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観劇おじさん、プロデュース公演を打つので自叙伝を執筆するの巻

大変ご無沙汰しております。観劇おじさんです。

Twitterをフォロー頂いている方はご存じかと思いますが、来年2月に都内で演劇をやります。
早速嘘をつきました。私は出演しません。プロデューサーという名のただ金を出して少し口を出すだけの役割を担います。あと原案(というか世界観設定?)も担当します。

勤め先には1年前から「2023年の2月くらいに長期休暇をいただきます」と報告しており、そのための準備も着々と進めている状況です。この場を借りて御礼申し上げます。

公演の詳細はもう少し後に公開予定となりますが、本日はタイトルにある自叙伝の冒頭部分を公開したいと思います。この自叙伝は公演期間中に販売される上演台本におまけで掲載されるものとなります。続きが気になる方は是非お買い求めください(ダイレクトマーケティング)。

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本日、2022年3月12日(土)。私が生まれた1984年4月14日(土)から1978週間が経過しているらしい。来月の今頃は38歳の誕生日を迎える予定だ。そして今日から約11カ月後の2023年2月8日(水)には人生初のプロデュース公演となる『推しの為なら死ねる!(仮題)』の公演初日を迎えることになっている。この事態を誰が想定できたであろうか。当の本人ですら予測不可能な急展開が起こるのが人生であると私は考える。

親の敷いたレールに乗って自己というものを確立しないまま迎えた高校3年生の冬、GB版ドラクエ3をセンター試験前に始めて東大記念受験前に足切りされ滑り止めの第6志望の大学に合格した私は、この後もレールに乗って就活をしてそれっぽい企業に就職して30手前くらいで結婚して普通の人生を歩むんだろうなぁと漫然と考えていた。漫然過ぎて考えてすらいなかったかもしれない。ちなみに38歳目前の今、何一つ達成していない状態であることは言うまでもない。

父親から海外留学を言い渡されたのはモラトリアムに浸っていた2003年3月のことだった。曰く「お前はその大学の文学部に入ってどうするつもりだ」どうするつもりだ?何様だ貴様。お父様でしたね。当時父親との衝突を人生の無駄な時間と感じていた私は、父親の恫喝とも受け取れるような最後通告に素直に従った。父親の金で父親から逃げられるなら儲けもの、アイツから離れられるならやってやろうじゃないのと思った。実際アメリカで過ごした4年半はそれまでの人生で一番充実した時間になった。恋もしたし失恋もしたしスパイダーマンのコスプレもしたしで、かなり大学生活を謳歌した。かけがえのないモノを得たという確信がある。こればかりは父親に感謝せねばなるまい。でも中1の時にプレステ本体を叩き割られた恨みは絶対に忘れない。

アメリカ帰りの私は謎の自信に満ち溢れ何でもできると思っていたので、映像翻訳の道に進むべく専門学校の門を叩いた。まぁ実際は何もできなかったし専門学校にも入らなかったのだが。専門学校の学費を立て替えてくれた親に返そうと思いバイトに応募するも5件連続で不採用、面接の受け答えに問題があると思って面接の練習をしに適当に応募したIT人材派遣の会社からまさかの内定が出てしまったので流れで就職することに。仕事の内容に見合う手取り16万くらいの給料をもらい趣味のカードゲームを再開した頃にキャバクラに通うようになった。通いすぎて通帳の残高が3桁になった事もあった。それでも人生は楽しいと自分に言い聞かせながら2交代制の24時間監視業務をこなし、夜勤明けに歌舞伎町の朝キャバでストレスを発散する日々が続いた。ガチ恋はこの頃に経験済みなので今の推し活は心穏やかだったりする。

転機になったのは吉祥寺の飲み屋街に川崎から終電で通っていた2010年。吉祥寺シアターに行く途中にあるパチ屋の裏の暗い感じの辺り、イチャイチャカラオケパブという謎の業務形態のガールズバーともキャバクラともつかない店(現在廃業済み)で奇跡的な出会いが発生する。「劇団に所属してて、お芝居をやってます」それまでの人生において演劇というものに接点がなかった私はへーそうなんですねぇと言いつつ「じゃあ明日の稽古、見学しに行きますよ」と朝マックをほおばりながら謎のノリで答えていた。九品仏の公民館で稽古があるとのこと。稽古がある?稽古ってんだろうと思いながらいざ公民館についた私を襲ったのは緑茶の毒霧だった。バナナ学園純情乙女組という団体を知ったのはもう少し後のことだった。どこまで力になれるか全くの未知数だが何とかしてバナ学の公演に関わりたいと、稽古場見学をした日に思い立った。実際の公演を見る前にこれほどの衝動に突き動かされたことからも、如何に強い衝撃が当時の私を襲ったのか想像に難くない。当時のメールもまだ残っていて今読み返すととても恥ずかしくなる。任天堂の問い合わせ窓口にゲームが好きなので何もできないけど雇ってくださいと連絡するのと何ら変わらない愚行だ。丁寧な返信をしてくださった当時の制作様に、この場を借りて御礼を申し上げたい。結果的には夜勤などで不規則とはいえフルタイムで働いている身でスケジュールの折り合いをつけることなど到底無理で「次回公演を楽しみにしています」と添えてこのやり取りは終わる。会社を辞めてこの身を捧げるまでの衝動ではなかったようだ。勿体ないことをした。

