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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-外伝-5

長編小説『路地裏の花屋』の外伝『ツツジ色の傘』読み直しつづき。

《その男は中西マウルと名乗った。
 結局どこにも連絡する素振りを見せず、数日間、縁側でぼんやりと過ごした後、しばらくここにいてもよいかと言った。模糊庵は少し考えた後、倒れていた時の様子からして物書きと察しているがどうなのかと聞いた。近いものがありますと答えたので、もしも私の仏像研究論文の整理の手伝いをするならば部屋を間借りさせてもよいと提案してみると、喜んでと晴れやかな顔を見せた。衣類は近くに住んでいる娘の和子に頼んで適当なものを見繕って届けさせた。中西の素性や倒れ込んでいた本当の理由などが気にもなったが、やはり己自身が似たような状況で転がり込んだ時には、松子がほとんど何も聞かずにそばに居させてくれたのだったと思い出して、その恩返しのつもりで、中西の気が済むまで置いてやることを決意した。よく考えてみると、模糊庵自身は助けてもらったことをきっかけに松子とは結婚までし、彼女が亡くなった後にはこの家を譲り受けてもいるのだ。偉そうに勿体ぶって「早くどこかに帰りなさい」と言える身の上ではない。
 それからの中西の生活ぶりはと言うと、こちらから言わなくても朝早くに起きて庭の草取りをしたり、八百屋に買い物に行ったりと、生活上の手伝いも積極的に行うので日を追うごとに感心するに至り、書生の経験があるのかと聞いてみたが一度もないと言う。一度もないけれど書生とはこういうことをするものだと本で読んだことがあるし、ずっと一人暮らしだったから雑務はお手の物だと言った。
「それに、今のところ、どこにも行く場所がないし、追い出されてはまた門の前に寝転ぶことになりそうですから、努力しております」
 気が付くと無精髭の目立つ顔になっている。張り切って書生もどきの努力してくれるのはありがたいが無精髭が増え続けると、こちらの立場としてもなんだか近所に対しての体裁がよくない。まるで野良猫を拾ったみたいに見えるではないか。そこで、よく働いてくれるのはありがたいが、と断ってから言葉を繋ぐ。
「次に買い物に行く時には髭剃りを買いなさい。貸してやりたいが、私は髭を剃らないから用意がないのでね」》

つづく。

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