言っているだけ。もちろん、そんなオカルトめいたこと、私も信じているわけじゃないけれど、人にはパラレルワールドに何人も分身が住んでいるという説もある。何かの拍子に、パラレルに住む君のお母さんの分身と、すれ違うように同行してしまったとか」
「信じがたい」
「そうだろうけど、思い出してみて、その前後のこと。電車に乗る前にどこに行っていたとか、どうして、電車に乗ることになったのか、とか」
 敏樹は考えてみたけれど、思い出せなかった。電車の駅で切符を買い、母親に手を引かれて乗り込み、あまりひと気のない電車のベンチ椅子に座って、車窓の青い海を眺めている。どうして、そういう流れになったのか。また、その後、家に帰り着くまでのことも、記憶にはない。
「思い出せないな」
「そうか。考えすぎない方がいい。今日、真美子の球体関節人形が全部なくなっていたり、奥の部屋では飲みかけの珈琲があって、居ないはずの小野山総一郎の気配を感じたり、とにかく一日に押し寄せた謎が多すぎると思う。あの地域は、何か時空間に歪みがあって、通常では考えられないようなことが起きやすいのかもしれない。少なくとも、我々はそこのことを共有しているし、敏樹君や私がたった一人で、気が変になったのではないかと心配しなくてもいいのだから、それはまだよかった。敏樹君が嘘をついてないことは知っている。あの地域のゆらぎに関しては、今後も調査してみてもいい。神隠し事件とも関係があるのかもしれない」
 そうだな、と敏樹は言って、「早いうちに、もう一度訪問しないか。小野山の家」と提案した。
「そうしよう。水曜日はどうか。もし居たら管理人の婆さんに、話を聞いてみてもいいだろう」
 ありがとう、と言い、敏樹は電話を切った。ありがとう、と言うのも変だったかと思ったが、母親との会話で動転している状態をどうにか収めて貰って、謎を共に解こうとしてくれることは、実際、ありがたかった。
 あの地域。あの家屋。鬱蒼と茂っていたビリジアンの椰子の木と色とりどりのインコ。立ち込める珈琲の匂い。それらは不本意に目の前に立ち現れ、敏樹の意識に重くのしかかってくるのだが、考えようによっては興味深い主題に直面しているとも言える。
 母親との記憶のズレがあの界隈から発生しているとすれば、真美子を預かる羽目になった運命も、偶発的なことではないような気もする。まだ敏樹が子供だったあの日、誰と路面電車に乗ったのか。母親の姿をした別の存在? それが真美子や吉川たちとの現在の縁に繋がっているのか。
 答えのない逡巡に身を任せるうちに、よほど疲れていたのか、そのままソファで眠ってしまった。
 改めて、二人が小野山総一郎の邸宅を訪れた水曜日の正午――。
 管理人の女性は、細谷たま子と名乗った。
 吉川が「管理人の婆さん」と言っていたので、昔話の絵本にでも出てきそうな白髪を後頭部で束ねた皺だらけの老婆をイメージしていたのだが、実際には五十代くらいのマダムと言っても差し支えない風貌で、黒く染めたセミロングの髪は毛先をほどよくカールさせていた。丁寧に塗り込んだファンデーション、映画「風と共に去りぬ」のビビヤンリーをイメージさせる眉の形を描き、落ち着いた色調の赤い口紅を塗っている。黒の細身のパンツに辛子色のレースのチュニックを羽織っていた。耳には鶯色をしたメノウのボタン風イヤリング、首元には同じ色合いの細いネックレスをしている。指輪はしていない。
 吉川が前もって面会したいと申し出をしておいたらしく、到着した二人は海の見えるリビングに通され、ロゼワインとサンドイッチ、ローストビーフとパスタを振舞われた。美しくカットされた果物もある。
 月曜日に訪れた時とは違い、一年にも滅多にないほどの五月晴れで、窓から見える海は今度こそサファイヤの指輪に見えた。ほどよい風に白波が立って、まるでキラキラと輝く宝石そのものだ。
「この家ができてからずっと、いや、できてからと言うよりは、改築されてから、と言った方がいいかしら、私はここの管理を任されています」
 細谷たま子は柔らかなハスキーボイスだった。「元々の持ち主が亡くなって、小野山先生が買い取って改築されました。当時の私はまだ若かったけれど、その頃、結婚しようと言っていた人が病気で亡くなってしまった直後で、それで、もう尼さんになってもいいと思って管理を引き受けました。建物と結婚しようと思いましたの。五十年も前の話ですよ。実際には私、その後、別の方と結婚いたしまして、ここへは通勤する形で管理を引き受けております」
「ということは、小野山総一郎と真美子が結婚生活をしていた時にも管理をされていたってことですか? 私は当時、球体関節人形の製作で時々出入りしていましたけれど、その頃にはたま子さんとは一度もお会いしたことはありませんが」
 吉川は今更のように驚く。
「こちら側の建物のお掃除などは、誰もいらっしゃらない時に行います。お三人さまがいらっしゃる時には前もって小野山先生に言われて、元から出勤しなかったり、奥の部屋でテレビを見たり。ですけれど、私の方では吉川様のことは拝見しておりました。庭や玄関先を掃除している時にすっと横を通られることもございました。今でも、時々アトリエの方にいらっしゃいますでしょう?」
 どうやら、吉川は観察されていたらしい。
「小野山は真美子のことをほったらかして消えてしまったけど、今は一体どこにいるんですか」
 少々頭に来たのか、吉川は語調を強めている。「まだ正式に離婚したわけでもないし、あなたに言わせるとフランスにいるということで失踪しているわけでもないから、様々な手続きもとれない状態です」
「フランスにいらっしゃいます。私としては、それ以上は申し上げられません。というか、実際正確なことは存じておりません」
「たま子さんは、真美子が神隠しに遭った話はご存知でしたか」
 吉川はなんら隠し立てするつもりのないらしく、この時を待っていたかのように、聞きたいことを躊躇なく問いかけていた。
「存じております。だってこの辺りでは昔から、神隠し事件がありますでしょう? それも、行ったっきり出てこないのではなくて、一晩で戻ってくる。外傷はどこにもない。だけど中身はすっかり変わっている、という事件。正直に申し上げますと、私は当事者の血縁です。私の祖母がそのような事件に巻き込まれて、その後、母が生まれて、さらに私を生みました。ご存知かと思いますけれど、事件に遭遇したからと言って、精神に異常をきたしているわけじゃありません。本人が積極的に結婚して子を産みたいという心境になったかどうかはわかりませんけれど、縁を取り持つ人が居て結婚したそうです。かわいそうと思われるかもしれませんが、昔は誰だって、そんな風に、あまり気が向かない場合でも結婚させられて子供を産んだものですから、さしておかしなことではございません。ただ、幼心にも、なんとなく祖母は別世界の人のように見えましたし、そんな親に育てられた母もまた、どことなくぼんやりとした人だったように思えます。むしろそういうあの世的な女を気に入って、嫁にしたいと考える人間はけっこういるらしく、考えてみれば祖父も資産家で、家事などは家政婦に任せて、祖母を娶って自由にさせていました。父はそういう細谷家に婿入りした養子です。私は祖母や母親とは離されて、ほとんど家政婦に育てられましたから、彼女たちとは違って家のことは得意で、こうして管理を任されてもなんでもできるのですけれど」
