見出し画像

無念無想

ある一部の人達の間で「春馬くんの無念を叶える」と言われているのを目にしました。
はて?「春馬くんの無念とはなんだろう?」
まず最初に疑問に思ったことはそこでした。
確かに彼は20代半ば頃から、自分の希望や目標を口にするようになっていました。それは役者としての彼が目標とする舞台や役柄について語っていたと記憶しています。夢や希望と云うものをより確かに実現させる為に言葉にしてアピールする事によりチャンスを引き寄せる事が出来る!と云う彼なりの仕事(演劇)に対する姿勢だと感じていました。
映像でも舞台でも、歌やダンスにしてもアクティブにチャレンジしていた彼らしい前向きというよりもむしろ前ノメリな姿勢だなぁ~(笑)と受け止めています。その彼が手にするハズだった役柄…手に入れたかった景色は彼自身の目標と云うよりも、彼が作り上げたかった『三浦春馬』の通過点だったと思います。こんな作品のこの演出家と仕事をしてみたい!こんな監督さんと映画を作ってみたい…とかこの人と共演したいとか…漠然としたイメージとかでは無くて、より明確な希望として自身のモチベーションを上げる為のステイタスとして持っていたのだと思います。
それらの随所のインタビューやトーク番組で語られた話しを叶えられないままに急逝した彼の事を憂えて「彼の無念」と称されているのかな?と推察してるのですが…一般的に『無念』と云う言葉のイメージするものは『悔恨』に通じるのかな?と思います。「願いが叶わなかった。残念だ。」と思われているようです。しかし『無念』と云う言葉は仏教で使われる言葉で『念が無い…思考を無くす』と言うことです。彼らが言いたいのは「残念無念」と云う事なのでしょう。その言葉の違いについては下記のブログをご参考にして頂けると簡単に解説されています。


ちなみに
【 念とは 】
念という漢字をよくみてみると、「今の心」と書きます。無念の念を念としてとは、今の心を後に残さないということです。我々には喜怒哀楽という感情があります。自分の身に起きた良いことも悪いことも、しっかりと受け止めつつも後に残さない、感情にこだわり過ぎないことが大事であると説かれています。過去にこだわりすぎると今を見失ってしまう。ということでしょうか。
(宗禅寺 高井和正)
医王山 宗禅寺 慧光 平成30年秋彼岸号より抜粋

少し話しが難しくなってしまいましたが、余りお経に縁の無い方には分かり難い話しかも知れませんので解説代わりに上記をご参考にされて下さい。

この様に彼らの言いたいのは『三浦春馬』と云う人が悔恨を残して自ら命を絶ったとお考えのようで…何か春馬くんはそんなに命懸けで訴えたかったのだろうか?それなら何故遺書が残されていなかったのだろう?…と彼らの思考からだと矛盾点が出て来てしまうのです。

しかしわたしの個人的な意見ですが…『三浦春馬』と云う人は必要とあらば言いたい事はキチンと伝えられる真っ直ぐな人間だと思っています。コロナにより色んな事が先行き不透明な中で、みんなが手探り状態で進み始めたばかりの頃でした。精神的に疲労困憊していたかもしれませんが…何かを訴えるための手段に命を絶つとは考えられません。そしてその理由は彼が全て持ち去ってしまったから誰にも判りません。それは知って欲しくない…詮索されたくない…扱われたく無い…と云う意思表示ではないでしょうか?今さら全く関係の無い赤の他人がそれを探り彼の無念を晴らす?それこそ全く望まない事だと思います。

彼はそれこそ本当に『無念』の境地に至っていると思います。わたしたちは彼を応援するファンとして、彼の魂が安らかにあれ……と祈るべきだと思います。
そして、彼がまるで駆け足で駆け抜けて行った役者人生で遺して行ったたくさんの作品を堪能することこそが彼への慰霊になるのだと信じています。

人騒がせな話しなど持ち出さなくても『三浦春馬』と云う役者はたいへん素晴らしい人です。
彼が真っ直ぐ真摯に取り組んだ作品の数々をわたしたちも真正面から受け取るべきだと思います。

もうじき迎える1年目は区切りで無くても良いのです。人の心に区切りは出来ません。1年目、2年目と云う年忌は遺族の為のものです。わたしたちはファンなので…今まで通りに彼を愛し、彼の作品を慈しみ続ければ良いのです。極端な例えかもしれませんが、石原裕次郎さんや美空ひばりさんの様にお人柄と歌や映画が今でも語り継がれてお二人を知らない世代であっても知っている…『三浦春馬』はそんな人たちに比肩する役者だと思っています。しかし現在の様な混乱した状態では語り継がれるどころか…いつまでも静かな追悼とはならないでしょうね…ファンとしては至極残念でなりません。こういうことを残念無念と云うのだと思います。

どうか、全ての『三浦春馬』のファンの気持ちが同じ方向を向いてくれますように…  合掌

追記

むねん-むそう【無念無想】
一切の邪念から離れて、無我の境地に到達した状態。 単に何も考えていないことを指すこともある。 ▽仏教語。 「無念」は雑念を生じる心を捨て無我の境地に至ること。

『生』の執着、しがらみを離れて…いまはこの『無念無想』の世界に居るのかな…と思っています。

拙い文章への共感やサポートありがとうございますm(_ _)m