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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-外伝-10

長編小説『路地裏の花屋』外伝『ツツジ色の傘』読み直しつづき。

《第四章 小鉢の揃え
 店はL字型になっていて、入り口からは見えない位置に丸テーブルと椅子が四つ置いてあった。さらにその奥には一段上がって畳の部屋があり、女はその部屋でお茶を淹れた。
「この位置から会計机はよく見えないが物騒ではないのかな」
 最も奥に座った模糊庵は首を伸ばして玄関の方を見ようとした。
「たくさんの金銭は置いたままにしておりませんし、会計机の前にあるからくり時計に防犯カメラが仕込まれていて、誰かが訪れましたら、これに映し出されるから大丈夫ですの」
 お茶を淹れ終えた女はテーブルに着き、横にある棚の小さなモニターを指さしている。はがき二枚程度の画面で、それほど鮮明ではないが確かに入り口付近がパンフォーカスで映し出されている。なるほど、草子もこれに映っていたと言うのだろう。
 模糊庵は女がお茶を淹れて出した茶碗を手のひらに乗せた。
「ほお、九谷焼ですね。これは年代物でしょう?」
「やはりよくご存知ですのね。仰る通り、これは古いものです」
 中西の方はというと全く品定めは出来ないらしく、安物の湯呑でも持つように気軽な調子で器を取り、ふうんと軽く見た程度で無造作に一口お茶を口に入れた。うっと顔をしかめている。苦いのだろうか。眉間に皺を寄せて器を横からじろじろ眺めている。外側の価値よりも中身を美味しくしてもらいたいものだとでも言いたそうだ。模糊庵はひとつ咳払いをし、
「この久谷焼ですと湯冷ましもセットになっている類のものでしょうな。湯冷ましがあればまろやかにお茶を点てることができるのです」
 中西に小さく目配せをして微笑んだ。今度は中西の方が咳払いをし、
「それより、先程仰っていた小鉢の揃えとはどういったものですか?」
 話を前に進めたようだ。
 女は、お待ちくださいと言うと、木製の踏み台に上って、テーブル横の棚上にある木箱を降ろした。木箱は日に焼けて随所に染みが浮き上がっており、見るからに年月を感じさせる。
「これです。どうぞご覧になってください」
 ぎしぎしと木の蓋を押し上げて開け、中から白い薄紙に包まれているものを五つ取り出した。「よろしければ、お二人で薄紙を外すのを手伝ってもらえませんか」木箱を足下に置いた。
 三人で壊さないようにと丁寧に薄紙を外していく。器には白地に青で山波と雲を背景にした梅とホトトギスが描かれている。全てを円状に並べ終えると、
「これは古伊万里でしょうね。波佐見ですか」
 模糊庵は眼鏡をしっかりと掛け直してから小鉢のひとつを両手で包んで持った。顔を近付け模様を隈なく見る。
「恐らく有田だという話です。もうよく分からないくらい古い伊万里焼です。ちょっと変わっているのは、ほら、右側の梅の木に咲いている花の数が全部違いますでしょう?」
「なるほど」
 中西は二つ手に取って見比べていた。「これには三つ、こっちは五つ」
「ひとつだけ咲くものから、五つ咲くものまでがあります」
 女は花の数の順に並べ始めた。「本当でしたら百万は下らないという話です」
「本当でしたら、とは?」
 中西はもう一口お茶を飲んでやはり苦いのか顔をしかめた。
「その五つ以外に実際にはもうひとつあったので、価値が下がってしまいましたの。薄紙だけはもう一枚ここにあります」
 足下に置いた木箱の蓋をそっと開けて見せた。確かに何も包まれていない薄紙がひとつ入っている。「おかしいでしょう? 一枚だけ薄紙を残して中身は消え失せたなんて、御菊さんのお皿みたいで」ふふふと笑う。「実は私、この薄紙に包まれていたひとつを一度だけ見たことがあります」
 女はやっと一口お茶を口に含んで顔をしかめた。苦いことに気付いたのだろう。「淹れ直しましょうか」と言ったが、二人がこのままで構いませんと言うと、すみません、と一瞬顔を赤らめて、その奇妙だという出来事を話し始めた。
「この小鉢揃えは私の祖父が持っていたもので、戦時中に食べるものがなくて困った方が、農家を営んでいた祖父の所に来られて、お米と交換して欲しいと持ってきたそうです」