 ちょうど敏樹はたま子の作ったローストビーフを食べていた。家事は得意だと言うだけあって旨い。
「たま子さんは、どうして小野山総一郎と知り合いに?」
「若いころ、父と一緒にこの家に来ていました。改築前のことですけれど、ここでは、かつて、フランス語の会が開催されておりまして、フランス語の話せる方だけ集まって、フランス語だけで話をするのです。そこに小野山先生がいらっしゃいました」
 やはり、ここでフランス語の会は行われていたのか。敏樹と吉川は目を合わせる。
「たま子さんもフランス語はお得意でいらっしゃったのでしょうか。みんなと一緒にフランス語で会話をされていたとか」
「いいえ、父に付き添って来ていただけです。フランス語は全く話せないけれど、ここの美術品を鑑賞したいからという理由で同行しておりました。ご覧になったと思うけれど、この家には数多くの貴重品が置いてありまして、地下の倉庫にあるものと入れ替えて展示しますから、何度来て見ても新しいものが見られる。それが楽しくて同行していました」
 たま子が「地下室」と言ったところで、吉川と敏樹は目を合わせた。やはり、地下室はあるのだ。
 たま子は話を続ける。
「私自身、ただそのつもりで来ておりましたが、独学もしておりましたから、気付いたら、フランス語は理解できるようになっていました。話すことはできないけれど、聞いていると、何を言っているのかはわかるようになっていて、私自身、驚きました」
「ここでのみんなの会話は聞いていた、ということですね」
「聞いておりました。全部は聞き取れないし、何か難しい話をされておりましたから、完全には理解できませんでしたけれども」
 細谷たま子は目を逸らすようにして海の方を見た。本当は完全に理解できていたのではないか。
「真美子さんも、子供の頃から、ここに来ていたのでしょう?」
 敏樹は思い切って言ってみた。「真美子さんのご両親と一緒に」
 予想通り、たま子は大きくうなずく。
「彼女はまだ幼児と言える頃から出入りされていて、小野山先生は画家でいらっしゃいますから、よくデッサンをされていました。真美子さんはいつも眠ったまま自家用車で来られて、パーティの途中で目覚めるせいか、ここをご自宅だと勘違いされていました。両親が自宅に人を招いてもてなしているのだと。それでそこに来ている人たちは両親が招いたお客さんだと思い込んでいらっしゃいました。ご自身の家にも似たような部屋があったのかしら。大人に向かって『ここにお座りなさい』とか言って、椅子を指さしたりして。その幼さもかわいらしくて、フランス語の会の人たちの人気者でしたの。幼かったし、もちろん、当時は改築する前の建物でしたから、後で小野山と結婚してここへ来られても、当時のフランス語の会の場所だとは思っていなかったようですけれど」
「小野山総一郎は画家だったのか」
「ご存知ありませんでしたか。球体関節人形の制作もその一環です。画家というよりも美術家と申し上げた方がよいのかしら。フランスではそこそこ有名な美術家です」
 たま子はまるで自身の息子自慢をする母親みたいだった。「真美子さんのことは、まるでご自身の子供を愛しく思うような調子で、大切に描いておられました」
「だけど、最終的には結婚されたのですよね」
 敏樹は言いにくいところを切り出してみた。
「それは慈悲でしょう。きっと」
 たま子は眉をひそめながら、ひそやかな笑顔を見せる。「どういうわけか、真美子さん、途中でご実家を飛び出して、品のいいとは思えない服を着て巷を歩きまわるようになっていたと聞いていますから」
 敏樹は驚いて吉川の顔に視線を向けたけれど、表情ひとつ変えていなかった。吉川の愛していた頃の真美子を侮辱されたと思って怒り出すのではないかとひやりとする。
「ところで、フランス語の会の人たちは、どんなことを喋っていたのですか?」
 敏樹は急いで話を切り替えた。「日本語で話すことが難しいような、濃厚な内容を語り合っていたのでは? 先ほど、よく理解できなかったと仰ったけれど、そうでもないでしょう? たとえば、神隠し事件のことを話していたとか」
 たま子は、ふふと笑って、「そうかもしれません」曖昧な言い方をした。
「何かご存知のことがあれば教えてください。その会で話されていたこと」
「その会で話されていたことは、大したことはありません。ですが、仰る通り、神隠し事件のことは頻繁に話題に出ていました。事件に遭遇した人から話を聞いてみたいから紹介してくれないかというような、やり取りがなされていました。実際、そういうことで、祖母は結婚したようです。人間であって、人間ではないような、妖精のような美しさを持つ人を妻にしたいと申し出た人が居て。そんなのって非人道的だと思われるかもしれませんが、女が自由に恋愛して、自由に結婚できるようになったのは、ほんの最近のことでして、こんな状況でなくても、何か親同士の取引のように、結納とか言って金銭のやり取りもあって、人身売買のように結婚していくことが昔は当たり前のようでしたから、恥ずかしながら、当時は私自身、それほど不謹慎な会話だとは思っていませんでした。とは言っても、祖母のように、神隠し事件に遭遇した後にも子供を産んだのは珍しいらしく、普通は結婚しても感情のやり取りはあまりなく、同居人のようにして暮らすのが通常だと言っていました。それが男たちの悩みの種でした。私が聞いているとも知らずに、あの男たちはフランス語でペラペラと、全く品のないことばかり話しておられました」
 スカーレットを演じるビビヤンリーのように片方の眉を上げて、「男たち」を見下した表情を見せる。
「じゃあ、たま子さんは、マレビトということになりますね。生まれるはずのない者から生まれた血を継ぐ」
 敏樹は半分冗談のように言ったのだが、
「そうです。私はマレビトです」
 たま子は真面目な表情でそう言った。「それに、祖母も、母もマレビトです」
「たま子さんにご兄弟は?」
「私に兄弟はいませんが、祖母は母だけではなく、他に五人の子どもを産みました。全部女の子。それぞれに一人か二人、子どもがいるそうですけれど、散り散りばらばらで、私はもういとこたちとは連絡を取り合っておりません」
 なるほど、マレビトはたくさん生まれているようだ、と敏樹は思う。「あなた自身にお子様は?」
「います。女の子がひとり。その子はもう結婚もして、珍しく男の子を生みました」
