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ルーシー・リーに想いをよせて

お元気ですか?今はもう別の世界に行ってしまったけれど、あなたとは別の世界で、時々思い出しています。

まだ同じ世界にいた頃、学校の掲示板に貼られた三宅一生監修の”ルーシー・リー展“と書かれた陶器が写ったポスターを見たのが初めてのこと。その時もなんとなくだった。

友達と見に行こうということになり、中之島にある東洋陶磁美術館へ。
1989年の夏、今もまだチケットの半券が残っている。
通っていた学科の影響か当時はよく友達と美術館に行っていた。
学校を卒業してからは美術館に行く機会は徐々に減り、日常に追われて情報が入ってくる余裕がないのか、今はなかなか行けなくなっでしまったけれど、当時は自然と情報が入ってくる環境にあった。

ただなんとなく見に行っただけだったのに、一点一点見ていくうちにどれもがその人を物語っているかのような、なんだかとても感動したことを覚えている。
陶器の土っぽさというよりは艶っぽさと滑らかさ、透明のシルクオーガンジーの布をふんわりと纏わせたような優美で女性しかだせないような、それでいてそれを前面にだしていない繊細さがただ物静かに存在していた。
その日以来、ルーシー・リーという人物の存在がわたしの中に確実に植え付けられた。

ルーシーはユダヤ系のオーストリア人でナチの迫害から逃れるためにイギリスに亡命し93歳でこの世を去るが、その5年前の脳梗塞を患うまで創作活動を続けた。同年同月ドイツ統一となる。
彼女は美術学校の陶芸科にふらりと立ち寄り、ろくろに魅せられた。必然と言わんばかりに。それ以来作品を創作することだけに傾注し、それをただそれだけのこととし、それ以上でもそれ以下でもない、自分はただの陶芸家といつも謙虚な姿勢を見せていたようだ。
寡黙で静寂を思わせるその姿は作品にもよく現れているのだと思う。

戦後、創作活動ができなかった頃、実用的な釦作りの仕事をしていた頃に出会った親友のハンス・コパーは、ルーシーと一緒に共同制作の作品も手掛け、その存在は大きかったようだ。
ハンスはルーシーよりもさらに無口だったようだが、ルーシーの技術を認め後押しし、心の支えになっていたようだ。
他からの揺惑に惑わされることなく二人は自分たちのインスピレーションに従って作品を作ることに重きを置き創作した。
時間がかかったと思うが、独自の創作スタイルとプロセスの探求、良質の素材、無駄を削ぎ落としたシンプルな、ともすれば簡素とも言えるデザインは単なる陶芸家では無く芸術家である他ない。

晩年にかけて学校で陶芸を教えたりもしていたようだが、彼女は決してこうしなさいというような、いわゆる技法を教えるのではなく、自分で見つ出す、という相手の可能性を引き出し導いていた。
そのことからも陶芸に対するルーシーの姿勢がうかがえる。

作品とそれを作った人はイコールだと思う。何かに影響されることのないその人そのものだ。そして、作品を通してその人を感じるのだと思う。
好きなものには惹きつけられるそれなりの理由がある。なぜわたしが彼女の作品に興味を持ったのか、その理由が何となくわかってきた。

ルーシー・リーを思い出した時、必ず一緒に思い出す人がいる。
わたしがルーシーの事を忘れて忙しく仕事をしていた時、当時勤めていたお店に来られた男性のお客様がいる。何度か接客するうちに名刺をもらったりしていた。
そして月日が過ぎ、何となく初めて見に行ったルーシー・リー展の時に買った図録をみていると、なんと巻末に“ルーシー・リーの芸術”と称してコメントを添えているのは、もらった名刺のお客様の名前だった。
当時その方は京大や金沢の大学の教授をされていたり兵庫陶芸美術館の館長もされていて、お忙しそうだったが、忘れた頃にふらりとお店にお立ち寄りくださっていた。その方は数年前にお亡くなりになられているが、その前に丹波篠山にある兵庫陶芸美術館に足を運べて良かったと思っている。
陶芸と関わりの深い方だが、お客様ということもあり、プライベートなことを聞くのは控えたが、まさか自分の知っている人が、ルーシーのことをよく知ってるなんて!と驚いたものだった。
彼がロンドンに赴きルーシーと初めて会ったのは1969年、わたしが生まれた年だった。

時々思い出したように写真集を眺めています。
もう会う事は叶わないけれど、いつかあなたの創ったコーヒーカップで美味しいコーヒーを飲みながら、あなたの作品の載った写真集をゆっくり愉しみたいと、心秘かに思っています。

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