 中西は慌てて鞄からメモ帳を取り出そうとしている。
 模糊庵が慌てて話を挟んで時間を稼ぐ。
「昔はそのようなことがしばしばありました。逆の立場の話ですが、私の母親も反物とお米を交換したことがあります。二束三文という嘆かわしい結果だったと涙しておりました。だけど農家さんにしても、当時はみんなモンペで働いていて御時世的に豪華な着物なんて要らないわけですから、情けでお米を分けてくれたということなんでしょうなあ」
「立場が入れ替われば気持ちも変わりますのね。どのように優れた窯から出たよいものだと言われても、百姓ひとすじの祖父は焼き物のことはよくわからないし、農家と言ってもそれほどお米の蓄えもなく、断ったけれどもどうにかしてほしいと頼まれたそうです。それで、出来る限りの範囲で一升ほどもお米を測ってこれでどうかと提案したらひどく罵られたそうで、それなら帰ってくれと言うと、やはりそれはそれで困ると言って、いつか取りに来たらきっと返してくれ、と念押しまでされたのだと言っていました」
「情けで米を分けても鬼のように言われるし、いやはや、理不尽な思いをされたでしょう」
 模糊庵は中西の準備するペースを見ながらゆっくりと喋った。
「嫌な話ですれども、当時は誰でも鬼になるしか仕方がなかったと祖父は言っていました。小さな頃にそんな話を小耳に挟んで、私は器というものに興味を持ちました。家族で使っている普段使いの器以外に、宝石みたいに価値のあるものも存在することが不思議に思えましたの。子どもの目にはそれほど違いは分かりませんでしたけれど、この小鉢揃えの絵柄を初めて見た時、遠くの山や雲と手前の梅の木やホトトギスの配分がよくて、小さな器なのに広々とした世界があるように思えて」
 模糊庵は器をひとつ手に取って眺め、如何にもとうなずく。
「ただの縞模様とか版で押したような小花柄とはまるで違って見えました。家にはこの小鉢揃えしかよいものはなく、壊してはいけないからと、一度ちらっと見せてもらっただけですぐに仕舞われてしまったけれど、確かに六つあったことは覚えています。それで、余計に、あれがもう一度見てみたいと思い続けることになったのかしら。物置のどこかにあれがあると、子どものくせに執念深くそのことばかり考えていました」
 女は遠い記憶を探るように目を壁の方にぼんやりと向けた。「執着叶って骨董の勉強をさせてもらえる所に行くことが出来、今ではここでよい器に囲まれることになったのです」
 中西は記録を取りながらちらちらと目の前の器に目をやっている。
「お店をすると言うと、すぐにこの器をここへ持ってくることになりましたかな」
 メモの用意が出来たなら、そろそろ本題に入ってもいいだろう。「これほどのものであれば、家族といえども取り合いになったでしょう?」模糊庵は髭を撫でながら女を見た。
「私には兄がいますから、この小鉢揃えは兄が所帯を持つときにお嫁さんにあげようということになって、私はその頃には仕事でもっと珍しい物にも出会っていましたから、もう欲しいとも思わなくなり、最後にちらっと見せてもらっただけで満足して義姉さんに差し上げました。執着って、本来の願望が叶った途端になくなるものじゃないかしら」
 女は模糊庵に笑顔を返した。「ところが、私がこういった骨董を扱う仕事に携わるようになってしばらくして、義姉さんが、この小鉢揃えは繭子さんが持っていた方がいいわよと言って。あ、申し遅れましたが私は繭子と言います。岸野繭子。蚕の繭です。それで、兄に黙って私に譲ってくれたのです。断ったのだけど、値打ちの分かる人が持っていた方がいいからと言って、ここに置いて行かれました。押し付けられたようにも感じてそのまま棚に入れたのだけど、しばらくしてから開けてみると、こうやって、一枚だけ薄紙が半端に残っていることに気付きました。小鉢もひとつ無くなっている」
「ほお、繭子さん自身は、その義理のお姉さんが持って来られた時には中身は確認されなかったのですね」
「義姉さんったらいつもせっかちなのです。確かめる暇も与えずにじゃあね、じゃあねと言って帰られて、こちらもちょうどその時お客さまが来られていましたから、とりあえずと思ってそのまま棚に入れました。後で確認したらひとつなかった」
 記録を取っていた中西が一瞬書くのを止め、顔を上げて、
「後で、というのは、どれくらい後かな?」
 繭子の横顔を見つめている。