「神隠し事件のことで、何かお祖母さまから聞いた話はありませんか。この辺りで起き続けている、この不思議な事件について。僕たちは、真美子のことがあってから、密かにですけれど調査しています」
「いろいろと知っていることもありますけれど、あなた方がもう調査済みなのではありませんか? 私はほとんど世間と接触を断って暮らしていますから、あの事件が世間でどう言われているかも存じませんし、私は、被害者の子供の子供ですから公機関の調査の範囲からは漏れてしまって、誰かが真相を尋ねにくることもなく、私の知り得ていることが、特に新しい情報かどうかはわかりません」
「何かご存知なのですね」
 吉川と敏樹は同時に言った。「話してもらえたらありがたいですけれど」
「よろしいですわよ。誰に口止めされているわけでもございませんし、ただみんなが私のことを何も知らないだろうと、盲点のように無視していただけですから。知っていることを話したからと言って、特に問題があることもございませんの」
 たま子はワインクーラーからロゼワインのボトルを取り出して、それぞれのグラスに注ぎ足した。

 ――お二人は、ご存知かしら。恐らくご存知ないでしょう。
 先ほど申しましたように、お二人も関係していらっしゃる神隠し事件では、いなくなった人は一夜で戻ってくるものの、その後はまるで別人、妖精のようになってしまって、昔の人格は失われてしまっているということですけれども、実を言うと、本当はもっと深刻なことがある。
 というのも、神隠しに遭遇したまま戻ってこない人々もたくさんいるそうです。どうにか戻ってきた人の二倍以上はいるのだとか。公にはされていないことだと思います。
 いきなりだったかしら。ですけれども、この建物に集合してくる会の人たちのフランス語を用いて語られていた話の中で、もっとも秘匿されていたのはまぎれもなくこのことです。つまり、本当の問題はこちらの方だと思われます。
 もちろん、世間では私たちが知っているあの神隠し事件じゃなくても、ふっと姿をくらましてしまう人だっているわけです。何かの悩みを抱えて自死する人もいる。だから、そもそも、どこかへ行ったっきり帰って来ない人たちの全てがこの事件と関係しているわけでないことはわかっているのだけれども、この神隠し事件に遭遇したまま、どこかへ行ってしまった人がいるということも、また明白な事実のようでした。
 どうして、フランス語の会の人間にそんなことがわかるのだと思われるでしょう? 私もそうでした。最初はフランス語自体よくわからないし、ひょっとしたら私の聞き間違いなのかしらと思っていたのですけれども、何度か聞いているうちに、やはり、どうやら、そういうことを言っているらしいと分かってきた。そして、神隠し事件に遭遇したままどこかへ行ってしまった人のことを、彼らはフランス語で「echec失敗者」と申しておりました。
 会の方々にとっては、その人達がいなくなったのは他の要因によって生じた誘拐や拉致ではないことがはっきりしているようで、どうしてそうだとわかるのかしら、そんなこと言えるのかしらと疑いながら、全く聞いていないふりを装いながらもじっと耳を傾けていました。もしも彼らにとって頭からはっきりと、どのような人々が神隠しに遭遇したのかを把握することができ、そして失敗して戻って来なかったり、あるいは成功して妖精のようになって戻ってきたりするのだと、あらかじめ想定されているならば、そんなのって、故意の犯罪みたいじゃありませんか? たとえ手を下さなくても、知っていて知らないふりをしているのなら、傍観の罪でもあります。
 もちろん、たとえ結果的に妖精のようになってしまうのだとしても、少なくとも成功して戻ってくることが明白であるならば悪意の犯罪とは言い切れず、同じようなことは教育や宗教、何かとの出会いなどの影響によって誰にでも起こり得ることだと言えますけれども、何か意図的に、結果としてこの世からいなくなってしまう可能性を含んでいる変容体験を強要したというのであれば、それは道徳的な問題だけではなく法律上においても許されないことでしょう? 
 このフランス語の会の人たちが率先してそのような、犯罪めいたことを脈々と行い続けてきたのだろうか、祖母もその被害者だったのだろうかと思いながら、必死で言語を理解しようとひたすら耳を傾けておりました。段々とわかってきましたのは、彼らは観察しているだけで、その主導的な組織は国外のどこか、それも一か所ではなくばらばらと散らばった形で存在し、互いに連絡を取り合って、彼らの言う「実験」をやっていることです。そうです、日本にいて観察している名目上のフランス語の会の彼らは、それをフランス語で「実験」と言っていた。
 ばらばらと散らばっている主体はどうやって連絡を取り合っていると思われます?
 お二人は携帯電話というものをお持ちでしょう? すっかり当たり前のように使っておられると思いますけれど、私が子どもの頃であれば、そんなものは一般には出回っておりませんでした。初めは呼び出し式の電話、次にダイヤル電話、そしてプッシュホンです。それから、ポケベル、特別な人だけは大きな無線電話を持ち歩き始めました。けれども、彼らの話を聞いていて気付いたのは、実際に携帯電話という様式のものがこの世界に存在し始めたのは、市場に出回るずっと前のことだということです。ある場所では江戸時代や、もっと前から、そんな機械は使われていたのです。そんなの当たり前ですわよね、まずは何かのトップ組織が開発して、彼らだけで便利に使い、私たちのような下々を管理する。冷静になってみれば、そうではないと考える方が無理のあることでしょう? それよりもっと便利なものが出来たり、スパイに潜り込まれて私たちのような次元の人間に便利品の存在がばれたりしたら、そこでやっと、下々に売り始める。市場に出して行くのです。ですから、今の時点で、たとえばテレポーションなんて当たり前にできるのかもしれません。
 そんなわけで、各地に散らばっていると思われる「実験」の本体は、何百年もの昔から携帯電話やテレビ電話を使って連絡を取り合って、神隠し事件、つまり妖精づくりのようなことをやっているようでした。宗教でもない、フリーメーソンのような秘密結社でもない、明確な教育機関でもない。法律上で明記されるような集団ではなく、よくて「それに準ずるもの」に入るか、入らないか、という辺りの曖昧なものでしょうから、当局では捜索しようがないでしょうし、血が出たり肉片が飛び散ったりするようなスプラッターな出来事も起きませんから証拠もない。改ざんしたとして叱られるような正式文書も残す必要がないので、そういった表向きのファイルもない。「戻って来た人々」に関しては、なんとなく形骸化した感じで、慰め程度の調査会が家族を中心に継続されていますが、あれだって、そのようにして、何か少しでも対策を取っているという満足感を与えることが実際の目的であり、本気で何かを追求するものではありませんでしょう? 「実験」をやっている本体のことは、決して調べようがないのです。「宇宙人」なんて言ったりは、するのかしら。
