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あなたのかわりに僕が気づくことはできません。
気づくことは非常に個人的な体験だからです。

僕が何かに気づいて、
興奮気味にあなたにそれを伝えたとしても
それはただの情報です。

その情報で同じことに気づく保証は全くありません。
いや、むしろ同じことに気づくことは非常に稀です。

気づきをそのまま、
誰かに渡すことはできないのです。

そして、
自分が何かに気づくタイミングを選ぶことはできません。

気づきとは、言うなれば
出会い頭の事故みたいなもの。

いつ起こるかなんて、
誰にもわからないし、コントロールできないのです。

だけど、いつか誰もが重大な気づきを得ます。

なぜなら…

その気づきとは、
人生が何でできているか、ということであって、
自分自身とは何か、という謎であって、
宇宙がそれで出来ている、という気づきだから、です。

気づきが自分の本質であった、ということに
いつか気づかざるを得ないのです。

それは今日か明日か、10年後か
それとも100年後か1000年後か…

必ず、その時は訪れます。


気づきは目の前です

もしもあなたが、
気づきというものに興味を持っているなら、
もう気づきは目の前です。

だけど、それがいつになるかはわかりません。
今世ではないかもしれません。
誰も全く保証はできません。

だけど、
そのときをぜひ楽しみにしてください。
その気持ちだけで十分です。

僕はこんな大袈裟な文章を書きたくなるのだけど、
それは、全然大したことではないのです。

気づきを得たとき、
「今までもずっとそうだった」ことに気づくでしょう。

その中にどっぷりいては
ただただ、気づきにくいだけのことです。

もしも、世界中の人の身長が同じだったなら、
身長という概念に気づくことはできるでしょうか?

そんな簡単なことを、
おそらく誰も発見できないでしょう。

背の高い人、低い人がいるから、
身長という概念を感じることができるのです。

だけど、
みんなの身長が同じだったとしたら、
同時にそんなこと(身長という概念)は
どうでもいいことでもあるでしょう。

僕が難しく、あーでもない、こーでもないと
書き続けているのはそういう類のことなのです。

気づきやすくする方法はありますか?

気づきやすくする方法はいろいろあります。

先人が昔からやってきたことです。

例えば、瞑想とか禅とかは
そういうことに特化した手段です。

今風なものだと、
断捨離なんかもそういうふうに見えます。

自分探しの旅とか?
マ〜どうでしょうねぇ…
あらゆる全てが気づきへ向かう旅であるとも言えますが。

厳しい修行なんかもありますが、
厳しいか厳しくないかは
気づきとは全然関係がありません。

厳しい修行をして気づく人もいるでしょうが、
厳しい修行ってなんですか〜
みたいな雰囲気で気づく人もいます。

そんなのは、なるべく楽な方がいいと思いますが
そのあたりも人それぞれですね。

イバラの道が好きな人もいます。

気づくことは偉いこと?

何か重大な気付きを得たからといって
その人が偉い、ということは全くありません。

もちろん、そういうふうに考える、捉える人もいるでしょう。

商売にしちゃう人もいるかもしれません。
高額なセミナーとか、壺を買ったらいいとか…

だけど、
誰も偉くなんかないという当たり前のことに
気づくことでもあるのです。

気づきへの道は
ただのおじさんになっていく道です。

小さな気づきを得ながら、
ただの人になっていくのです。

気づきによってスーパーマンになるとか
超能力が開花するとか、
才能が溢れ出すとか、
そういうことは何もありません。

残念ながら。

気づきとは非常に重要だけど、
同時に本当にどうでもいいことなんです。

ま、生きやすくはなるでしょう。

一生、言葉にできない

いや〜しかし、
気づきを「得る」という表現は語弊がありますね。

何か重大なものを拾う、
みたいなニュアンスになっちゃいますね。

拾う(?)前からずっとそうだった、
ということに気づくことなんです。

何かを拾うとしたら、
100万円とかの方がいいかもしれませんねぇ。


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