「三日後ですよ。正直あの時は器のことを忘れるほど忙しかった。瀬戸内の古い窯元で蔵から輸出用の食器がたくさん見つかったと連絡があって、いくつか店に置かないかと誘われていました。モノを鑑定しに行かなければいけなかったし、本当に時間がなくて」
「その瀬戸物を紹介してくれた人はお知り合いですか」
 中西はメモの方に目を移してペンを動かし始めた。
「知り合いと言いましても、仕事上の知り合いです。知り合いに買いなさいと言われたのだからといって、はいそうですかと買い付ける訳にもいかなくて、ひとつひとつ物を見ていましたの。特に謂れがあるものでもないから、欠けがないかどうか、使えるかどうかといった最低限の品定めになりますけれど。いくつか買いました。そしてすぐに売れました。手頃なお値段で出せるものでしたから。今ではひとつだけ残っています」
 繭子は立ち上がって棚からひとつ砂糖壺を取り出した。桃色の桜の和風絵柄を心掛けた西洋風の器という不思議な佇まいを持っている。普段使いに相応しい金の縁が華々しく光っていた。「かわいらしいでしょう」蓋を取って見せる。
「とにかく、そんなこんなで落ち着いた頃合いでやっと小鉢揃えを開けてみたら、ひとつ無かった。それで思ったのです。そうか、義姉さん、割ってしまったのね、それで私に託したんだ、というように。兄に言おうか、それとも、言うまいか。やはり黙っていた方がいいか、などと思って、仕舞っておいたのですが、考えてみたら、小鉢揃えって、大抵五つでしょう? 私の勘違いで最初から六つはなかったのかしら、この薄紙が余分に入っていただけかもしれないと思って、木箱を見ると、でもやはり後ひとつ分は入るスペースがありそうに思える。さて、どっちかなとも思うけれど、確かめようもない。そうこうするうちに、兄が義姉さんに『あの小鉢揃えはどうした』と言い出し、義姉さんが繭子さんに譲ったと言ったらしく、兄が返してくれと店に来ました。意外でした。兄がそこまで器に興味を持っているなんて。ひとつ無くなっていることを伝えようかどうしようか迷ったけれど、何も言わずにどうぞと渡しました。すると、案の定、ひとつ足りないと後で電話を寄こして、義姉さんが持ってこられた時からそうでしたよと言いましたが、そんなはずはないだろうと言われました。ね、まるでほんとに御菊井戸のお話みたいでしょう。私、義姉さんに濡れ衣を被せられたのかしら」
 繭子はやはりそこで、ふふふと笑ってからまた一口お茶を飲んだ。「あら、やっぱり相当苦いわね」顔をしかめる。
「お兄さんにお返しになったのに、どうして今ここにこの揃えがあるのですかな」
 模糊庵は小鉢のひとつを手に取って眺めた。
「ひとつ足りないのならもう要らないと兄が怒り出してしまって、あの時は困りました。それで別のものを差し上げたの。お仕事で入手した有田焼で、これよりは随分値打ちが下がるけれど、少しいいものですよ。ここに写真があります」
 棚からアルバムを取り出して頁を繰り始めた。
 繭子は熱心にアルバムの中の写真を見ながら、これも素敵でしょう、現代ではこういった釉薬のものは少ないのです、などと、他の骨董の写真の頁でもいちいち立ち止まって鑑賞し、その歴史などの話を始めた。適当に相槌を打っていると、骨董に興味のなさそうな中西は退屈そうに入り口の方をぼんやりと眺めている。中西の座っている位置からはどうにか会計机の手前と入り口付近まで見えるのだろう。しばらくするとモニターの方に見入っている。再び、えっ? と言って入り口の方を見て目をこすった。
「どうかされました?」
 気付いた繭子が中西に声を掛けた。
「蝶が一匹舞い込んできてふわふわとあの辺りを飛んいる。ほら、からくり時計の前辺り」
 模糊庵と女がテーブルから身を乗り出すようにして中西の指さす方を見ると、そこにはもう蝶はいなかった。
「もう出て行ったか。さっきは確かにいたのだけどな」
 中西は言い、「でも、このモニターには映っていなかったように思えて」ペンの尻で眉がしらを擦った。「おかしいなあ」
「映っているはずですけど。私があの位置に立ってみます。ご覧になって」
 繭子は持っていたアルバムを模糊庵に渡すと、からくり時計の前にまで歩いて行った。
「映っておりますな、あなたのお姿は」
 模糊庵がモニターを見て言った。「蝶は彼の見間違いでしょう。外を鏡のような、反射するものが通り過ぎたとか」筆を整えるかのように髭を撫でている。