 じゃあ、どこにも文献は残っていないのか、というと、そういうわけではなく、ございます。ある場所に、ある形で。
 とにもかくにも、お二人が知りたいのは、どんな実験がなされているのか、ではないでしょうか。それで、たとえばLSDのようなものを使って変成意識状態を作ったのではないか、とか、秘密の部屋に監禁してよからぬことをしたのではないか、とか、そう言った妄想をどこまでも膨らませておいでなのではないですか? しかし、もしもそういったことが実際に、被験者の了解を得ないままで行われていたとしたら、それは水面下のことだったとしても明らかに犯罪です。公に見つからなかったとしても、自分たちはただの犯罪組織なのだとして自覚しているはずです。そんなこと、彼らのようなある意味無邪気な性質をもった人々が、これは犯罪だと認めながら継続できるはずはありません。ですから、そのようなことはしない。少なくとも、お二人が追跡されているこの神隠し事件に関しては、そう言った法律上の明らかな過ちは行われていないようでした。それは、フランス語で語る彼らの話からもそう読み取れましたし、会で共有している文献からもそれはわかりました。文献というのは、正式文書はございませんが、さきほども申しましたように、ある場所に、ある形で存在しております。私自身、その文献を発見し、こつこつと読み解いてまいりました。お望みでしたら、お二人にもお見せすることもできますのよ。もちろんフランス語で書いてありましたので苦労はしましたが、発見した頃には随分と言葉が理解できるようになっておりましたので、それはもう貪るように読みました。むしろ、おかげでフランス語が堪能になったと言っても過言ではありません。そうするうちに、彼らがどのように「実験」をしているのか、ということが私にも分かってまいりました。
 実験方法は対象になる人のタイプに合わせていろいろとあり、一種類ではありませんが、たとえば、こういうのがありました。選ばれたターゲットにどうにかして古式の携帯電話を渡します。古式の携帯電話というのは、要するに、市場に降りてくる前に使われていた、初代の携帯電話ということです。仕事の都合とか、糸電話のようなお遊びのものだとか言って渡し、それで時々会話をする。どうということはない会話です。今日はいいお天気ですね、とか、冷えたトマトが美味しかった、とか。そういう会話は単なるお遊びですね。こういったお遊びをしているうちに、お互いの間に回路ができる。それはどういう回路かと言いますと、ピンとくるというもの。たとえば、知人から電話が掛かってくる前に、なんとなく掛かってきそうだと予感がする、という話はよくあると思うけれど、そう言った、虫の知らせが可能な関係のことです。そういう回路を作る。
 そうそう、昔、テレクラってありましたでしょう? テレフォンクラブに待機している女性が居て、そこに男性が電話をする。すると、親し気に会話を交わしてくれて、親密な関係になったような気分になれるというもの。十分間でいくらとかを男性がクラブに支払う。確か、女性は無料だったのじゃないかしら。そこでは少しくらいなら卑猥なことを言ってもよくて、寂しい男は電話する。女もする。そこには雇われたプロの人も混ざっていて、下にも置かない物言いをしたり、タイプによっては上から叱るような物言いをしたりして、不思議な精神上の満足を与えるのです。互いに顔はわからないから安心で、高額になるとは思いつつも、ついつい利用してしまうし、お金欲しさに主婦や学生が気楽に応対のバイトをしてしまい、ズルズルとその世界に足を踏み入れていく。その時だけのことだと思っていても。
 まあ、テレクラの弊害や仕組みは別として、会話のやり方としてはあんな感じですよ。古式の携帯電話を使って、顔を知らない者同士が会話だけであっても親密な関係を持つと、そこには案外太い回路ができる。テレクラのような卑猥なことを話したりするのではないのですが、ターゲットである被験者が、顔も知らない相手、つまり実験者と虫の知らせの関係になるような土壌を耕すように形成していきます。すると、彼らが言うところの「選ばれた」ターゲットというのは、そもそも勘がいいので、いつの間にか虫の知らせ以上のものをキャッチするようになっていく。いますでしょう、そういう、気配とか気とかを感じやすい性質の人が。そもそもそういう人が選ばれて、いつの間にか彼らの「被験者」となっているのです。そして、たまたま寂しさを感じたような時に、ふっと回線がつながって、「実験」が行える状態となるのです。
 で、ここからが少し変わっている。被験者の側では気付いていないのですけれど、要はテレパシーと呼ばれている明確なビジョンを受け取ることができるようになったと判断されたら、具体的にはどういったものかというのはその時々でいろいろですけれども、とにかく奇妙なビジョンを送るのです。例えば、鉛筆の芯を大量に食べるとか、ガマガエルがたくさんいる池の中に放り込まれて泳いでいるとか、本人にそっくりな人ばかりが百人いる観客席の前で歌うとか。
 どうかしら、こういうの。明確に犯罪ではありませんけれど、非常識でしょう? だけど、変だと気付かれないように、一瞬だけ、パッと送るから捉えようがない。本人も、それを見たかどうかわからない。一瞬だけ「アッ」となるだけで、あとは忘れている。そういうことです。ターゲットが、通常の人間としては受け入れ難いことを、知らないうちに少しずつ受け入れていくように仕向けるのです。で、その非常識な、狂ったようなビジョンの直後に美しい景色や温かい愛の世界のビジョンを送りつけたりすると、被験者の方では、パッと見せられた非常識なものを意識の奥底へと沈めると同時に、何か善なるものや快楽的なこととそれが、先端ではしっかりとつながっている状態を保つことになりますから、内的に自身ではよくわからないような大きな矛盾を抱えることになる。脳においてなのか、霊と言われるものなのか、意識なのか。それは私にはわからないけれど。
 そして、被験者の中で、たとえばよい宗教などが求める人間的な倫理や学校で学ぶような道徳の価値体系が少しずつ、崩壊していく。だって、鉛筆の芯を齧るなんて、なんだか感覚的に罪悪感があることだけれども、それと快楽的なことや幸福感が一人の人間存在の中でひそやかに結びついていくようにと仕向けているのです。徐々に、徐々に。それが、ある時、奇妙なビジョンを沈めている奥底のエリアがこれ以上は空きがなくなって受け入れられなくなったり、その結果、もうタブー感覚のほとんどない状態になったりすれば、それが最終段階となるという、そういう仕組みのようです。最終段階というのは、要はお二人もご存知の、あの妖精のような状態へと変化する段階のことです。会の人たちの中ではそれを「悟り」という言い方もなされていたかしら。もちろん、本式の仏教などが言う悟りとは別の話でしょうけれども。