この後池袋のシアターグリーン BIG TREE THEATERで弟と共に観劇した『バナ学バトル★☆熱血スポ魂秋の大運動会!!!!!』ではビニールシートとゴミ袋で完全に客席が目張りされた状態で開幕と同時に水風船爆撃を受けジーパンが浸水、帰りに駅前のGUで代わりのジーパンを購入しようとして取り出した財布からワカメが出てくるハプニングに見舞われるなどした。客席から舞台上に生烏賊が投げ込まれる作品は後にも先にもあれだけだった。

所謂小劇場演劇というものを知ることになるのはもう少し後の出来事だったりする。バナ学でカルチャーショックを受けた私は客演のお誘いに軽率に行きますと返事をした。映画とも小説とも違う未知の経験が出来るチャンスを拒む道理はない。体験したことのない感動を再び得られると信じて下北沢駅前劇場で観た芝居は最高の出来だった。後に推しが出ることになるMUという劇団の短編集を堪能した私は、お誘いが来ると観に行く程度の観劇人の端くれとなっていた。

人生の転機はいつでも牙を剥いている。王子に移り住んで3年目の2015年2月、王子小劇場で出会ったレティクル東京座の『學園使徒ノクト』に人生を狂わされる。大量の紙吹雪が舞う中でバチバチの照明とガンガンの音楽に彩られた舞台はそれまでの感動体験を圧倒的に凌駕する存在だった。出演者の次回客演をTwitterで調べ上げ片っ端から観に行き次回本公演があれば絶対観に行くと心に決める程の体験がそこにはあった。その約1年後に観たレティクル東京座本公演の最中に「全通チケットを買ったのに忙しすぎて全通できなかった」ことを理由に転職を決意、ついでにキャリアアップに成功。間違いなく人生の進む方向を間違えつつ演劇の世界にどっぷりと浸かる日々が続いた。

レティクル東京座との出会いはもう一つの転機でもあった。推しとの出会いである。

最初は「仲間内で誰もこの人を推していないなら、推してみよう」と重度の逆張りオタクっぷりを発揮していた私も、正確には覚えていないが、気付けば推しの一挙手一投足を追うべくTwitterに張り付く生活を送っていた。当時の彼女に生活費は出してもプレゼントのひとつも買わずにいるくせに、推しがTwitterで欲しい!と呟いたものや好物を現場に行く度に差し入れし、長ったらしい観劇の感想をタイムラインに垂れ流し全力で小劇場演劇を楽しんでいた。推されとオタクの関係性は数あれど、私と推しの関係性は幸か不幸かかなり特殊なものとなっている自覚があるし、おそらく推し当人にもそう思っていただいている認識がある。ここで推しに関して何かを語るよりも、私のTwitterアカウントを見ていただいた方が遥かに分かりやすいと思うので詳細は割愛させていただくが、スタンドフラワー童貞と等身大パネル童貞と高額スパチャ童貞に関しては卒業済みである。

兎にも角にも、私の生活は推し活および小劇場演劇を原動力としたものに完全にシフトしていた。そのせいで、3年間悪夢に襲われることになる。そう、コロナ禍である。

箱推ししていたレティクル東京座は2度の公演中止を経て解散、推しの舞台出演もことごとく中止や延期、その他楽しみにしていた予定が消滅していく様は文字通り地獄だった。原動力を失った私は労働意欲はおろか生活意欲すらまともに湧いてこず、googleで山奥ニート生活について調べたり辞表を書くために便箋を買ってきたり(結局書かなかったが)本当に心が死んでしまったような状態になっていた。
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続きが気になりましたか?気になりましたね???すべて実話、ノンフィクションです。

劇場で、おじさんと握手!!!
※感染症対策の為プロデューサーとの面会などはございません


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