 繭子は再び戻って椅子に座り、中西に向かって目を細めて笑った。
「この店では、近頃そういった奇妙なことはいろいろと起きますの。あなたの見間違いとは言い切れませんわ」
 お茶を一口飲み、顔をしかめ「やはり淹れ直してきます」奥の部屋に入って行った。 

 繭子を待っている間に、
「本当ですよ。見ました」
 中西が小声で模糊庵に言うと、
「幽霊を見た奴は必ずその台詞を言うのだ」
 模糊庵は髭を撫で続けた。
「本当ですって」
 中西の声が少し大きくなる。
「嘘だとは言ってない。このような古物を扱う店に妖の類が出ない方がおかしいのであって、見た見たと自慢する必要もないだろう」
 中西に顔を近寄せる。「大人げないぞ」
「大人げないって、まさか羨ましいのですか?」
「そんなわけないだろう。ちっとも羨ましくなんかない」
 咳払いをした。
「ほんとに?」
 中西はにやにやしながら再びペンの尻で眉がしらを掻いている。
 模糊庵と中西がこそこそ話をしていると、繭子が戻って、湯気の立つお茶の入った湯呑を並べ、さて、続きをお話します、と言うので、慌てて二人は背筋を伸ばす。
「とにかく、この小鉢揃えのうちのひとつが、最初からなかったのか、あるいはあったけれど割れたのか、割れたのではなく持ち去られたのか、持ち去られたとしたらどうして全部持って行かなかったのか、分からないままでいました。もう分からなくてもよいかと思っていたところ、ある骨董品の展示会に行きました時に、ひとつのブースの中に飾られているのを見つけてしまいました。間違いなくこの小鉢と同じ、山々と雲、そして梅の木とホトトギス」
 繭子はひとつだけ鉢を手に取って、「ところが、その見つけたもうひとつの小鉢には右の木に花が咲いていませんでした。お分かりになりますか。まるでジョーカーのようなものです」模糊庵と中西の顔を交互に見た。
「なるほど。もしもどれかひとつが割れたら、それに花の絵を描き足すってことか」
 中西は感心したように小鉢を見た。「そんな簡単には出来ないだろうけれど、ちょっとした洒落でそういうものがあってもおかしくはないな」
「西洋のカップでは半ダースということで六客をセットにすることが多いらしいが、割れた時の予備という発想もあるかもしれん」
 模糊庵もうなずく。
「私、ブースに飾ってある小鉢を見て、一瞬は欲しいと思いました。あれがあれば全て揃って、価値も元に戻るだろうって。でも、お値段を確認すると、たったひとつが五十万円もしていたのです」
 髪の束を両手で握り、リスの尻尾でも触るように何度も上から下へと撫で下ろした。小鉢を思い出すようにうっとりと遠くを見ている。絶対に欲しかったのにという表情だ。
「買わなかったのでしょう?」
 模糊庵が言うと、
「買わなかったというより、買えませんでした。手持ちのお金がなかったというだけではなくて、怖くなってしまいました。祖父が最初にこれを引き取ったときの恨みか何かかしらと思って。でも、そのブースはよく知っている取扱業者さんでしたから、そんなはずもないだろうと出所だけでもと聞いてみると、その器はある顧客から直接買い取ったものだと仰って、間違いなく一点ものだから、揃えの半端のはずはないと言い切られました。あまり言ってお商売の邪魔をしてもなんですから、その日はそのまま帰り、翌日もう一度確かめたいと思って行ってみるともう売約済みの札が下げられていました。こんな高価なものが? と驚きましたが、売れる時はそんなものです」
「どんな方が購入されたのかは確認された?」
「台湾の方だということで、それ以上は守秘義務もありますから言えないと断られました。兄夫婦にブースでの出来事を話しても、もうこの小鉢のことはどうでもよくなった、責めたりして悪かった、気にするなと言われて、それならよいかとしばらく忘れておりました」
 中西はふうんとうなずき、メモを取った後入り口の方を見ていた。あ、という表情をして、またモニターを凝視している。模糊庵の方を見て、声を出さずに「ちょう」と口だけ動かしている。模糊庵は指で場所を変わりなさいと指示をし、ちょっと失敬と繭子に言い、中西と座席を入れ替わった。