 さて、先ほど申しましたように、彼らが「echec失敗者」と呼んでいる、最終段階まで進行しない人について、お二人はどう思われるかしら。「実験」の途中で、ふっといなくなってしまう。あるいは命を落としてしまう人のことです。そういう人も居るという事実について、何か感じるところはございませんか。もちろん、必ずしも彼らの「実験」の影響でそうなってしまったとは言い切れない。何も証拠はないですし、先ほど申しましたように、そのような「実験」に利用されなかったとしても、誰だってふいにいなくなったり、命を落としたりする可能性は充分にあるわけですから、なんとも断定はできません。ただ、「実験」のためにそうなってしまったのではないかと思われる人に共通しているのは、いなくなるための理由が全く見当たらないとか、どうして命を落としたのか全然わからないとかいったこと。そして、会の人たちの間だけでは、ああ、あれは「echec失敗」したのだ、とはっきりと共感できるらしいのです。
 と言いますのは、もちろんそもそもマークされていた人物がそうなったから、というのもありますでしょうけれど、そういった時には、必ず、この敷地内にある椰子の木林のある場所で白蛇が発見されるのだと言っておりました。それで、ああ「echec失敗者」は白蛇になった、というのが彼らのお決まりの落としどころで、実験が行われる前にも、そもそも本質は蛇だったに違いないと言って、そこはかとなく湧いてくる罪悪感をどうにかやわらげているようでした。
 本当にそういう時に毎回、必ず白蛇が出るのかどうか、ですか? それを断定はできません。でも、そういった機会に蛇を一度も見たことがないわけではない。確かに、彼らが、「echec失敗者」が出たぞ、白蛇は出たか、とやや面白げに言い合っているような最中に、私自身、椰子の木林で白蛇を発見したことがあります。いくらこのような山の中であったとしても、白蛇なんてそうは見ない。だから驚きました。私が見たのはちょうど五十センチほどの青白いもので、見間違いようがありません。椰子の木林ではインコの餌を昔の百葉箱のような箱の中に入れて置いて、できるだけ毎朝取り換えに行くのですけれども、その時は頼まれて早朝四時頃、椰子の木林に入って行きました。林には人が通りやすいようにと一応細い道もありますけれど、その両端には鬱蒼と生えている雑草の群れがありまして、秋には蟋蟀が棲息しますし、夏にはアマガエルも居て夜には盛大に鳴き声を出す。私が百葉箱風の餌箱へと向かおうと道を歩いておりますと、噂で聞いている白蛇がその雑草の陰からすっと現れて道を横切り、また、すっと逆側の茂みの中へと入って消えた。ああ、あれがみんなの言っている白蛇かと思って感動いたしました。怖くはなかった。むしろ、そのうねうねと体をくねらしながら静かに道を横切る様子は美しくもありました。
 人によっては二メートルほどあるものを見たとか、真昼に樹木に巻き付いているのを見たとか申しておりました。やはり、怖くはない、見とれるほどの気高い、光のような蛇だというのが共通の感想だった。だから「echec失敗者」が出たというと、密かに椰子の木林で待機したり、カメラを仕掛けたりして、白蛇が出現した証拠を押さえようとさえする。そして、そんな風に期待するからこそ、白蛇はおびき寄せられてするすると姿を現してしまうのかもしれないけれど、会の人々の間においては、ひとつの外れもなく必ず証拠は出るのでした。そういうことで白蛇ばかり撮影したアルバムも保管してございます。
 かつて勇者がおりまして、白蛇を仕留めたこともあります。彼の出来心で、掌で握れるほどの石をポンと投げたらちょうど頭に当たって即死した。これは、と思って虫取り網に入れて持ち帰り、会のみんなに見せたところ、白銀色に輝くうろこが美しくて龍のようだ、大した手柄だともてはやされて、写真だけでは物足りないということで、皆で剥製にしました。ご覧になりたければ、その剥製は今でも地下室に置いてありますから、後で案内してもよろしいですわ。でも、どうかしら、それほど縁起の良いものでもないのかもしれません。見ない方がよいのかもしれない。私自身は祖母が被害者で、お二人も仰った通り、ある意味マレビトであるせいか、遺伝子的に抗体でもあるのか、こういった一連の出来事で何が起きても、祟りのようなものを受けてひどい目に遭うことはなかったのですけれども、中には変わったことが起きるたびに、時々、祟りと言いますか、強いショックを受けてしまうお方もありました。実際、その白蛇を仕留めた方は、蛇の亡骸を剥製にした後しばらくしてお亡くなりになりました。そんなの、祟りだと言えば祟りだし、そうじゃない、偶然だと言えば偶然ですけれども、まあ、事実として、そのようなことはございました。
 ここに集まっていた会の人たちは、もしも自分たちや身内がそのような実験対象となったらどうしようか、というようなことも話していました。フランス語の会とは名前だけのことで、この「実験」を横から眺めて楽しんでいるのが目的の会でしたが、己の身に降りかかってくるのだけは真面目に困ると考えているようでした。私が被害者の孫だとは知らない人もいましたので、「見ているのは面白いが当事者になるのはまっぴらごめん」と言って薄ら笑いをする人もいた。こんなやつ、誰がターゲットとしてであっても回路を作るために選ばれたりすることがあるものかと思って、こちらからも冷ややかな眼差しを向けてはいたのですけれど、そうそう、そう言えば、お二人が関係しておられる真美子さんは、関係者の身内ですね。関係者の中で初めての被害者です。初めて、と言うか、最初で最後。
 真美子さんが二歳くらいになった頃から、彼女のお父様が「この子は心配だ」と仰って、どうしてと聞くと、「何かターゲットになりそうな予感がする」などと不安がられていました。それで、いつも目を離さないように傍に置いておきたくて、会のある日にも、わざわざ弱い睡眠薬で眠らせて自家用車に乗せて連れてこられた。彼女の姿が失われてしまうのではないかと、不安症のごとく心配されて、美術家として家に出入りしていた小野山先生に頼んで肖像画を描いてもらったり、ご存知の通り、銅像よろしく人形を作らせたりしました。小野山先生はフランスでの留学中に球体関節人形の制作を学んできておられましたから、その手法で人形を作られました。その頃の私の眼にはむしろ、お父様のそのご心配の様子こそ、狂気じみているように見えましたけれど、小野山先生は言われるがままに絵を描き、お人形を製作された。どうなんでしょう? あれは真美子さんが、というよりも、そのお父様がすでに何かとの回路をもたされていて、不安な状態に陥れられていたのではないかしら。そんな風に思えません?