 見ると、中西の言う通り、やはり白い蝶のようなものがふわふわと部屋の中を舞っている。幽霊なのか。モニターを見ると、なるほどちらりとも映らない。幽霊かと思って見るとそのようにも思える。蝶というよりは柔らかい綿のような塊が意志を持たない埃のように舞っているのだ。目を凝らしても輪郭は捉えられない。やはり外から鏡の反射でも当てられているのだろうかとも思うが、空間にも舞い、時にはやはり蝶のように棚の上に止まって息をこらしている。
「それで、この店で起きる奇妙なこととは、どのようなことですか」
 模糊庵は入り口の白いものに気を奪われつつも繭子に話の続きを促した。中西も慌てて記録に戻ったようだった。
「なんだか時々、お店の中の器がなくなりますの。この中には高価なものばかりじゃなくて、最初に申し上げた通り、なんとなく預かっただけの中古品もありまして、そういった、取るに足らないと思っているものの中から、ひとつ、ふたつ、と消える。消えただけならば泥棒が入ったのかしらと思って、こうして防犯カメラも設置してモニターで管理するようにしたのですけれど、消えたものはいつしか戻ってもくる。器が無くなった日の映像を確認しても、そういう日に限って一度もお客様らしい客がいらっしゃっていないことが多く、妖しい人は誰も映っておりません。ですから、結局はカメラなんて無駄なことでした。それで、いっそ仏像でも彫って、守護として置けばよいかと考えて彫りましたの。彫刻は昔から好きでしたから、なんとなく彫ってみるとそれらしくなり、嬉しくて店先に置きました。すると、今度はそれが消えていて」
「どこに置いたのですか」
「会計机の前です。入り口のところに小さな椅子がありますでしょう。紫陽花の鉢がおいてある台の横。あの上に置いていました。ある日、朝見るとなかった。毎朝仏像の頭を撫でるようにしていたのですが、ない。きっとその前日に無くなったと思いました。ちょうど、珊瑚の数珠を引き取ってもらいたいと仰る方が来られて商談した日で、最初はひょっとしたらその方が持って行かれたのかと思いましたけれど、よく思い出してみると、お見送りした後、その数珠を仏像の前に飾ったので、その方が持って行かれたわけではないことは確かなのです。数珠だけは椅子にポツンと残っていた」
「で、誰を疑っておられるのかな」
 模糊庵が知らぬふりをして聞いた。草子からはこっそり行って調べてきて欲しいと言われたのだから、ここはしらばっくれるしかない。
「防犯カメラの映像に、知り合いの茶道家の方にそっくりな人が映っておりまして、数珠の商談の後の時間帯に映っているのはその方だけでしたから、きっとその人だと」
「そっくり、と仰いましたね。必ずその方だとは限らないのですか」
「だって、モニターの写真なんて、それほどはっきりとはしないものですし」
「でも、お知り合いだと言うなら、その方が来られたというのは覚えていらっしゃるのでしょう?」
 模糊庵はお茶を啜りながら女の反応を伺っていた。
「それが、実は記憶がなくて、私がこのテーブルで数珠を箱に入れたりしている間に、ふらっとこられて、ふらっと出て行かれたようでした。実際に来られたところは見ておりませんの。だから、断定は出来ませんけれど、後で映像を見て似ているような気がしましたから、悪いとは思いましたけれど、後日、道でお会いした時に、最近店に足を運ばれたかしら? と聞いてみたの。すると、あなたがお店をしていることも知らなかったわ、どうしてそんなこと言うの? と聞かれたから、つい、こうこうしかじかとお話すると、にこりともせず不愛想に、私は関係ありませんわ。その日は仕事でしたからと仰いました。ひとつの笑顔もお見せにならなくて、お怒りでしたのよ、きっと。それはそうでしょうけれど、下手すると名誉棄損で訴えられそうなほど、とてつもない真面目顔でしたから、それ以上追及することはしませんでした」
 模糊庵と中西は目を合わせた。草子が笑いもしないのは怒っていたわけではなく皺防止のためなのですよ、とは言えず、ふうん、と気まずそうに聞き流していた。その頃、白い蝶の姿はもう消え失せており、相変わらず店の中はしんと静まり返っていた。
「繭子さん、その時の映像あります?」
 中西が話を切り出すと、
「もちろんあります。お見せいたしましょうか」
 立ち上がり、奥に入って行った。》

つづく。

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