 もちろん、真美子さんのお父様が心配されたのも当然のことで、最初に連れてこられたのは二歳になる少し前、それは他の事情があって偶然連れてこられただけですけれども、実を言うと何もないのに白蛇が出たというのです。「echec失敗者」が出た時期でもないのに。それも、気が付くとこのお部屋の窓に張り付いて。どこからどう辿り着いたのかわからないのですけれども、全長一メートルほどの白蛇が、あの青い海が見えるガラス窓をぬらりと這っていたとか。私はその時はおりませんでしたから、見ておりません。真美子さんと、お父様と、お母様と、小野山先生と、後二人ほどが見たということで、大騒ぎになりました。ガラス窓の向こう側を這っているだけですから、こちらに向かってくるというような危険はありませんけれども、お母様は驚いて悲鳴を上げたそうです。ところが、真美子さんはお母様の悲鳴を聞いても蛇を見ても驚きもせず、ガラス窓の方によちよちと歩いて行って、白蛇が這っている腹をガラスの上から叩いて笑ったというので、お父様が青くなった。だけど、子供って、そういうところがありますのよ。もちろん、初めから生き物を怖がる子供もいるでしょうけれど、たとえば大きな犬を見ても恐れないで近付いていく子供もいないことはない。だから、真美子さんのその行動が全くの異常だとは言えません。でも、お父様は何か、それだけで心配になられて、だとしたら、普通に考えればむしろ、ここには二度と連れてこないとなりそうなものですけれど、どうしてかしら、反対に、ずっと彼女を連れて来られた。そして、同じ光景、つまり、白蛇がガラス窓を這い、真美子さんがそこへと接近していった光景を一緒に見た小野山先生に心の支えになってもらおうとして、絵画や人形製作を依頼したわけです。小野山先生も快く引き受けました。
 それで、結果的に、お父様のご心配の通りになったのですから、心配こそがそのような事態を引き寄せたとも言えますし、運命論者ならば、やはりそうなるべくしてなった、最初からターゲットとして選ばれる者はある程度決まっていて、何か、本人たちが注意していれば気付くような兆しがあるに違いないと、考えないわけにはいきません。
 いずれにしても、真美子さんの件は、全くの他人ではなくて、自分たちの身内がそうなったのだから、私としてはこれまでとは違った感じがしました。ご存知だとは思いますが、その神隠し事件の時には真美子さんのお父様もお母様もお亡くなりになっていて、身近な血縁と言えばお姉様だけになっていた。しかし、お姉様はここでの会のことはご存知ありません。お姉様は一度もここへは来られなかった。聞くところによると、行きたくないと仰っていたそうで、それもある意味正解だという気がしなくもありません。君子危うきには近寄らずと言うじゃありませんか。
 真美子さんが神隠し事件に遭遇し、そして戻って来られた時には、フランス語の会のメンバーはほとんどいなくなっておりました。どうして? ですか? さあ、わかりません。とにかくいなくなっていたのです。小野山先生が正式に建物を相続された後、改築をするからと言って長い間お休みにして、再び開放する時には連絡しますと言ってそのままにしたのではなかったかしら。ですから、ひょっとしたら、他の場所で継続されているかもしれませんが、私たちはもう参加していないので把握していません。小野山先生と真美子さんは美術家とモデルとしての関係がございましたから、彼女はここに通ってこられていましたし、ご存知の通り、ご結婚もされて、それからも芸術的関係は継続し、私は建物の管理を継続し、という、何か不思議な、これまでの続きだけれども静寂に包まれているような、静寂に包まれているけれどふつふつと矛盾があるような、けれども、やっと辿り着いた穏やかな生活が長く続けばいいと願いたいような、不思議な時間を過ごしておりました。考えてみれば、あの時既に、真美子さんは知らない間にターゲットとなって、「実験」の主体からの影響を受けていたのです。全く気付かなかった。そして、ある日突然、事件に遭遇されたのです。
 ですから、この場所において、真美子さんが神隠し事件に遭ったことを知っているのは、小野山先生と、あなた方お二人と、『Q村神隠し事件研究会』の人たちと、私だけでしょう。
 かつて、私がこの会の人々に関して、もっとも首を傾げたくなったのは、ターゲットとなってしまった人たちが、ひょっとしたら「echec失敗者」となって命を落としてしまうかもしれないと知っていながら、こういった行いを止めさせる手立てはないのかと思案するのではなく、興味本位で横から眺めていることでした。それは身内じゃないからでしょうか。ずっと若い頃の私は一人の人間が死ぬかもしれないと思ったら、何を差し置いても助けようとするのが当たり前だと思っておりましたから、それは驚きでした。そうなのか、生きていくということは、それほどまでに過酷なことなのだと、私は私で初めて世間というものをここで悟りました。世間とは獣たちの住処だったのです。
 家庭や学校の中では「やっていいことと悪いことがあるだろう」なんてお説教がありましたけれど、そのはずが世間ではそうじゃないのだ、と彼らを見ていて思った。もちろん、そのような人間ばかりではありませんでしょう。彼らのような輩は少数派で、人間という域に達していない別の生き物だと言ってもよいのかもしれませんが、先ほども申しましたように、私はマレビトゆえに却って彼らの生活空間に保護されて生きておりましたから、冷静になれば恐ろしく狭く、彼らだけが世界の人間のように見えてもおり、人間ってそういうものなのね、という虚無感に苛まれていたのです。もちろん、彼らは事件を横から観察していただけです。実際に実験をやっている首謀者ではありません。ですが、首謀者たるネットワーク的な組織とのつながりはどこかに明確にあって、代々それを娯楽よろしく眺めている輩であることは間違いないようでした。みなさま「実験」のために必要な資金を提供していらっしゃって、それで、まあ、そう、テレビドラマのスポンサーにでもなるようにして実験の経過を追っていたのです。ですから、考えようによっては、何か能力があるからとか生活のためにそうなってしまったとかいう実践者の方よりも、スポンサーとしての彼らの方が、本件の主体であると言えなくもない。
 ある時、私はこの部屋で小野山先生と二人になることがありました。先生は「どうして、君はここに通っているのか」と聞かれました。
 どうして、ここに通ったのか。それは、祖母が神隠し事件の被害者であり、その祖母を妻にした祖父はそもそも会に参加していた男ですから、その縁もあって、私も真美子さんのように幼いころから父と同行してここに来ていたと、小野山先生には隠し立てせず、理由を申しましたら、先生は驚かれた。私の祖母が神隠し事件の被害者であることを既に知っている人もいたけれど、あまり表立っては話していなかったから、ご存知なかったようでした。そして、「みんなには内緒にしておいた方がいいですよ。要らぬ興味を向けられるから」と仰いました。
 小野山先生は、その頃から、独自にこの事件に関して調査研究するようになっていかれました。ターゲットになってしまった後、「echec失敗者」となってしまう人と「成功者」として「悟り」を開く人が出てくるのはどうしてか、ということです。「echec失敗者」は「成功者」に比べて、そもそも性質として心が弱いとか、生まれ育った環境の中に失敗する要因があるとか、そのようなことだろうかと考えて、ターゲットのファイルを調査したり、会の人に積極的に話を聞いたりしておられました。でもなかなかわからない。そこで、私には祖母のことをいろいろと聞かれました。祖母の両親のこととか、兄弟のこととか。また、どのような教育を受けたのか、とか、海外旅行の経験はあるのか、とか。私はほとんど何も答えられませんでした。ただ、一点だけは答えられた。
 祖母はあの年齢で珍しく、珈琲を愛好していることです。それも、ずっと子どもの頃からだという話です。普通はお茶でしょう? 何か祖母の出自が珈琲を入手できるほどのハイカラ貴族の末端みたいなものだったとして、当時、日本茶以外のものを常飲すると言ったって、だとしたら紅茶じゃないかしら。そんなの偏見かしら。珈琲は高価なものだったかもしれないけれど、煙草やお酒と同じ類で、どこか退廃的な感じのする嗜好品のように思われる。それも、当時は殿方専用といった空気だったはずです。だけど、祖母はどこで手に入れてくるのか、いつも珈琲を飲んでいた。今時のおしゃれな淹れ方ではなく、挽いた豆を土瓶に入れて熱湯を注ぎ、時間をおいたら濾して、そしてチマチマと飲む。祖母の部屋からはいつも珈琲の匂いがしていました。
 小野山先生にそのことを申し上げましたら、興味を持たれて、その調査を始められました。最後まで貫通することのできた「成功者」には珈琲を愛飲する者が多いのではないか、という仮説を立てて、その因果関係を突き止めようとされました。すると意外なことに、全員がそうというわけではありませんでしたが、その傾向はみられたらしく、先生は喜んでおられた。ターゲットとして不本意にも選ばれてしまい、最終的に妖精の如くになってしまうことが「成功者」と呼んでしかるべきだとは思いませんが、少なくとも、行方不明になってしまったり、命を落としてしまったりしなかった「成功者」達は、そうでなかった人よりも有意に、珈琲を飲んでいたことがわかったのです。それで、先生は御自身でも珈琲を飲むようになられました。予防のためというよりは、珈琲が身体に及ぼす感覚を体感しておこうと考えられたようです。私にもよく勧めてくださいました。もちろん、真美子さんにも少しずつ飲ませていらっしゃった。真美子さんとしては珈琲をお嫌いだったようですけれど、一口でも飲んでおきなさいと言って、飲ませていらっしゃった。
 そのように、先生と真美子さんと三人でよく珈琲を淹れて飲みましたが、どうして、珈琲を飲んでいれば「成功者」として生き残り、消されずに済むのかは明確にはわかりませんでした。でも、もしも言えるとしたら、珈琲によって引き起こされる覚醒状態が関係しているのではないかしら。
 広い範囲で検証したわけではないので、それが普遍的に正しいかと言うとわかりませんが、珈琲の軽い覚醒作用が、この私たちが関わってしまっている神隠し事件における「echec失敗者」にならずに済むためによい影響を与えていると、言えなくはない。実験者がターゲットである被験者に送り込むとされている、なにか最終的で、ある意味決戦とも言える致命的なビジョンを、珈琲の中にある何らかの成分がブロックして脳に入れなかったという可能性が考えられるのです。科学的証拠は全くございません。でも、昔から、珈琲でなくても出掛ける前には朝茶を飲んだり、お香を焚いてお仏壇に手を合わせたりしますでしょう? 近頃ではペットボトルでお茶も買うようですが、実際にお湯を沸かしてお茶を淹れて飲むというのは、ひとつの儀式でもありますし、やはり香が違います。淹れている段階で香の成分が空気中に発散されていき、それを吸い込んだ人の血中に取り込まれて、脳の中にも沁み通っていくのではないかしら。そのことが霊的な守護になっていた、とか。そういう意味では珈琲と言いますのは、本当に強烈な香りがする。ミルで豆を挽いて、ポットにお湯を沸かしてドリップで濾して珈琲液を抽出しますと、そこら中がその匂いでいっぱいになる。そして、体中の細胞にも香りが染み込んでいくような気もする。この辺りで起きている神隠し事件のように、一人のターゲットに対して、強力なエスパーとも呼べる宇宙人みたいな人が数人で奇妙なビジョンを送り付けるような出来事の場合、淡いお茶ではなく、濃い珈琲の香りでなければプロテクトできなかったのではないかと考えてしまう。私の祖母は、あの年齢で珍しく珈琲を愛好しておりましたから、最終的なビジョンをも見事に防御して、マレビトとなったのかもしれません。もちろん全て、推測の話に過ぎませんけれど。
 各国に散らばっている実験の主体である、強力なエスパーたちのことですか? それらと会ったことはあるのかと? そうですね、あると言えばある、ないと言えばない。というのも、当然と言えば当然ですけれどもエスパーは「私がエスパーです」と言って現れたりしない。知らない間に出会って、知らない間にお別れしているかもしれない。見分けはつかない。
 でも、こういうことがありました。喫茶店でお茶を飲んでおりましたら、親子連れが目の前の席に座った。ベビーカーに乗った赤ん坊と、父親と母親です。母親の方は茶色く染めた髪の分け目の辺りが黒くなっていて、随分美容院には行っていないのだろうという風貌でした。服装も色あせたTシャツとGパンです。そして、ぐずっている赤ん坊を必死であやしている。ところが父親の方は綺麗にパーマをかけたのだなというヘアスタイルで、栗色に染めたばかりといった風だった。アイロンしたシャツとコットンパンツ。そして、赤ん坊や母親の方には見向きもせずに、おしゃれなスケジュール帳に何かを書き込んでいました。テーブルにはスマートフォンと、耳にはイヤホンです。母親の方の生活疲れに対して、父親の方の小奇麗で優雅そうな様子。私はそれを見て、なんだか腹が立って参りまして、(このダメ男め、たまには妻を手伝って赤ん坊の世話でもしなさいよ)と心の中で思っていたら、ちらっと私の方を見て、にやっと笑い、イヤホンをピッピッと両耳から外して、赤ん坊の頭に手を伸ばし形式的に撫で、「よしよし、泣くなよ。パパだよ」と言い、また私の方を見てニヤッとしました。そして、またイヤホンを耳につけた。ああ、これは地球人ではないな、と思いまして、私はそっとその場を離れました。母親は気付いていないのですよ。自分の結婚した相手が、言葉を話さなくても意志の通じるエスパーだということに。それで、自分だけは必死になって子供の事や家の事、あらゆる地球上の仕事をやっているのです。これが不幸なのか、幸福なのかはわかりません。結婚せずに一人でいたって、彼女はいろいろな仕事をするでしょう。
 宇宙人と言ったって、どこかの星から物理的にやって来たという意味ではなくて、エスパー的な言語、脳波による言語を操れるという意味。そして、地球人はある程度、訓練によってそういう宇宙人的な状態になれるのではないでしょうか。一説では、誰でも赤ん坊の頃にはそういうことができるのだけれども、周囲から聞こえてくる言語を学んだり、テレパシーなんてあり得ないと教育されたりしているうちに、段々と鈍くなって、言葉にしなければ通じ合わないと思い込んでいくのだとも言います。だから、そういう意味では、生まれた時には誰でも宇宙人。
 まあ、そのような能力を保持できているか、後から開発できた人々がいたとして、地球に住んでいる人間の中から素質のありそうな人を見つけてターゲットとし、何らかの開発をして、新しい資質を持った人類を作ろうとしていたとしても不思議ではありません。そんなことを無理やり行うなんて非常識な、と思う事は思うのですが、ある種の英才教育なんてものは同じようなことでしょう? そこで芽を出してマレビトとなってもてはやされるのは一部の人で、ほとんどはそうはならない。二倍どころか、何倍もの「echec失敗者」を輩出して気にしないわけです。成功者になれなかったことを気に病んで自死してしまう人だって実際にはいるわけですが、そのことで罪悪感を覚えたりはしない。彼は心が弱かったのだ、と思うだけ。そんなの人間のすることかしらと思うけれど、むしろそういう無情なことが人間のすることでしょう? 
 それにしても、彼らは妖精のような人間を作り出してどうしようというのでしょう。奴隷にしようという悪だくみにしては、結果的に特別働き者になるわけでもない。単に、癇癪を起したり、いろんなものに対して叱ったりはしないから、見るだけならば美しい菩薩のようだとも言える。感情の起伏はなく、穏やかで、いつも、そうそう、アルカイックスマイルを浮かべている。そういうことを求めているのかしら。確かに神隠し事件の被害者で、きちんと戻って来た人のことを「悟り」と言うのは、さきほどもお話しました。
 あんなものが悟りですか? だけど、そもそも、例えば、自力本願の仏教なんかでは「我々はそう簡単に悟らないと悟る」のでしょう? だからこそ、もう悟ったから修業をしなくていいと考えるのではなくて、今日もまた、昨日と同じように修業をする。その姿が既に仏であり、汚らわしい人間だったものが、苦しい修業を乗り越えたら立派な仏になるというものではない、と言われる。私もその考えに賛成です。そんなに簡単には悟らないのだと気付いておくことが悟りというか、言葉使いが矛盾しているというのなら、それが覚醒しているということじゃないのでしょうか。哲学でも、無知の知と申しますでしょう? 大切なのは何も知らなかったのだと知ることです。
 意図的に創られてしまった妖精みたいな生命体はどうなのでしょうか。それ自体、救われているのか。私はそうとは思いません。通常の人間が持ちうる違和感とか怒りの感情とか、そういった波打つものを全て失ってしまったら、小野山先生や吉川さんが作っていらっしゃるお人形と同じじゃありませんか。子どもの頃にペットのようにかわいがっているぬいぐるみを見て、ああ、これが生きてお話をすればなあ、と考えたことはありませんか? まさか、その願望が叶ったのです。息をする究極のお人形。だけど怒ったりはしない。ああ、おぞましい。お人形に人工知能を搭載して人間のようにしたのではなく、人間から感情を剥奪してお人形のようにしてしまったなんて。
 ですから、神隠し事件の実験をしている本体は、何を求めてそんなことをしているのか、私にはわかりません。そうそう、それはインコの剥製を作るようなものでしょうか。ただ意味もなく、外側の、客観的に美的な姿を変容させず、カチッとこちらの願望通りにとどめておきたいという。
 確かに、小野山先生はそう仰ったのです。
 ある時、小野山先生は椰子の木林の中に入って行って、黄色いインコを一羽捕まえてきました。まだ真美子さんと結婚される前だったでしょうか。そして、それを剥製にすると言い出されました。そんなことは考えられません。先生にしては野蛮なことをする、きっと何か気の迷いだろうと思って、私はやめた方がいいと必死になって止めました。実際、白蛇に殺生をしてしまって、剥製にした後、祟りかどうかわからないけれどもお亡くなりになってしまった人もいるのだし、インコだってちいちいと鳴いている命ですから、無理に剥製にするだなんてそんなこと、絶対にやらない方がいいと。だけど、なぜかその時の先生は人が変わったように向きになって、「こちらにはどうしても事情があるからやるんだ」と言って、私の言うことなど聞かずに、まだ生きているインコを剥製にしてしまわれました。そして、それを鳥籠の中に入れて、「これが、彼らの言う、悟りだ」と、吐き捨てるように仰ったのです。彼らとは、「実験」の主体である人々と、そして、それを興味本位に観察している会の人々のことでしょう。
 あの時、先生の中で何が起きたのか、私にはいまだにわかりません。表情も険しく顔色も土色に変化してしまっていて、語調もいつもの穏やかな調子ではなかった。怒りに震えているようにも見えるけれど、何か単なる怒りでもない。怒りと絶望が混ざり合ったような、動かしがたい苦悩。しかし感情が荒れているわけでもなく、先生の内側でよからぬ決意へと変わっていくような。これまでには柔らかかった魂が、ブロンズ色に変色し、押しても突いてもしなやかにこちら側を受け入れることのない、凝り固まった怒りです。
 あの頃から、何か小野山先生は変わってしまった。あのまま、もともとの先生には戻らなくなってしまった。ですから、恐らく吉川さんがご存知の小野山先生は「その後の先生」ということになります。かつて、生き生きと絵画や美術製作に燃えていらっしゃった、また、事件のことにも正義の心で立ち向かっていらっしゃった、あの頃の先生ではありません。先生こそ、何か、突然何者かにビジョンでも送り込まれて、変容させられてしまったのではないかと思わずにはいられないほど、くっきりと、インコの件の前後で別人のようになってしまわれたのです。そして徐々に、「その後の先生」はどこか、心の奥底でいつもにやにやしているような、嫌な諦観をじっと握り締めているような、どこかにいるお金持ちの道楽人みたいになられてしまった。
 ああ、どうしてかしら、吉川さん、あなた、何かご存知ないかしら。
  (第四章 了)》

※ここまでの解説
 あらすじ。
 敏樹は吉川の許可を得て真美子の撮影をした。そこで小野山総一郎が描いたと思われるデッサン帳を小野山のアトリエに探しに行きたいと思う。
 敏樹と吉川は小野山総一郎の家に向かい、(その途中で動物公園の前にいるモルモット占いのことで互いに同じ記憶を持っていることに気付いた。敏樹とその母親はその件に関しては違う記憶を持っていることもわかる。)二回目の訪問で管理人である細谷たま子ら神隠し事件に関する話を聞き出すことに成功した。

 
 この章は長い。真美子を撮影する箇所と、小野山総一郎の家で起きたことを分けた方がよいのかもしれないが、一応、四章としてひとつにまとめた。ちなみにボウヤ書店では第飛章となっている。これは続編の都合でこうなった。いずれ続編もこちらに出力するのでその時に確認してほしい。
 
 さて。もちろんこれは新型コロナウイルスのパンデミックが起きる前に書いた物語だ。しかしなんとなく予言書となっていると直感して、当時ネットにダイレクトに出力したことは何度も説明した。
 特に、この細谷たま子の語りは「妖精」が「(PCRの)陽性」とも音がリンクするし、当時の民衆の不安感と一致している。(前章で山岸の妻が一時的に訪れていた「新田郡」の施設は、陽性者を一時的に隔離する場所のようにも思えた。もちろん演奏会などには行かないが。)
 ここで、私は「珈琲」の話題にフォーカスしていくことに自分で気付いた。この章までは神隠しに遭遇した人は一夜で戻って来るが人格が変容しているといった情報だったが、細谷たま子の語りにより、戻って来ない人もいたとわかる。そして、戻ってきた人の中には「珈琲」を飲む習慣があった人が有意に多いとの設定になっている。
 特に珈琲を宣伝したいわけではない。いつもの制作技法の通り、降りてきたものを書き取って校正推敲しただけだ。しかし、新型コロナウイルスの症状として血栓が作られて状況が悪くなることが報道される中、予防的に珈琲を飲むことはよいのかもしれないと、当時ひらめいたものだった。

つづく。

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